きょうのことば 『聖餐のテーブルを共に』ー年会送別礼拝ー
2012年3月18日(日)、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお届けします。
いよいインマヌエル綜合伝道団では3月19~21日、弟67年次年会が開かれようとしています。いろいろな面で区切りのときであることを覚えます。そしてきょうはご案内の通りに聖餐式をさせていただきたいと願っていることでございます。
きょうは第一コリントの11章23~26節です。24節にはイエスさま御自身の御言葉が出ています。
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
パウロはここに他の誰でもないイエスさま御自身が仰ったことを書き記しております。私たちがきょう与ろうとしている聖餐のテーブルは、イエスさま御自身が命じられたことであり、2000年の間守られ、私たちも変わらずにそれを守っている貴い儀式であることを覚えます。パウロはコリントへ手紙を少なくとも3通書いている。新約聖書の中に収められているのは第一コリント、第二コリントの2通です。AD55年頃エペソにいたパウロがコリントに宛てて伝道旅行の最中に書きました。
これから守ろうとしている聖餐のテーブルについて3箇所お開きします。
マタイ26章17~20節
17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
18 イエスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
19 そこで、弟子たちはイエスの言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
18節の「あなたのところ」とはマルコの家であろうと言われています。イエスさまが十字架につかれる直前に弟子たちと共にとった最後の食事です。それを記念していつまでも行うようにと私たちに時代を超えて聖書の中で命じておられる。教会はそれを守っているのだと知っておかれるとよいでしょう。
同じくマルコ伝14章12~16節
12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の子羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
13 そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。
14 そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。
15 するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
16 弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。
同じくルカ22章7~13節にも記されています。
7 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。
8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」9 彼らはイエスに言った。
9「どこに準備しましょうか。」
10 イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家までついて行きなさい。
11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。
12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」
ここに出てくる過越の祭りとはユダヤの人々の三大祭りの一つです。BC1400年頃イスラエルの人々はエジプトに捕囚となっていました。神はモーセを遣わしエジプトに10の災いをくだしてエジプトからイスラエルの人々を脱出させますが、その最後の災いがエジプト全土の長子を皆殺しにするというものでした。ただし子羊をほふりその血を柱と鴨居に塗りつけてある家は過越し災いをくだしませんでした。イスラエルの人々はこれを実行しました。こうして神はエジプトを打ちイスラエルを脱出させてくださった。これを記念し神に感謝を捧げるのが過越の祭りです。脱出するときに大急ぎでパンを作らなければならず、発酵を待っている暇はなかった。そこでイスラエルの人たちはイースト菌を入れないパン、つまり種なしパンを作ったのです。過越の祭りはユダヤの人たちにとっては建国記念日ともいえる最大の祭りとなっています。
さてパウロは、第一コリント5章7節に、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」と書いています。これは何を意味するのか。それは本物の一つの陰のようなものがモーセの出来事でありました。モーセを通して十戒が与えられております。神から離れて罪を犯している者たちは例外なく神に裁かれ死に至るのです。それから逃れることは誰もできない。しかし憐れみ深く愛なる神さまは、裁かれなければならない私たちの代りにまことの子羊であるキリストさまを十字架にお架けになった。イエスさまが私たちの代りに罪を一身に背負って十字架の上で神の裁きを受け血を流してくださった。モーセの時代にそれを鴨居と門柱に塗りつけた者が赦されたと同じように、誰でも私の裁かれねばならない罪の身代わりとしてこのお方が十字架の上で血を流してくださったことを受け入れるとき、それはまさにエジプトで門柱と鴨居に子羊の血を塗った家を主の使いが過越して行ってくださったように、キリストの十字架の血潮の故にその中に潜んでいる私たちを過越してくださるのです。ヨハネ1章29節に「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言われております。
いま私たちが与ろうとしている聖餐を、イエスさまが「記念としてこれを行うように」と命じられるのにはそのような意味があるのだということを心に留めておきたいと思います。
それから聖餐のテーブルについてもう一つ。食卓を共にするとき、そこは交わりの空間です。たとえば家族が一緒に食事をするとき、それはただ栄養を摂ることばかりではない。どの時代でも一緒に食事をすることは交わりを共にするということなのです。最後の晩餐でイエスさまはお弟子さんたちと食事を共にしましたが、そこには豊かな交わりがあったことでしょう。一緒に同じものを食べるということは命を共にするということを象徴しています。またエマオ途上で弟子たちはよみがえられた主イエスさまから聖書の説き証しを一緒に歩きながら聴いていながら、話しているのがイエスさまだと気づきませんでした。家に入って食事を共にしたときにやっと弟子たちの目が開かれてイエスさまだとわかったのです。イエスさまと一緒に食事をするということは、深い霊の真理を私たちに分らせてくださるものなのだと思いました。またイエスさまはよみがえられてから、ガリラヤ湖の岸で、不漁に気落ちしているお弟子さんたちに食事を備えてくださいました。
皆さん方は晩餐会に招待された経験がおありでしょうか。主催者の招待がなければその食卓に与ることはできない。その方と一緒に食事をする、これがどんなに光栄で祝福に満ちたものかは容易に想像することができます。これから守ろうとする正餐式はイエスさまが命じられた正餐式、イエスさま御自身が一緒になって共に食してくださる。兄弟姉妹方と一緒に食事をするのは豊かな交わりだと申しました。教会はまさにそうです。一歩進んでイエスさま御自身が一緒にその食事に与ることなのです。しかしさらにもう一つ、深い意味が正餐式にはある。これを確認したい。それは主イエスさまを食するということです。つい先ほどは主イエスさまと一緒に食事をするといいました。それだけでも光栄なことですが、さらに進んでイエスさま御自身を食するという意味があります。どきっとします。でも聖書はいうのです。ヨハネ6:53
53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」
もう一つ
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
まさに私たちは正餐のテーブルでイエスさまを食するのです。イエスさまは十字架で私たちのために粉々に砕かれた。そのお方の御身体が流してくださった血潮をいただくとき、そこに思いをこめて御身体を頂戴するわけです。イエスさまはほんとうに砕かれたお方です。私たちはそれを食することにおいて一体とされる。そしてまことに「キリスト我が内に生くるなり」と告白できるのです。そしてイエスさまは、私の終わりの日までこれをするようにと仰いました。磁石が鉄に反応するように、私たちがイエスさまの命を持っているならば、やがてイエスさまが王の王、主の主としてこの世に再臨されるときにはそのお方に感応する。そして天にあげられたときに、私たちは子羊の婚宴というすばらしい主イエスさまの交わりの中に招き入れられる。ほんとうに希望が溢れます。イエスさまはその時まで、聖餐のテーブルを共に守りなさいと仰る。兄弟姉妹方、どこの教派のものであろうと、キリストの御身体に一つとなって聖餐に与るときの交わりの豊かさ、そしてそれに招いてくださるのは主イエスさまです。天国の食事の前味わいとして私たちに与らせてくださるのです。そして更に言うのなら、私たちが十字架で砕かれ尽くされたお方の十字架の恵を命に同化しているなら、主のおいでのときに、それに感応して天に引き上げられ、豊かな羊の婚宴に招かれて天の豊かな食卓に与ることができるのであります。どうぞそのことを心から期待し希望し祈りながら聖餐に与らせていただきたいと存じます。
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