きょうのことばー『揺るがない土台に』その2
※前ページの続きとなっております。
きょうは先に詩篇の23篇を読んでいただきました。それは、きょうの仙台の3・11の合同追悼礼拝のプログラムの中に慰めの詩篇としてこの詩篇23篇が表紙に示されておりました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」
きょうはこの御言葉が自然に口を衝いて出てまいります。
余談ですが、3・11の大きな出来事が世界に報じられ、日本がこれから何とか再建に向かおうとしている中に、そしていま尚継続している原発問題のただ中に、日本の表玄関であります東京の方には世界中から色々な人たちが来ています。先頃中目黒教会に出席しておりましたA姉妹によれば、中目黒教会でちょうど3・11を踏まえての礼拝が行われていたときのことです。宣教師の先生方もいらっしゃり日本のために心から祈り支援を語ってくださっていたそのような集会に、途中から幾人かの外国の方々が入って来られたそうです。会衆席の誰もが、恐らくここにいらっしゃる宣教師の御家族か関係者の方がいらっしゃったのだろうと思っていたそうです。ところが、礼拝が締め括られる頃合いに、勿論通訳はないわけですが、その方達が立ち上がって、「日本がこれほどの災害に遭うのは、神から離れ堕落した生活をしているからだ。これは神からの警鐘だ」と英語で大声で言ったそうです。竿代先生は即座にその人達を指さして、「出て行きなさい。黙れ。ここは礼拝する場所だ」と仰った。それを許さなかった。これは見識だと思うのです。
私たちはよく、いったいどうしてこういうことが起きたのだろうかと思う。突然起きた受け入れがたい苛酷な状況、不条理に直面する。神さまどうしてでしょうかという疑問が湧いてくることが正直あるのです。しかし詩篇46篇には、「わたしこそ神であることを知れ」とあります。なぜ、どうして、そのとき、私たちが知っているのは、私たちすべての者が滅ぼされて当然であるところに、神がそのひとり子をこの世に与えてくださったということです。神さまは揺るがない救いを為してくださったというこの事実にいつでも戻るのです。具体的になぜあの人が、なぜこの国がなぜアフリカが、飢饉や貧困やテロや様々な不条理に遭うのか、この問いに対し私たちは答えに窮する。しかし私たちはそれ故に不信仰になることは決してない。なぜなら私たちは知っているからです。揺るがないほんとうのもの。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。
この神さまの御言葉に私たちは自分の存在のすべてを置いている、それ故に私たちは揺るぐことがない、きょうはこのように皆さま方に申し上げたいと思うのです。
先ほどつい中目黒のことが思いだされました。恐らく皆さん方も礼拝の場であの外国の人たちが言ったことを決して認めることはできないでしょう。そのときに言うべきではない。言ってはならない。もし自分の身内が、自分の愛する者がそこに被災者としていたなら、彼は、彼女はそのような発言をどうしてできるでしょう。聖書は決してそれを言っているのではないと確信します。ですから、竿代照夫先生が「ここは神を礼拝する場所だ、出て行きなさい」と仰った意味を私たちは自覚するべきであると思います。
詩篇の46篇がなぜきょうのテキストとなったのかは既にご承知でしょう。大きな山が崩れ海に移るようなことがありました。それぞれ皆さん方一年前のきょうを思い起こされることと思います。私の書斎でも停電で真っ暗な中に、パソコンが半分落ちかけておりました。本箱が崩れてしまったものですから、そこまで辿りつけませんでした。途中で諦めて停電が回復するのを待ちました。13日の日曜日、10時15分ごろに漸くこの辺り一帯に電気が点きました。取りあえず小さな石油ストーブで急場を凌いだことを思い出します。この時点ではまだT姉妹のお母様がおられる陸前高田やS兄弟のご実家がある山田がどうなっているか分りませんでした。しかしそれから次第に沿岸の甚大な被害を知ることとなりました。
今また都市直下型地震が予測され、また茨城の方でも盛んに地震が続いている。そのような中で、私たちはほんとうに危機意識ができているでしょうか。必ず危機はきます。しかもそれが震度7強というようなそれであったとすれば、いえそれを私たちに当て嵌めてみるとすれば、私たちは永遠に対する備えができているでしょうか。すべてのものを揺り動かす、この地上に於いてどんな生活をしてきた、どんな生涯をたどってきたかということも全部根底から揺るがされて、神に会う備えができているのか、死に対する備えができているのかということは、必ず私たちが直面する大きな大きな避けられない事実です。そのとき、私たちはどこに避難場所を持っているでしょうか。震災時の状況が今さまざまに報じられています。特にあの鵜住居の方でしたでしょうか、釜石の方とか、市が指定して居たはずのところが、実はそうではなかったと市の方々はいうのですけれども、すこし前にそこで避難訓練をしたばかりというときに、多くの人たちがごく自然にその避難に指定されているところに行ったところが、大きな悲劇がありました。もう枚挙にいとまがありません。ここは大丈夫だと思っていたところ、それが悉く不適合性があったという事実。これまで拠り所と備えていた所が実はそうではなかった。私たちはどこに永遠の命、神に会う備え、その避難場所を持っているでしょうか。「神はわれらの避け所、また力、苦しむときそこにある助け」。私には揺るがない神の都があると詩篇46篇にありましたけれども、その揺るがない都は3本の柱で支えられている。建築に詳しい方ならばその地下に打ち込む杭それが深ければ深いほどそして大きな地盤にしっかりと或いはパイルというんですか、そういう柱がしっかりと土台に打ち込まれているとき、そこに建設されている建物は揺るがないとするならば、私はこのキリストの十字架の事実がしっかりと打ち込まれているならば、その下にある土台は何かと問われたならば、私は聖書だと言います。それ以外に私たちが依って持って立つものが無いのですから。聖書に預言されていたとおりにどんとそこに打ち込まれているのがキリストの十字架であり、神の愛です。そしてもう一つはキリストの復活。これもう柱は既に打ち込まれている。そしてキリストの再臨、これは揺るがない私たちの希望です。これが聖書という土台にしっかりと深く打ち込まれている。ここに揺るがないほんとうの避け所が用意されているのです。
聖書はローマ人への手紙10章11節でこういっています。
「彼に信頼する者は失望させられることがない」
パウロがこう言うのです。パウロもその拠り所として聖書を引いている。色々な時代の思想があります。時代の哲学というものがあります。様々な文化があるでしょう。しかし聖書はずっと今日に至りますまで、人類の歴史の中で様々に試され試されて揺るがないものとしてありつづけています。私は知らないから平気で言えるのかもしれませんが、ホーキング博士がおります。イギリスの理論物理学者です。宇宙に関するさまざまな理論を発表しています。考えると胸がわくわくするのですが。どうも彼は所謂クリスチャンではない思想信条を持っている方のようであります。天国というものは無いと彼は彼なりの緻密な論理でいっているのでありましょう。私はホーキング博士がどのように素晴らしい知性の持ち主であったとしても彼のいうことにすこしも揺るがされることはない。なぜなら、イエスさま御自身が聖書というものに立脚しよみがえられている。そのイエスさまがエマオ途上で御言葉を通して語られたことを思い起こします。聖書にいっていることがすべてなんです。人がどんなに小賢しい様々な理論を言おうとそれは何の意味もない。イエスさま御自身、イエスさまよりも賢くなってはいけない。サタンでさえも聖書のことばには怖じ気づいているわけですから。
聖書です。「神は我らの避け所、また力。苦しむときそこにある助け」。そこにある助けとは「テスト済みの」という意味のことばが使われて訳されている。もう何回も何回もテストされて大丈夫であるもの、これが私たちの信じている聖書なのです。そこにしっかりと柱を打ち込まれて私たちはそこに揺るがないところの避け所を持ってそこにいる、そこに備えていなければならない、いつでも私たちはそこに駆け込むことが出来る。3・11のきょうを思いますときに一人一人が本当の意味の避け所、ほんとうにこのイエスさまにあるのだということを確認をしていただければと思うのです。
そしてきょう、皆さん方に一つの歌を御一緒に信仰の告白として歌っていただければと思います。クリスチャンに親しまれているヘンデルのメサイアという曲がありますが、この歌は現代のメサイアのような歌として今の私たちの世代に受け入れられるものではないかと私は思っております。
天のエルサレム
聖なるエルサレム
天のエルサレム
夜がないエルサレム
神さまの手で
この目の涙
拭ってくださる
慰めの都
悲しみがない
苦しみがない
死の恐れさえ
過ぎ去った都
天のエルサレム
聖なるエルサレム
天のエルサレム
夜がないエルサレム
永遠という約束を手に
旅の終わりに
たどり着く都
目指せエルサレム
届けエルサレム
目指せエルサレム
夜がないエルサレム
夜がないエルサレム
※若干の聞き間違いがある場合がございます。誤記、誤表記に気づかれました際はご指摘ください。文責:中ぶんな
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