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2012年3月

「南海トラフ」巨大地震 & 「ぶどうの木」

 今晩のTVニュース、最近は素晴らしい映像がたくさん映し出されるために、ついつい見過ぎてしまうのだが、続くニュースタイムで南海トラフ巨大地震津波予測を知った。西日本大震災ともいうべき予測だ。
 南海トラフは四国の南の海底にある深さ4000メートルの溝のことだそうだ。非常に活発で大規模な地震発生地帯だという。(Fresh eye ニュースより)
 震度分布は5パターンを想定して最大震度が6弱以上が24府県687市町村の約6・9万平方キロに及び、このうち震度7の地域は静岡、愛知、高知など10県153市町村となっている。津波予測は、高知県黒潮町の34・4メートルをはじめ、11都県90市町村で10メートル以上。静岡県御前崎市の中部電力浜岡原子力発電所付近は、震度が7、津波は21メートルと予測された。(YOMIURI ONLINEより)
 静岡には義姉一家も暮しており他人事ではない。浜岡原発の25キロ圏内だ。

 逃れ場はあるのか。

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 なぜここでこんなカップの写真が?
季節はずれで葡萄の蔓と葡萄の写真がない。そこでこのカップの登場となった。
安全策は最大限に模索し、避けられるだけ避け、もしひとたびそのような事態になったなら、逃げられるだけどこまでも逃げ延びて欲しい。しかしここに究極の逃れ場がある。

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

 これはイエス・キリストのことば。悔い改めて十字架を信じると、ぶどうの枝になれる。このぶどうの木に連なっている限り永遠に生きられる、つまり霊的に死ぬことはないそうです。

 選択はある意味ご自由。5千万出して買える、1億かけて得られる安全策の方がよっぽど信用できるという方、それもこの世の一つの手だてです。しかし聖書が提示する命の門の入場料はただです。通行手形はキリストへの信仰、これだけです。

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カメムシ来訪

 今晩もパソコンの前に座ったのは10時すぎ。またまた夜更かし習慣となっている。まずいと思いつつさて何を書こうかとつらつら考えた。消費税案の閣議決定? 増税はある程度仕方がないと思っている。何しろ借金地獄のお国柄。ギリシャが身近に感じられてならない昨今だ。もしこれが一個人の家の借金か一事業主の借金だとしたら、取り立てに追いまくられ、差し押さえとなり、銀行も取引停止。これ以上融資してくれるところはなくなるはず。それでもさらに借金で成り立っている国というものの摩訶不思議さ。
 友だちはTPP に反対して! という。勿論反対、大反対。しかしどこかに小さな川の流れは簡単に堰き止められるが、もはや河口に近い大河となっているこの流れは誰が反対しようとも堰き止めることはできない、そんな諦めというよりも、反対してもTPP参加となる、言い方を変えようともやはりこれは諦めなのか。
 次にはこのブログはそんな大層なことを書くところじゃなかろうという思いになり、最後には大臣が辞表だなんだとガタガタしている有様を見ているよりは、自然の有様に眼をこらしている方がよほど励ましや温かさ慰めが得られると机上から身の回りを眺め回していた。縁が1ミリばかり月形に欠けたコーヒーカップに目が留り、鉢植も廊下に出してしまったし花もない、この縁の欠けたカップ、「いのちいっぱいじぶんの花を みつを」と書かれたカップでも眺めているほうが政局よりまだしも面白いと思っていたそのとき、どこかから羽音が聞こえてきた。そして現れてくれたのがこのカメムシである。

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 慌てて階下に下りカメラを掴んでもどると、ファイルの上にまだ止まっていてくれた。そしていま、ファイルの「凱旋」と書かれた文字の隣に休んでいる。この虫一匹の方が今は気持が安まる。鉢植に棲息していたものが、いつの間にかここに、この時間に、しかも私がこの椅子に座ったばかりのこのときに移動してきてくれたのだ。

 そういえばカメムシについてまだよくわからない。せっかくの来客が何処の何者かも知らないまま迎えるなど礼儀を失している。礼儀作法に疎い自分がいうのも可笑しなことだが。

 カメムシはヘッピリ、クサンボとも呼ばれ、何とも気の毒なニックネームの持ち主。臭い臭いとネットには排斥方法がゴロゴロしている。卵は蛹の時代もなく羽化するようだ。不完全変態などと小難しい言葉を使わぬほうが親しみが薄れない。カメムシの臭いは仲間への警報だという。危険、危険、危険、はやく逃げて!素早く逃げて!! まるで防災無線だ。ただカメムシの悪臭はカメムシにとっても有害。仲間がこの臭いで死に至ることも。何とも因果な体質である。カメムシのグルメは葉、茎、果実、種子の液や菌類。他の昆虫や幼虫を食べたりドラキュラよろしく吸血をやってのけるカメムシも。しかし写真の我家の賓客は植物の液だろう。もう食事を済ませてきた気配も。ハーレムを形成するカメムシもいるようだ。集団越冬するものがあり、また人家を越冬場所に選ぶものも。というわけでどうやらこの家が越冬最適の地と認定されたのであろう。ただしこの一匹でも漬け物桶に入り込んだが最後もう使い物にならなくなるとか。だが我家に現在漬け物を食べる習慣がなく、従って漬け物桶もない。

 カメムシはいま自分がこのように紹介されているとも知らずにスタンドの中途まで上ったり、やまぎし弦楽アンサンブル10年の歩みと書かれたA4用紙の上を散歩したり、羽音をたててパソコンに飛び移ったりしている。

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残された時間

 きょうという一日も決して無意味ではないはずで、それが自分の意向に添おうが添うまいが、それは意味のある理由のある一日であるように思う。
 午前中はガラス拭きと作業、つまりは何らかを書くこと、文字を連ねることに費やす。炊事、洗濯などは勿論書くまでもない。
 午後1時、ちょうどすこし疲れを覚えていたところに友だちからの電話。そうだ文芸誌を届けるといいながらまだ届けていなかった。風はすこし冷たいが久方ぶりの青天。歩こう、歩かなくちゃ、と思いつつもある区間はバス。徒歩&バス。しかし上田にある友人宅に着くころにはぽかぽかと陽が射してきた。友人宅の庭の日だまりにチューリップが芽を出していた。シャクナゲやカラミンサも見事に咲く気配で陽に向かい居ずまいを正している。
 チャイムを押すと「開いてます」と声。彼女の部屋もぽかぽかと暖かだった。ペットの猫の姿が見えない。お茶をいただいているうちにパソコンの陰から現れた。ここがいつもの隠れ家になっているようだ。彼女が空の紙袋を持ち出して床に置くと中に何が入っているかを確かめにやってきた。紙袋に顔を突っ込んで動かしている。
 明日からはまた天気はよくないということで一緒に歩くことに。私の帰宅方向に散歩。そしてコーヒー店で一休み。いま彼女が読んでいる本の内容に耳を傾ける。そして彼女お勧めの鶏料理を今晩作ることにした。途中スーパーに立ち寄り買い物を終えて出ると、こんどは宮古市のときに同じアパートに暮したYさんとばったり出会い立ち話。去年会ったときに宮古時代の人たちを誘って温泉に行こうと提案した彼女。実現するとは思っていなかったのだが、年が明けると彼女は参加者を誘い手際よく鶯宿温泉の偕楽園を予約し4人で宿泊、宮古時代の話しに花を咲かせることになったのだった。それが今度は秋田へ行こうという。こんどは何人集まることになるのか、果たしてそのとき私の都合がつくものかどうか。何れにしろパワフルなYさんだ。別れてすぐにまた新しいパン屋さんができたことに気づく。これもチャレンジ、ただじっとしているよりも、黙っているよりも自分の技術、才を生かしてみようというチャレンジなのだろう。
 富士見橋から川面を見る。白鳥はもう大方帰ったようだ。この冬の居心地はどうだったろう。ベンチで帽子を目深にかぶったご婦人が景色を眺めている。傍らを通り過ぎてまた帰路に着く。一歩踏み出すごとに地上の時が一歩消えてゆくような気もする。許された残された時間をまた踏みしめる。
 

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アフリカのはたらき人

 テレビに世界遺産となっているケニヤの自然公園の豊かな動物たちのようすが映っていた。やはりア  フリカといえば真っ先にこういった動物たちやサハラ砂漠などが思い出される。最近では資源目的の中国企業の進出とトラブルなども思い浮かぶ。アフリカもめまぐるしく様変わりしているはずと思っていた。ところが、ちょっと古いけれども1997年で8刷発行となった蔵前仁一署「ゴーゴー・アフリカ」を読みながら、一般の人々の暮しというのは、今でもそう変わってはいないのではないかと思った。

 アフリカに興味を持ったというよりは、インマヌエル綜合伝道団からケニヤのテヌウェク病院に医療宣教の派遣をしている。蔦田就子宣教師だ。この先生のブログ「音ノート」を訪問させていただいているが、仰っておられる現地の困難さを背景を理解して読みたいという思いからネット検索や著書を開いている。

 停電、医療機械、器具の故障、部品の行方不明は日常茶飯。車も部品が一つ破損しただけでも容易に手に入るとは限らない。ベッドは常時満床。手術をしても回復室は空いて居らず、そのまま手術室で回復を待つために次の手術ができない。手術予定の患者が一日、二日と待たされ怒って帰ってしまう事態も。このような中で医療が行われている自体が奇蹟であると思う。日本の東北、仙台で3月に開催された東北・希望の祭典に協賛したサマリタンズ・パースはこのテヌウェク病院の増築にも寄付しているが、いずれこのような寄附がないとやってはいけないだろう。常時人手不足でもある。ブログは淡々と綴られているけれども。

 はじめは状況を理解しようと必死で読み進んでいたけれども、すこし理解できるようになると、このような状況下に奉仕をしておられる姿に涙を禁じ得ない。このような働きによって辛うじてこのような国々に対して政治、経済の利害とは関係のない人間的な行為がとられているように思う。マザー・テレサはカトリックの方だけれども、それ以外にもノーベル平和賞に匹敵する奉仕をしておられる方々はまだまだ多くいらっしゃると思う。

 

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岩手・宮城震度5弱

 震度2、3では驚かなくなっているが、今晩8時頃震度5弱の揺れにはまた原発か津波かと不安が過ぎった。そして自分を点検している自分がある。家は倒れず、塀も倒れず、樹木も倒れず、そして自分も倒れてはいない。家族も無事であることに感謝したい。

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               神はわれらの避け所、
              また力。
              苦しむとき、
              そこにある助け

              それゆえ、
              われらは恐れない。
              たとい、地は変わり
              山々が海のまなかに移ろうとも。

              たとい、その水が立ち騒ぎ、
              あわだっても、
              その水かさが増して
              山々が揺れ動いても。
    
                 (詩篇46篇から)

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期待と共に

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 午前中に寛ぎながら、きょうはなかなかエンジンがかからないなと思ううちにはっと気づいた。祈りだ。曖昧模糊とするときにその霧を晴らすのに効力を発揮してくれるのが祈り。最低きょう為すべきことを為さしめてくださいと祈ろうと思いきや、銀行口座に支払いの入金をしなければならないことに気づいた。危うく忘れるところだった。きょう為すべきことを遂行できますようにと祈った。
 朝にその一日に期待して始めるかどうかでも一日が違ってくるように思う。新しい一日には必ず新しい何かがあるはず、そう期待した日にはほんとうにささやかな感動がもたらされたり、平凡な日常に新たな発見があったりする。期待しなかった日には一日が無為に過ぎていたり漠然としてつかみ所がない結果となることが多い。天に、神に期待を置いて動くことで納得のできる一日が得られるようだ。

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きょうのことば 『聖餐のテーブルを共に』ー年会送別礼拝ー

2012年3月18日(日)、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお届けします。

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説教題『聖餐のテーブルを共に』

いよいインマヌエル綜合伝道団では31921日、弟67年次年会が開かれようとしています。いろいろな面で区切りのときであることを覚えます。そしてきょうはご案内の通りに聖餐式をさせていただきたいと願っていることでございます。

 きょうは第一コリントの112326です。24節にはイエスさま御自身の御言葉が出ています。

24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

パウロはここに他の誰でもないイエスさま御自身が仰ったことを書き記しております。私たちがきょう与ろうとしている聖餐のテーブルは、イエスさま御自身が命じられたことであり、2000年の間守られ、私たちも変わらずにそれを守っている貴い儀式であることを覚えます。パウロはコリントへ手紙を少なくとも3通書いている。新約聖書の中に収められているのは第一コリント、第二コリントの2通です。AD55年頃エペソにいたパウロがコリントに宛てて伝道旅行の最中に書きました。

 これから守ろうとしている聖餐のテーブルについて3箇所お開きします。

マタイ261720
17
さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
18
イエスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
19
そこで、弟子たちはイエスの言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
20
さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。

 18節の「あなたのところ」とはマルコの家であろうと言われています。イエスさまが十字架につかれる直前に弟子たちと共にとった最後の食事です。それを記念していつまでも行うようにと私たちに時代を超えて聖書の中で命じておられる。教会はそれを守っているのだと知っておかれるとよいでしょう。

 同じくマルコ伝141216

12 種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の子羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
13
そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。
14
そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。
15
するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
16
弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。

 同じくルカ22章7~13節にも記されています。

7 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。
8
イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」9 彼らはイエスに言った。

9「どこに準備しましょうか。」
10
イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家までついて行きなさい。
11
そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と言いなさい。
12
すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」

 ここに出てくる過越の祭りとはユダヤの人々の三大祭りの一つです。BC1400年頃イスラエルの人々はエジプトに捕囚となっていました。神はモーセを遣わしエジプトに10の災いをくだしてエジプトからイスラエルの人々を脱出させますが、その最後の災いがエジプト全土の長子を皆殺しにするというものでした。ただし子羊をほふりその血を柱と鴨居に塗りつけてある家は過越し災いをくだしませんでした。イスラエルの人々はこれを実行しました。こうして神はエジプトを打ちイスラエルを脱出させてくださった。これを記念し神に感謝を捧げるのが過越の祭りです。脱出するときに大急ぎでパンを作らなければならず、発酵を待っている暇はなかった。そこでイスラエルの人たちはイースト菌を入れないパン、つまり種なしパンを作ったのです。過越の祭りはユダヤの人たちにとっては建国記念日ともいえる最大の祭りとなっています。

さてパウロは、第一コリント57節に、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」と書いています。これは何を意味するのか。それは本物の一つの陰のようなものがモーセの出来事でありました。モーセを通して十戒が与えられております。神から離れて罪を犯している者たちは例外なく神に裁かれ死に至るのです。それから逃れることは誰もできない。しかし憐れみ深く愛なる神さまは、裁かれなければならない私たちの代りにまことの子羊であるキリストさまを十字架にお架けになった。イエスさまが私たちの代りに罪を一身に背負って十字架の上で神の裁きを受け血を流してくださった。モーセの時代にそれを鴨居と門柱に塗りつけた者が赦されたと同じように、誰でも私の裁かれねばならない罪の身代わりとしてこのお方が十字架の上で血を流してくださったことを受け入れるとき、それはまさにエジプトで門柱と鴨居に子羊の血を塗った家を主の使いが過越して行ってくださったように、キリストの十字架の血潮の故にその中に潜んでいる私たちを過越してくださるのです。ヨハネ129節に「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言われております。

いま私たちが与ろうとしている聖餐を、イエスさまが「記念としてこれを行うように」と命じられるのにはそのような意味があるのだということを心に留めておきたいと思います。

 それから聖餐のテーブルについてもう一つ。食卓を共にするとき、そこは交わりの空間です。たとえば家族が一緒に食事をするとき、それはただ栄養を摂ることばかりではない。どの時代でも一緒に食事をすることは交わりを共にするということなのです。最後の晩餐でイエスさまはお弟子さんたちと食事を共にしましたが、そこには豊かな交わりがあったことでしょう。一緒に同じものを食べるということは命を共にするということを象徴しています。またエマオ途上で弟子たちはよみがえられた主イエスさまから聖書の説き証しを一緒に歩きながら聴いていながら、話しているのがイエスさまだと気づきませんでした。家に入って食事を共にしたときにやっと弟子たちの目が開かれてイエスさまだとわかったのです。イエスさまと一緒に食事をするということは、深い霊の真理を私たちに分らせてくださるものなのだと思いました。またイエスさまはよみがえられてから、ガリラヤ湖の岸で、不漁に気落ちしているお弟子さんたちに食事を備えてくださいました。

皆さん方は晩餐会に招待された経験がおありでしょうか。主催者の招待がなければその食卓に与ることはできない。その方と一緒に食事をする、これがどんなに光栄で祝福に満ちたものかは容易に想像することができます。これから守ろうとする正餐式はイエスさまが命じられた正餐式、イエスさま御自身が一緒になって共に食してくださる。兄弟姉妹方と一緒に食事をするのは豊かな交わりだと申しました。教会はまさにそうです。一歩進んでイエスさま御自身が一緒にその食事に与ることなのです。しかしさらにもう一つ、深い意味が正餐式にはある。これを確認したい。それは主イエスさまを食するということです。つい先ほどは主イエスさまと一緒に食事をするといいました。それだけでも光栄なことですが、さらに進んでイエスさま御自身を食するという意味があります。どきっとします。でも聖書はいうのです。ヨハネ653

53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」

もう一つ

54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58
これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

 まさに私たちは正餐のテーブルでイエスさまを食するのです。イエスさまは十字架で私たちのために粉々に砕かれた。そのお方の御身体が流してくださった血潮をいただくとき、そこに思いをこめて御身体を頂戴するわけです。イエスさまはほんとうに砕かれたお方です。私たちはそれを食することにおいて一体とされる。そしてまことに「キリスト我が内に生くるなり」と告白できるのです。そしてイエスさまは、私の終わりの日までこれをするようにと仰いました。磁石が鉄に反応するように、私たちがイエスさまの命を持っているならば、やがてイエスさまが王の王、主の主としてこの世に再臨されるときにはそのお方に感応する。そして天にあげられたときに、私たちは子羊の婚宴というすばらしい主イエスさまの交わりの中に招き入れられる。ほんとうに希望が溢れます。イエスさまはその時まで、聖餐のテーブルを共に守りなさいと仰る。兄弟姉妹方、どこの教派のものであろうと、キリストの御身体に一つとなって聖餐に与るときの交わりの豊かさ、そしてそれに招いてくださるのは主イエスさまです。天国の食事の前味わいとして私たちに与らせてくださるのです。そして更に言うのなら、私たちが十字架で砕かれ尽くされたお方の十字架の恵を命に同化しているなら、主のおいでのときに、それに感応して天に引き上げられ、豊かな羊の婚宴に招かれて天の豊かな食卓に与ることができるのであります。どうぞそのことを心から期待し希望し祈りながら聖餐に与らせていただきたいと存じます。

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雪に芽を出すチューリップ

 朝また一面の雪景色となった。せっかく芽を出した植物の芽もすっかり隠れてしまったのだが、いつぞや撮ったチューリップの写真を載せてみた。

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次には聴きたいからさー花巻東高校校歌ー

 3月21日の夕刻はTV、野球観戦だった。弟84回春の選抜。花巻東対大阪桐陰。18日のスポーツナビでは大谷が“一流”である2つの理由と題して記事が組まれていた。その日によってムラがあっては駄目、毎回同じような結果が出せること、我慢ができ、修正能力があることが条件であるようだ。大谷はそれを満たしていると書かれていた。結果はスライダーのコントロールの甘さを見抜かれ大量失点を許してしまうという結果に。しかしこれにはケガ明けであるという事情が。
 試合が終了して、「いいじゃないの。頑張ったじゃない。次回に懸けて校旗掲揚まではなくとも校歌でも歌って頑張って!!」、なんでこんなときに校歌を歌うのと訊かれたら、「次には聴きたいからさ」。
 それにしてもこの“一流”である理由がどうもすべてに通じていると見える。このブログのようにムラがあってはならない。気分や感情で落差を出してはならない。そのためには我慢、忍耐、努力し、これ修正怠るべからずというわけだ。一流とはかくも気苦労なものだ。ケガ明けではないが、どうも均一で安定したピッチングはできそうもない。まして打たれないピッチングは難しい。そんなわけでこれまでのようにさんざん打たれ打たれ冷や汗を拭い苦笑しながら投げつづけるとしよう。

 
      花巻東高等学校校歌

         作詞 千田  玄
         作曲 太田代政男

      
みちのくの国原広く
     見はるかす高き城跡
     天傳う陽の出で立ちに
     鳴り響く暁の鐘

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大地から生まれるものはみな

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  午前中は窓から雨が霙にかわり、その霙がまた雨にかわるさまを眺めていた。庭の雪は日陰の部分をのこして解け去った。午後の晴れ間には枯葉や木くずをクマデでかき集める。現れた土にはチューッリップや水仙の芽が出ている。踏みつぶさないように除けながら花壇の中を動き回る。待ちに待った春はめぐり来ている。この春もつかの間人の間に歩みを止めて眺めさせてくれるが、直ぐに夏が来、秋が来、冬となる。春の花を、夏の花をいつも咲かせておきたい。秋の紅葉も散らさずに止めておきたい。しかしそれらは季節ごとに人の前からすがたを消してしまう。去年の花は去年だけの花、去年の紅葉の一葉、一葉は去年に輝いて散りゆく。今年咲くどの花の一つも、枝葉の一枚も去年とおなじものはない。どれもみな眩しく新しい。大地から生まれるものはみなこのように眩しく新しく美しいのだ。雲がわき、霧がたちこめ、或いは小雨となり、雷鳴が轟き、にわか雨、或いは豪雨となり、そして冬が来れば雪となり或いは氷とも。しかしまた春はおとずれ木々はさざめき、黒々とした地にはありとあらゆる命が脈々と動きだす。

 

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ヴァイオリニスト川畠成道の世界

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 川畠成道さんのCDをあの油絵を描いていらっしゃる時子さんが貸してくださった。何はともあれ有り難い。
 ネットやアルバムにある川畠ファンは「希望の光」、「生きる勇気と希望をもらった」、「心を洗い流してくれる」などと彼を讃えている。その方々がそう感じられたことはみな事実だろうと思う。私がどう感じたかをいえば、先ず「魅せられた」という表現とはすこし違っている。弦の音に招かれて彼の世界の入り口に立ったところつい身を乗り出し、引込まれて彼の持つ世界に入り込みそこにある特有の美しい世界を見聴きし記憶してしまったのだ。聴く時点では彼が8歳のときに風邪薬の副作用で失明したことは念頭から消えていた。つまりただ音そのものにのみ神経を一極集中させて聴いた。 楽器はガダニーニだという。この持つ楽器の音色がこれに寄与しているとしたら、私はガダニーニファンといっていいのかもしれない。しかしやはりガダニーニをガダニーニたらしめているのは川畠さんの才能であろう。
 先週16日金曜日にいわてフィルハーモニーと演奏したのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だったが、この曲で彼は1998年サントリーホールで日本デヴューを飾っている。小林研一郎&日本フィルとの共演だ。このときの小林研一郎のことばが、私が曰く言い難い感懐をかなり近く言い当ててくれている。それは、「どこかにハンディがあったとしてもそれを超えるものを、もしかしたら神、或いは宇宙のエネルギーの様なものが、特別な形で絶妙な形で補う何かを与えてくれるのではないかと思います。それを授かったのが川畠さんだとおもいます」ということばだ。それにしても私は世離れした川畠さんの内面に紡ぎ出された弦が伝えてくれる美しさに打たれたのである。

 写真のCDはデヴューアルバム「歌の翼に/川畠成道」ビクターエンタテインメント(株)。1999年制作。このCDには身近な曲が9曲収録されている。ピアノ伴奏:ダニエル・ベン・ピエナール。
愛の挨拶(エルガー)、ヴォカリーズ(ラフマニノフ)、歌の翼に(メンデルスゾーン)、ノクターン(ショパン)、ツィゴイネルワイゼン(サラサーテ)、タイスの瞑想曲(マスネ)、カルメン幻想曲(サラサーテ)、伝説曲(ヴィェニャフスキ)、創作主題による変奏曲(ヴィェニャフスキ)

 どれも納得させられ、心の癒しともなった。

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雑感ー息子再び首都圏へー

 長男が17日に帰省した。
 落ち着くや「何が食べたい?」と訊くと、「もう買ってきたから」と包みを差し出す。新幹線を降りてすぐに駅ビルの地下に立ち寄ったらしい。蕗の薹とタラの芽、それに荒巻鮭の切り身人数分が入っていた。弟一日目はそれを食卓にのせる。帰省中もそれほど品数を作る事はせず、普段のメニューに好きなものを一品加えるという程度。山菜系が好きだ。
 今回は特に行きたいところもないということで、専ら自宅で休息。二日目からは就職で家を離れるときに置いていった物を整理、処分。あとは二男と何やら話し込んでいた。そして今晩また首都圏に戻った。毎日地下鉄を使っている。直下型何とやらが来ないようにと祈りながら見送る。

 19日はTPPに関するちょっとした学びに参加。農業の自給率が13パーセントに落ち込む、農が破綻することはすでに周知の事項。さまざまな分野への影響のうち、特にTPPが漁業に及ぼす影響に耳を澄ませると、いま宮城県あたりでは漁業は株式経営に再構築されようとしている。漁師の方々はその社員となり給与制。そこまでは兎も角、TPP下に於いては、アメリカがこの経営に参画してくるであろうことが予測されるという。

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 もう小岩井では子羊が生まれている頃。臥せっている親の背中に乗ったり、まとわりついたり、無垢無心にあそぶ子羊のようすはかわいらしく楽しい。

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“音楽生活50年+11”松田晃歌曲リサイタルXVI を聴く

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 音楽生活50+10+1年。声という“楽器”に恵まれた方々が果たしてどこまで歌ってゆかれるものであるのか。
 今回は雫石環さんの挨拶文から、松田先生の歌う意義、姿勢というものを教えられたように思う。雫石さんはこう書かれている。
「松田先生がこの新しい訳詞で歌われるにあたり、いつものリサイタル以上に今回はご一緒に練習を重ねさせていただきました。一つ一つの言葉の意味を丁寧に紐解きながらの練習に相当な時間をかけておいででした。私もその中で、既に出来上がっている一般的な歌詞を演奏するよりももっと深く『冬の旅』を勉強することができましたし、松田先生がどのような解釈をされているかもよく伝わってきたと思っております。村上先生も全曲を訳されるには長い年月ゆっくり時間をかけて言葉を選び、一つ一つ磨き上げて書かれたことと、演奏をしてみて改めて拝察いたしました。」
 ステージに立たれるまでの研究姿勢というものをこの一文からそれこそ拝察したことです。ある年代からはやはり声には否応なしに制約が掛かってくるのかもしれない。しかしステージに上がるまでの弛まぬ音楽姿勢というものは必ず含蓄として音楽に響き出でる、そのような何とも言われぬ感慨を覚えたことです。村上敏明著:日本語で歌うシューベルト“冬の旅”、しみじみと聴かせていただきました。そして今文字を連ねながら、あと数十年は頑張れと喝を入れられているようでもあります。そう感じられた方も多くいらっしゃるのではと思います。

アンコールは

楽に寄す♪
  (堀内敬三訳)
楽の音/わが悩むとき/心をおとずれては/あたたかな愛を充てつつ/清らかなる境に/わが身をともないぬ
妙なる琴の響きの/さやかになりわたれば/この世にも天つ幸あり/奇しきかな楽の音/とうとしや楽の音


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きょうのことばー『揺るがない土台に』その2

※前ページの続きとなっております。

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きょうは先に詩篇の23篇を読んでいただきました。それは、きょうの仙台の311の合同追悼礼拝のプログラムの中に慰めの詩篇としてこの詩篇23篇が表紙に示されておりました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

きょうはこの御言葉が自然に口を衝いて出てまいります。

余談ですが、3・11の大きな出来事が世界に報じられ、日本がこれから何とか再建に向かおうとしている中に、そしていま尚継続している原発問題のただ中に、日本の表玄関であります東京の方には世界中から色々な人たちが来ています。先頃中目黒教会に出席しておりましたA姉妹によれば、中目黒教会でちょうど311を踏まえての礼拝が行われていたときのことです。宣教師の先生方もいらっしゃり日本のために心から祈り支援を語ってくださっていたそのような集会に、途中から幾人かの外国の方々が入って来られたそうです。会衆席の誰もが、恐らくここにいらっしゃる宣教師の御家族か関係者の方がいらっしゃったのだろうと思っていたそうです。ところが、礼拝が締め括られる頃合いに、勿論通訳はないわけですが、その方達が立ち上がって、「日本がこれほどの災害に遭うのは、神から離れ堕落した生活をしているからだ。これは神からの警鐘だ」と英語で大声で言ったそうです。竿代先生は即座にその人達を指さして、「出て行きなさい。黙れ。ここは礼拝する場所だ」と仰った。それを許さなかった。これは見識だと思うのです。

私たちはよく、いったいどうしてこういうことが起きたのだろうかと思う。突然起きた受け入れがたい苛酷な状況、不条理に直面する。神さまどうしてでしょうかという疑問が湧いてくることが正直あるのです。しかし詩篇46篇には、「わたしこそ神であることを知れ」とあります。なぜ、どうして、そのとき、私たちが知っているのは、私たちすべての者が滅ぼされて当然であるところに、神がそのひとり子をこの世に与えてくださったということです。神さまは揺るがない救いを為してくださったというこの事実にいつでも戻るのです。具体的になぜあの人が、なぜこの国がなぜアフリカが、飢饉や貧困やテロや様々な不条理に遭うのか、この問いに対し私たちは答えに窮する。しかし私たちはそれ故に不信仰になることは決してない。なぜなら私たちは知っているからです。揺るがないほんとうのもの。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。

この神さまの御言葉に私たちは自分の存在のすべてを置いている、それ故に私たちは揺るぐことがない、きょうはこのように皆さま方に申し上げたいと思うのです。

先ほどつい中目黒のことが思いだされました。恐らく皆さん方も礼拝の場であの外国の人たちが言ったことを決して認めることはできないでしょう。そのときに言うべきではない。言ってはならない。もし自分の身内が、自分の愛する者がそこに被災者としていたなら、彼は、彼女はそのような発言をどうしてできるでしょう。聖書は決してそれを言っているのではないと確信します。ですから、竿代照夫先生が「ここは神を礼拝する場所だ、出て行きなさい」と仰った意味を私たちは自覚するべきであると思います。

詩篇の46篇がなぜきょうのテキストとなったのかは既にご承知でしょう。大きな山が崩れ海に移るようなことがありました。それぞれ皆さん方一年前のきょうを思い起こされることと思います。私の書斎でも停電で真っ暗な中に、パソコンが半分落ちかけておりました。本箱が崩れてしまったものですから、そこまで辿りつけませんでした。途中で諦めて停電が回復するのを待ちました。13日の日曜日、1015分ごろに漸くこの辺り一帯に電気が点きました。取りあえず小さな石油ストーブで急場を凌いだことを思い出します。この時点ではまだT姉妹のお母様がおられる陸前高田やS兄弟のご実家がある山田がどうなっているか分りませんでした。しかしそれから次第に沿岸の甚大な被害を知ることとなりました。

今また都市直下型地震が予測され、また茨城の方でも盛んに地震が続いている。そのような中で、私たちはほんとうに危機意識ができているでしょうか。必ず危機はきます。しかもそれが震度7強というようなそれであったとすれば、いえそれを私たちに当て嵌めてみるとすれば、私たちは永遠に対する備えができているでしょうか。すべてのものを揺り動かす、この地上に於いてどんな生活をしてきた、どんな生涯をたどってきたかということも全部根底から揺るがされて、神に会う備えができているのか、死に対する備えができているのかということは、必ず私たちが直面する大きな大きな避けられない事実です。そのとき、私たちはどこに避難場所を持っているでしょうか。震災時の状況が今さまざまに報じられています。特にあの鵜住居の方でしたでしょうか、釜石の方とか、市が指定して居たはずのところが、実はそうではなかったと市の方々はいうのですけれども、すこし前にそこで避難訓練をしたばかりというときに、多くの人たちがごく自然にその避難に指定されているところに行ったところが、大きな悲劇がありました。もう枚挙にいとまがありません。ここは大丈夫だと思っていたところ、それが悉く不適合性があったという事実。これまで拠り所と備えていた所が実はそうではなかった。私たちはどこに永遠の命、神に会う備え、その避難場所を持っているでしょうか。「神はわれらの避け所、また力、苦しむときそこにある助け」。私には揺るがない神の都があると詩篇46篇にありましたけれども、その揺るがない都は3本の柱で支えられている。建築に詳しい方ならばその地下に打ち込む杭それが深ければ深いほどそして大きな地盤にしっかりと或いはパイルというんですか、そういう柱がしっかりと土台に打ち込まれているとき、そこに建設されている建物は揺るがないとするならば、私はこのキリストの十字架の事実がしっかりと打ち込まれているならば、その下にある土台は何かと問われたならば、私は聖書だと言います。それ以外に私たちが依って持って立つものが無いのですから。聖書に預言されていたとおりにどんとそこに打ち込まれているのがキリストの十字架であり、神の愛です。そしてもう一つはキリストの復活。これもう柱は既に打ち込まれている。そしてキリストの再臨、これは揺るがない私たちの希望です。これが聖書という土台にしっかりと深く打ち込まれている。ここに揺るがないほんとうの避け所が用意されているのです。

聖書はローマ人への手紙1011節でこういっています。

彼に信頼する者は失望させられることがない

パウロがこう言うのです。パウロもその拠り所として聖書を引いている。色々な時代の思想があります。時代の哲学というものがあります。様々な文化があるでしょう。しかし聖書はずっと今日に至りますまで、人類の歴史の中で様々に試され試されて揺るがないものとしてありつづけています。私は知らないから平気で言えるのかもしれませんが、ホーキング博士がおります。イギリスの理論物理学者です。宇宙に関するさまざまな理論を発表しています。考えると胸がわくわくするのですが。どうも彼は所謂クリスチャンではない思想信条を持っている方のようであります。天国というものは無いと彼は彼なりの緻密な論理でいっているのでありましょう。私はホーキング博士がどのように素晴らしい知性の持ち主であったとしても彼のいうことにすこしも揺るがされることはない。なぜなら、イエスさま御自身が聖書というものに立脚しよみがえられている。そのイエスさまがエマオ途上で御言葉を通して語られたことを思い起こします。聖書にいっていることがすべてなんです。人がどんなに小賢しい様々な理論を言おうとそれは何の意味もない。イエスさま御自身、イエスさまよりも賢くなってはいけない。サタンでさえも聖書のことばには怖じ気づいているわけですから。

聖書です。「神は我らの避け所、また力。苦しむときそこにある助け」。そこにある助けとは「テスト済みの」という意味のことばが使われて訳されている。もう何回も何回もテストされて大丈夫であるもの、これが私たちの信じている聖書なのです。そこにしっかりと柱を打ち込まれて私たちはそこに揺るがないところの避け所を持ってそこにいる、そこに備えていなければならない、いつでも私たちはそこに駆け込むことが出来る。311のきょうを思いますときに一人一人が本当の意味の避け所、ほんとうにこのイエスさまにあるのだということを確認をしていただければと思うのです。

そしてきょう、皆さん方に一つの歌を御一緒に信仰の告白として歌っていただければと思います。クリスチャンに親しまれているヘンデルのメサイアという曲がありますが、この歌は現代のメサイアのような歌として今の私たちの世代に受け入れられるものではないかと私は思っております。

天のエルサレム

聖なるエルサレム

天のエルサレム

夜がないエルサレム

神さまの手で

この目の涙

拭ってくださる

慰めの都

悲しみがない

苦しみがない

死の恐れさえ

過ぎ去った都

天のエルサレム

聖なるエルサレム

天のエルサレム

夜がないエルサレム

永遠という約束を手に

旅の終わりに

たどり着く都

目指せエルサレム

届けエルサレム

目指せエルサレム

夜がないエルサレム

夜がないエルサレム

※若干の聞き間違いがある場合がございます。誤記、誤表記に気づかれました際はご指摘ください。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『揺るがない土台に』その1

2012311日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡0196462924)の國光勝美牧師による東日本大震災の祈告礼拝の説教をお届けいたします。

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説教題『揺るがない土台に』

聖書引証 詩篇46111

1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
2
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
3
たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても
4
川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
5
神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。
6
国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。
7
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
8
来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。
9
主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。
10
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」
11
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ

311日のきょう、いま全国のキリスト教会では、一年前を覚えながら祈りとともに午前の礼拝を持っております。それに合わせてひと言お祈りいたします。

 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。一年前のこの日を私たちはそれぞれの思いで思い起こし、そしてそれゆえに礼拝のためあなたの御前に集まって来ております。また全国に於きましてもこのとき多くの民が頭を垂れてあなたの御言葉に慰めと励ましをいただき、希望をいただいて立ち上がろうとしております。願わくは全世界の聖徒たちの祈りが格別に日本、東北の地に注がれていることを感謝しつつきょうの一日を意義深く過ごすことができますようにお導きください。イエスさまの貴い御名によってお祈りいたします。アーメン」

 ちょうど一年前のこの日は金曜日でありました。そして今年は閏の年でもあり日曜日となったこの日を、皆さま方とともに意義深く迎えております。

そして一週間前に私たちは、祈りながらこの311を祈念する特別集会「東北・希望の祭典」を持ったことでございます。仙台市のグランディ21を本会場とし、盛岡を含めて7つ、東北に中継基地会場が設けられました。フランクリン・グラハム氏により福音のメッセージが語られました。多くある教会の中には、今はもっと被災地の方々に寄り添って為すべき事があり、まだその時ではないという疑問をお持ちのところもございました。そして私たちはそれらのことをよく弁えながら、今回311のために、キリスト教会だからこそ為すべき営みをさせていただいたことでございます。

此処に盛岡会場の集計がございます。盛岡会場である内丸教会での弟1日目(本会場では2日目)、土曜日ですが68人が集ってくださいました。そして前に出て応答されたのは男性お一人(求道の決心をされた方)、女性お一人(信仰告白された方)でした。これが弟一日目でございました。それから弟2日目(本会場では3日目)は62人が集われ、そして。決心に立たれた方、それからその他求道を決意されているという方がお一人いらっしゃいました。2日間で130人、これが盛岡会場のトータルでございます。そして本会場の3日間のトータルは11720人。一日平均約4000人が集ってくださいました。金曜日は雪が降りましたが参加者は1630人。そして中日土曜日これは天候にも恵まれ4780人。そして最終日が5310人ということでありました。前に進まれた応答された方が299人。信じる決意をされた方が215人。また再献身の決意をされた方など色々な方々がございますけれども、これらの集計を見ますときに、神さまがこのとき、全世界の祈りを東北に与えてくださり、主が業を為してくださったことに感謝を覚えたことでございます。一人の失われた者が見出されるとき、天にどれほどの歓びがあるかを私たちは知っております。そして、これに関わらせていただいた者として色々な感想がございます。そのうち一つ忘れることができないのは、集会が全部終わってから金曜日の祈り会のとき、内丸教会の先生がすべてを総括し、「國光先生の教会、インマヌエルの教会が今回いちばん神さまから祝福を受けたんじゃないでしょうか」と仰ってくださいました。その他関係された二つの教会の先生方が「ほんとうに信徒の方々がよく恵まれてご奉仕をしてくださいました。ほんとうに大きな励ましをいただきました」と語ってくださいました。確かに神さまはそのように評していただけるような祝福をこの群れに加えてくださったことを思えば思うほどに、私は神さまの前に聖なる貪欲さと敢て表現したいのですが、それは盛岡がこの中継会場を受けるか否かのとき、デービット・松本先生が盛岡は200人集めてくださいと仰った。当初はある意味無謀とも思われたのですが、これが神さまの御業である、神の御思いから為されたものであるとの信仰をもって祈り臨ませていただきました。締め括ってみますとこのことに一層その思いを深くするのです。私は神様の前にお祈りの中で訴えました。「神さまは盛岡で1日目70人集めてくださいました。私たちは200人という祈りで始めたことです。あと130人、神様私たちは期待をこめて神様が満たしてくださることを信じております。これは神様の責任です」というように。これは神さまに責任を擦り付け責任転嫁しようとするものと決してお取りにならないでいただきたい、それだけ私たちは祈ってこの業に加わったわけです。ですからその者が大胆に「あと130人あなたの責任に於いてお集めください」と祈りました。願わくは私たちの教会がいささかなりともその受け皿となることができますように、このようなお祈りの気持を持ちながら臨んだということでございます。

きょうはこの「東北の希望の祭典」の一つの締めくくりのように仙台では午後2時から東北学院の中等部、高等部の合同の礼拝場を会場として合同礼拝が持たれることになっております。どうぞよき追悼の礼拝が持たれますようにお祈りいただきたいと思います。また岩手の地におきましては、311いわて教会ネットワークの主の傘下に沿岸で真実に労しておられる先生方、教会の方々が一同に会し祈念の集会を持とうとしております。北上の聖書バプテスト教会で午後2時からでございます。そして246分には皆さんで黙祷しましょうとの呼びかけが為されております。それに応じたいと願っていることでございます。    ー次ページにつづくー

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天国って?

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天のエルサレム

聖なるエルサレム

天のエルサレム

夜がないエルサレム

神さまの手で

この目の涙

拭ってくださる

慰めの都

悲しみがない

苦しみがない

死の恐れさえ

過ぎ去った都

天のエルサレム

聖なるエルサレム

天のエルサレム

夜がないエルサレム

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永遠という約束を手に

旅の終わりに

たどり着く都

目指せエルサレム

届けエルサレム

目指せエルサレム

夜がないエルサレム

夜がないエルサレム

※まだ題名、作曲者、作詞者も調べてはおりません。

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いわてフィルハーモニー with 川畠成道ー チャリティーコンサート2012 ーを聴く

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 きょうは朝から一日忙しかったこともあり、時計が18時を回る頃には、たぶん今夜のコンサートは半分以上居眠りになるなと思った。ところが演奏が始まってみると、やはりこのオケがプロとしての歩みをしているということで、山形交響楽団や金沢交響楽団をも思い出しながら聴くこととなり眠るどころではなかった。約50人編成。指揮者寺崎巖(いわてフィル代表)さんが被災地に於いてはいよいよ音楽が必要とされる段階にあると音楽復興支援への協力を呼びかけた。岩手のプロオーケストラとしては唯一。山響のようにでもなく、金沢のようにでもなく、これは勿論この二つのオケの素晴らしさを知っていて言うことなのだが、それはそれとして岩手ならではの特徴を備えたどこにもない岩手にしかない日本でただ一つのオーケストラであって欲しいと思う。

 メンデルスゾーン 序曲ハ長調、モーツァルト ディベルティメント。私はこのディベルティメントからを好ましく聴いた。休憩が入り、続いてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリニストは川畠成道さん。このヴァイオリンはすばらしかった。音の窓から奏者の持っている芸術世界の美しさが見えた。アンコールはバッハのガボット、さくらさくら。このさくらもありとあらゆる咲くさま散りゆくさまが眼前に見えるようなのだ。最後のアンコール、バッハのG線上のアリアを勿論いわてフィルとのコラボで演奏してくれた。このときのオケがとても良かった。エルガー行進曲「威風堂々」は文字通り威風堂々たる演奏。「新日本紀行のテーマ」では、日本風土を表してくれている楽器に新鮮さを覚えた。改めて冨田勲さんのさりげないようでいて懐かしさと広がりをくれる作曲の素晴らしさを思わせられた。同行した夫はこの曲がいちばん良かったと言っている。

協賛は中央ろうきん。協力は東北ろうきん、岩手県文化振興基金(東日本大震災大津波復興支援事業)。盛岡南高校の生徒さんたちが募金箱を持って階段に並び協力していた。その人数の多さ、募金箱の数の多さも初めて目にする光景であった。 

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いわてフィルハーモニー with 川畠成道ー チャリティーコンサート2012 ー岩手県民会館大ホール2012/03/16(金)19:00開演

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演奏 いわてフィルハーモニーオーケストラ

    ヴァイオリン 川畠成道
指揮 寺崎巖

曲目 メンデルスゾーン 序曲ハ長調
    モーツァルト    ディベルティメント K138
    メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲
    エルガー      行進曲 「威風堂々」
    冨田勲       新日本紀行のテーマ

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不思議

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 長男から帰省すると連絡があった。パソコンの調子をみてもらいたい。
ーこう書いている今地震があった。パソコンノ内蔵時計が狂っていなければ22時22分ー
 
 チューリップの芽がたくさん出ている。福寿草が咲いている。生きていることの不思議。きょうもこの不思議さを更新する。

 

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第41回盛岡芸術祭管弦楽部門「春のコンサート」 ーシンフォニエッタ・盛岡ー2012年5月19日(土)18時開演 マリオス小ホール

                  

第41回盛岡芸術祭管弦楽部門「春のコンサート」 
 
2012/5/19 18:00開演
入場料300円(全席自由)
於:盛岡市民文化ホール(小ホール)

~プログラム~
 
■第一部  
モーツァルト:交響曲第5番変ロ長調 K.22
       序曲「皇帝ティートの慈悲」K 621
フォーレ:「マスクとベルガマスク」から抜粋 作品112
■第二部 Glowing of kouji (編曲集) 
「涙のトッカータ」「小雨降る径」「岩手の歌メドレー」他

        ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 きょうはシンフォニエッタ・盛岡さんのコンサートをアップしようと心づもりをしてゆっくりとサッカーのTV観戦をしていた。ロンドン五輪が決まり歓びに沸き返る様子を楽しんでいたところに千葉、茨城で震度5強の地震があったことを知った。北京五輪のときには四川大地震の災禍と隣り合わせで開催されたのを思い出した。歓びに悲劇が抱き合わせとならぬようであって欲しい。
 5月のコンサート、風薫る5月。今回はシンフォニエッタ・盛岡さんのブログからちょっとお借りしてご案内させていただいた。平和な5月のコンサートであれと祈る。

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「馬頭琴と朗読のつどい」を聴く

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 3月10日(土)馬頭琴を聴く機会があった。民族楽器の独特な響きになぜ自分が魅せられるのか、その理由の一つがこの日のコンサートでわかった。風土が聞こえるのだ。今回弾いてくださったのはNAGISAさん。ピアノ伴奏は平井良子さん。平井さんのお母様とわたしの義姉が高校の同級生であり、また平井さんからは、私が著書『光炎に響く』を書くときに、ピアノ演奏についてお話を聞かせていただいたというご縁がある。この日平井さんは『エリーゼのために』を弾いてくださった。学生時代この曲を弾ける方を特別な存在として眺めたことを懐かしく思い出しながら聴かせていただいた。
 馬頭琴はモンゴル語でモリンホールといい「馬の楽器」という意味らしい。馬のいななきが驚くほどのリアルさで響く。聴いているとひとりモンゴルの草原を駆け抜けているようでもある。そしてモンゴルの人々の自然にとけ込む生業とともにある暮しが彷彿とする。馬頭琴の弦は2本。中国の二胡と似ているが、二胡の方が音はしなやかであるように思う。ヴァイオリンやチェロのように弓で擦って音をだす。ただチェロのような深みには今一つ。これは楽器自体が持っている特質によるのだろう。しかし馬頭琴には土の匂いが聞こえる。草原の風が鳴る。土埃も聞こえる。人間の喜怒哀楽も燻らすように感じられるそんな滅多には得難い非日常をくれる。朗読もあわせてこのような機会に恵まれたことに感謝したことであった。



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世界中の人たちが君の歌を待っているー岩手県立不来方高等学校音楽部

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昨日は3月11日、東日本大震災の一周年。身近に家族を亡くされた方がいらっしゃり、その深い悲しみに接しながら迎えた一年目であった。自宅にあって祈ることもできるけれども、きちんとした然るべき場所に足を運んで哀悼の思いを表すべきと思い、午前中は勿論教会に行ってきたのだが、午後には岩手県公会堂に主人とともに出かけた。盛岡広域市町村長懇談会主催「東日本大震災1周年行事 復興への誓い~2万個の灯火~」。午後2時15分からと聞き30分前に着くように行ってみると、記帳の方々の列。並ぶうちに2時15分が迫った。会場に入るとスタッフの方が、前の方の席が空いていますからとにかく前に進んでくださいと仰るので従う。そうしたところが空いていた席というのは最前列の来賓席の後ろであった。若干の躊躇いはあったものの更に動き回ることは控えたかったので、そのままそこに着席。葛巻町長の真後ろの席に座ることとなった。牛、ミルク、葛巻ワイン、風力発電が脳裡を掠めて消えた。会場のどこかに友だちも親族と共に来ているはずである。壇上に並ぶ来賓の中に鳩山由紀夫氏の顔があった。階猛氏の奥様が代理出席しておられた。
 オープニングは岩手県立不来方高等学校音楽部の合唱だった。指導しておられる村松先生も初めて間近に拝見した。合唱、初めて聴いたのだが、この音楽部がきょう招かれた理由がわかった。慰めがある。明るさ、清新さ、表現の優しさ、懸命さ。誠心こもる歌声に心打たれた。参加した遺族である友人からきょうになって話を聞くと、やはりこの合唱に心打たれ涙が流れたと仰っている。オープニングでは「時代」「瑠璃色の地球」、復興祈念合唱では「願い~震災をのりこえて」「ひょっこりひょうたん島」「上を向いて歩こう」「空より高く」「ふるさと」であった。
 谷藤盛岡市長から追悼の言葉があり、国主催追悼式典の同時中継があった。
 午後2時46分、黙祷。巨大な津波に次つぎに呑まれてゆくあの画像が浮かび、何故か真っ先には個々の方々が浮かばなかった。祈り終えるころになって顔を存じ上げている犠牲になられた方や関係者の方々が浮かび、ただ祈った。
 ロジャー・パルバース氏の講演を聞き、不来方を聴いて午後5時頃に会場を後にした。松本哲也さん、濱守栄子さん、清心さん、そしてまた不来方、盛岡市立大宮中学校吹奏楽部が出演する第3部「祈りの灯火」には参加しなかったが、帰宅してから、TVで見た牛乳パックを利用した灯火の作り方に習い作った灯火を二つ玄関前に置き天上での幸いを祈らせていただいた。


願い~震災をのりこえて♪
(歌詞のぜんぶはわからないので抜き書きです)

  君に届け 美しいハーモニー
  かくれて泣いている あの子の胸に
  すこしでも早く
  希望の灯ともるように
  君はひとりぼっちじゃない
  世界中がなかまさ

  笑顔になりますように
  笑顔になりますように
  
  すこしでも早く春が来るように
  世界中の人が君の歌を待ってる

  幸せになりますように
  幸せになりますように

  お願いをしよう
  君はひとりぼっちじゃない
  幸せになりますように
  幸せになりますように
  お祈りをしよう

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きょうのことばー『主イエスの御手の中で』

日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(0196226304)國光勝美牧師の説教をお送りしております。きょうは3月11日、東日本大震災の1周年の日ですが、編集の都合上掲載が一週間遅れとなっておりますので、3・11のメッセージは来週となります。きょうは、201234日(日)の説教をお届けいたします。

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説教題『主イエスの御手の中で』

聖書引証 ヨハネの福音書6章3~14節

3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れと、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

東北希望の祭典が323、4日と開かれております。仙台の本会場以外にも7つのサテ日曜日ライトを設けて中継されます。先ほどもあるご婦人から問い合わせのお電話がありましたが、最終日の今日、よき締めくくりがなされますよう願っているところでございます。

 きょうは5000人の施食という聖書のお話を拠りどころとして、神さまが今回の大きなイベントを通して語りたく願っておられることを私なりに受け止めご紹介したいと思います。

 おなじみのヨハネ福音書の6章です。5つのパンと2匹の魚のお話、これは4つの福音書に共通して出ている奇蹟です。今回の祭典で私たちが臨む姿勢を考えるときに、この御言葉が心に留まりました。祭典を前にして自分自身、また教会を知れば知るほどまさに、これしかないといういう想いを持ちます。世の中の圧倒的な勢力に対して、日本の東北の盛岡の見た目に何と小さいものかと思いますが、しかしこれで十分であること。ギデオンが語ったように自分自身の小ささ乏しさに目をとめますが、神さまは、それで十分なのだと仰る。この5000人の施食をみるときに、空腹になった群衆の前にあるのは、少年の持っていた小さなお弁当、これしかなかった。それは5つのパンと2匹の魚。しかしイエスさまはそれで十分だ、それをわたしのところに持ってきなさい、こう仰ってくださる。

まだ何が起きるかまったく分らないその時点で、お弟子さんたちはこれをどう捉え何を思っていたのでしょう。イエスさまは弟子たちに、人々を座らせなさいと仰った。私たちはふつう目的が分って初めて行動に移る。無目的に動くことはまずない。弟子たちは右往左往しながら大変な思いをして人々を座らせたでしょう。そしてイエスさまは少年のお弁当を持ってきなさいと仰った。何のためにこんなことをするのかと言いたくなるでしょう。

イエスさまの初めての奇蹟であるカナの婚宴のとき、ふるまう酒がなくなったときに、マリアがあの人の言うとおりに水瓶に水を満たしなさいと言いました。人々は何が起きるのかわかってはいない。結果的にはイエスさまが水を酒に変えるという大きな奇蹟、栄光が現れるのですが。イエスさまがこれをしなさいあれをしなさいと仰ることがあります。こんなことをして何になるか。結果がわかればいいのですが、そうでないときに、単に命令だというだけではなかなか素直に応じることができない。目の前にあるのは5つのパンと2匹の魚だけです。このイベントに於いても、どの局面をとっても、それが当てはまる気がします。マシェリ広告を2回出すことができました。有料で一回、無料で一回。チラシも盛岡用に7000枚準備しました。これも少年のお弁当です。世の中の方々が見れば数ある情報の中の一つにすぎません。これも少年のお弁当に過ぎない。あのとき、お弟子さんたちは人々を座らせながら、しだいにこれは何かあるに違いない、そうでなければイエスさまが自分たちにお命じになるはずがない必ず何かがあると信仰による期待、希望を抱いたに違いありません。私たちもそうでした。私たちのできることをさせていただきながら、きっと神さまがこれを通して何かをしてくださるに違いない。それはもう信仰なのです。またしても思い出を語るのですが、蔦田二雄先生の講壇の中でインパクトのある言葉は、「兄弟姉妹、信仰をはたらかせるということは、今この世にあるからできるのです。もう天国にいったなら、信仰によって歩むということは無いのです。なぜなら目の当たりに愛するお方とまみえて、まさに目と目を合わせてそのお方を知るときに、もはやそこに信仰によってイエスさまを知るなどということはない。だからそのお方が見えない今のところで見えないお方をあるがごとくに信じて進んでいく信仰をはたらかせることは、いまクリスチャンたちにできる最高の特権なのです」と語られたこのことでした。信仰をはたらかせる、これは今ある者たちの特権なのです。

私たちは今目に見えるお方があり、トマスのように触って確かめられるお方があったならどんなに幸いかと思うのですが、もしそれができたなら信仰によって歩むという特権はなくなってしまう。いまこの世にあるからこそ、このような環境にあるからこそ、このお方を期待し見えないお方を信じ、そのお方をあてにして歩むことができる。そして神さまは、このような神の子たちの信仰の在り方をお喜びになっておられる。「神に来るもの、神の在すことと、神を求むるものに必ず報いたもうことを信ずべければなり」。

見えないお方をあるがごとくに信じて進みだす神の子ども達の姿を神さまは何よりもお喜びになる。お弟子さん達はイエスさまの御手から託されて、草の上に座らせた多くの人々にパンを魚を配っていきます。それは増えていきました。何時どのように増えていったのかは書いてありません。でも増えたことは事実です。お弟子さん達は配りながらお弟子さん達自身神さまの奇蹟を体験しながら配っていった。神さまの大いなる栄光を直に感じながら驚きと興奮を持ちながら配っていく。配っても配ってもまだボクの駕籠の中にあるよ。まだあるよ。それはどんなに大きな喜びだったでしょう。瓶の油は尽きざりきとはエリシャシャのときですが。その真中にあって奉仕したお弟子さんたち、私たちはこの奉仕をさせていただく中に、神様の恵を知る喜びを感じます。昨日も盛岡会場で一人の姉妹が決断されました。その喜びはそれに携わったものの特権です。ほんとうに大きな喜びが溢れてきます。メッセージを準備しながら、どんな味がしたのかなと思いました。質素なお弁当です。しかしどんな豪華なレストランの料理にも勝る美味しい神さまからの恵のパンです。さらにいうならば、これは命の糧です。人々に配るまことの命のパン。「われはまことの命のパン、まことの命の食物なり」と仰るお方の提供しているそのご奉仕にも繋がっている。  「東北・希望の祭典」は今日で締め括られます。初日の仙台の金曜日は雪でした。シャーベット状の雪、車を動かすにも先ず雪を車から落とさなければならないような夕暮れでした。しかし仙台会場に待機した出迎えの「ようこそいらっしゃいました!」「おばんです!」というグラハム伝道団のスタッフの明るい日本語の声。が迎える。初日の参加者は1600、或いは1700だったかと聞いています。きのうのスタッッフからの情報では6000人と聞きました。副実行委員長の仙台青葉荘教会の島隆三先生は事前に会場を視察され、ご自分のブログの中で、「ほんとうに会場がいっぱいになるのか」と書いていらっしゃいました。それが結果は大きな恵、歓びとなって現れました。決心し前に出てゆかれる方々をフォローさせていただくヘルパーの数が足りないほどだったようです。

きょうは最終日。きょう締め括られます。どうか私たちも盛岡会場に於いてこのように小さな者でありますけれども、主の御手の中にあって用いられて、そしてその者たちが知る喜び味わい深さを共にさせていただきたいと、このように思うことでございます。

※文責:中ぶんな

 

 

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「東北・希望の祭典」ーフランクリン・グラハム氏のメッセージその2 -

※前ページの続きとなっております。

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 今晩皆さんにとってイエス・キリストとの間の障害は何でしょう。これは罪というものです。この罪が壁を作 ります。神様のもとに行くことができません。神様があなたを創ってくださいました。神様が命の息を皆さんに吹きかけてくださった。皆さんの内には魂、霊が あります。でもこの世に罪が入ってきたときに私たちはその関係を失ったのです。罪がこの世に来たときにこの人類に悪い影響を与えました。神様のこの標準を 壊すのが罪です。神様というお方はきよい方です。そして罪というのは問題なんです。この罪は裁きをうけなければなりません。神様にこの罪を持ったまま裁き なしに行くことはできません。

 先日私は自分の車を運転しておりました。そしてちょっとスピードを上げていました。そしてバックミラーを見ると、ライトが光っています。私の心臓はばくばくしてきました。そして止めました。警官が来てあなたちょっとスピードをだし過ぎじゃないんですか。そこで違反切符を切られたんです。そしてその違反のチケットを渡したときに私は有難うと言いました。なぜこんなことをいうんでしょうか。私がその罪を犯したからです。私は間違ってました。私はこの決まりを破りました。神様の決まりを破ったらどうなるでしょう。聖書は言ってます。この神様の決まりを破ると死が与えられる。フランクリン先生、神様の決まりって何でしょうか。嘘をつくということは神様の前に罪なんです。みなさん嘘をついたことがありますか。それは裁かれるんです。でも今晩神様があなたを赦してくださいます。盗むということも神様の前に罪です。皆様の多くはそのやましさが無いでしょうか。でも今晩皆さん神様に赦されるんです。姦淫、姦淫というのは結婚関係以外の性的関係、これは神様の前に罪なんです。今晩みなさんこの中に性的な罪を犯している人はいませんか。今晩神様はあなたを赦してくださるんです。殺人は罪です。またこの正しいことを言わないことも罪です。父親や母親を敬わないことも罪です。他の神を拝むことも罪です。すべての  罪に定められます。一つ或いは多くの罪を犯した場合でも罪なんです。聖書は言ってます。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉、栄光を受けることができない。罪から来る報酬は死です。しかし神のくださる賜、プレゼントは私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。私たちすべての者が神様の前に罪を犯しました。今晩は私は皆さん方の前に立っているフランクリン・グラハムですけれども、私も神様の前に多くの決まりを犯している。そして神様の前にこの決まりを犯した者は死を迎える。神様はきよいお方ですから、この罪というものを嫌われます。でも神様は私たちを創ってくださった神様です。そして罪によって失われて欲しくないと願っておられる。

 ですから神様は一人子であられるイエス・キリスト様を天からこの地上に送ってくださいました。イエス・キリスト様です。そして皆様の罪を取り除くためにイエス・キリスト様は来てくださいました。皆さんに代わってあの十字架で死んでくださったんです。十字架にイエス様が行かれたときに私の罪を背負ったんです。あなたの罪も背負ってくださいました。日本の罪を背負ってくださったんです。また韓国の罪も背負ってくださいました。中国の罪も背負ってくださいました。アメリカの罪も背負ってくださいました。アフリカの罪も背負ってくださいました。ヨーロッパの罪も背負ってくださいました。イエス様が十字架に架かられたときに全世界の罪を背負ってくださった。私たち一人一人のために血を流し死んでくださったんです。私たちをきよめるために葬りさられました。でも神様はご自分の息子であるイエス・キリスト様をよみがえらせました。神様がみなさんにしてくださったことを信じ受け入れるならば、あなたの罪のための犠牲を受け入れるならば、神の御子イエス・キリストが神様があなたの罪を赦してくださいます。あなたの心を癒してくださいます。神様とのよき関係を持てるんです。そして永遠に神様によってあなたの魂は握られ平安をいただくことができる。神様はあなたを愛しておられます。わたしたちにとって誇りというのも罪です。フランクリン先生私はそんなに悪い人ではないですよといわれますが、私は親切で人々を助けましたよ、人々にお金も寄附しました。そして法律を守ろうとしています。そしてよい市民になろうとしています。でも私たちそれでは十分ではありません。神様の目に十分ではないんです。私たちは罪人なんです。神は高ぶる者を退ける。へりくだる者に恵をお授けになると聖書はいっている。神様の前にへりくだる者になろうではありませんか。私たちは罪人であると神の前に告白しましょう。神様に赦しを求めましょう。今晩イエス・キリスト様を主と信じ受け入れましょう。そして救い主として信じ続けましょう。私たちにとって障害は何でしょうか。またアルコールや麻薬でしょうか。今晩キリストのもとに行きましょう。そうすれば私たちは自由になれます。私たちは世を愛するということが私たちを引き留めるでしょう。

 これはザアカイと同じ問題でした。ザアカイはお金を愛していました。お金で買えるものを愛していました。お金持ちです。人々を騙していました。でも本当の喜びを持っていませんでした。人はたとえ全世界を手に入れても、まことの魂、命を損じたら何の得がありましょう。ザアカイの人世の中で何かが足りなかったんです。そこに虚しさがありました。今晩みなさんは如何でしょうか。皆さんの人世の中に空虚感はないでしょうか。それが何かわからないでしょう。それを探しているんですけれども何か発見できません。それは神を捜し求めているんです。それは神なんです。神様のもとに行くことができるのはイエス・キリスト様を通してだけなんです。ザアカイはキリストのもとに来たかったんです。自分自身でイエスさまを見たいと願いました。ザアカイは求めていました。赦しを求めていました。今晩あなたも赦されたいと願いますか。イエスの血はすべての罪より私たちをきよめますと聖書は言っています。今晩神の前に平安というものをいただくことができる。私たちは信仰によって神との平和をもっていますと聖書は言っている。イエス・キリスト様はエリコの町を通られました。今晩イエス様はここにおられます。そしてイエス様はザアカイを見たんです。今晩イエスさまはなたをご覧になっておられる。イエス・キリストがザアカイのために立ち止まりました。そしてザアカイの名前を呼んだんです。神様は皆さんの一人一人の名前をご存じです。神様はあなたを創ってくださった方です。神様はあなたを愛しておられます。そして皆さんを罪から救うために一人子であるイエス・キリスト様を送って下さったんです。そしてザアカイと名前で呼んでくださった。そしてその呼びかけは急ぐ必要がありました。ザアカイは急いでその呼び掛けに応じて下りてきました。ザアカイには選ぶことができました。今晩皆さんも選ぶ時があるんです。ザアカイは従うのですが木の上に座っていた。ザアカイはこたえました。ザアカイは従ったんです。イエス様の呼び掛けに応えてすぐに下りてきました。今晩信仰をもってイエス様のもとに来られませんか。ザアカイがしたようにしていただきたいんです。信仰によってイエス・キリストを信じることによって。イエス・キリストは言いました。私は道であり真理であり命なのです。私を通してでなければ誰一人父の御もとに行くことはできません。

 この世の中には多くの宗教があります。今晩私は宗なんです。モハメッドがあなたの罪を取り除いたわけではありません。仏陀があなたの罪を取り除いたわけではありません。この歴史上であなたの罪を取り除くお方は誰もおられませんでした。あなたの身代わりになって罪を取り除くために死んでくださったのは一人だけです。生きておられる神の御子イエス・キリスト様です。主イエス・キリストです。今晩この主のもとに来られませんか。今しばらくするとお招きをいたします。どうぞ招きに応じる準備をしてください。この方以外には誰によっても救いはありません。世界中でこの御名、名前の他には私たちが救われるべき名としてはどのような名も人間には与えられていない。どうしてでしょうか。それはあなたの罪のために死んでくださったのはイエス・キリスト様だけだからです。いえす・キリスト様は葬り去られそしてよみがえってくださったんです。御子イエス・キリストを信じる者は永遠の命を持つ。でも御子イエス・キリストに聞き従わない者は命を見ることがなく神の怒りがその上に留まると聖書はいっております。今晩信じませんか。今晩信頼を置きませんか。誰でもイエス・キリスト様を信じる者は永遠の命が与えられる。でもここにある意味があるんです。もしそれを拒否するならば、もしこのお方に聞き従わないのならば命を見ることはできない。神の怒りが皆さんの上に留まる。信仰がなくては神に喜ばれることはできません。神に近づく者には神がおられることと神を求める者には報いて下さるお方であることを信じなければならないのです。ザアカイはイエス・キリスト様を受け入れました。ザアカイはイエス・キリスト様に言われたことに従っていきました。この方イエス・キリストを受け入れた人々即ちその名を信じた人々には神の子どもとされる特権をお与えになった。イエス・キリスト様がザアカイを呼んだときに、ザアカイは直ぐに下りてきてキリストのもとに来ました。そして彼が告白したことは、イエス・キリストあなたは主です。今晩皆さんの人世の中でイエス・キリストを主と告白しようではありませんか。私を人の前で認める者はみな私も天におられる父の前でその人を認めますと聖書はいっています。もしあなたの口でイエスを主と告白しあなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるならあなたは救われるからです。ザアカイは自分の罪を悔いていました。ザアカイは言いました。私が騙した物を4倍にして返します。自分の財産を半分貧しい人に分け与えます。もうザアカイにとってお金は問題ではありませんでした。もうこの罪が赦された喜びに満たされていました。

 神様とのよい関係を大切にしましょう。イエス・キリスト様に信頼を置いたんです。今晩イエス・キリスト様のもとに来られるときにどうぞ神の前に悔い改める準備をしていきましょう。聖書は言ってます。私は正しい人を招くためではなく罪人が悔い改めるために来たのです。神はあなた方に対して忍耐ぶかくあられるのであって一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのですと聖書はいっています。イエス様は言われました。私が道であり真理であり命なのです。私を通してでなければ誰一人父の御もとに行くことはできません。今晩キリストのもとに来られませんか。信じましょう。今晩皆さんは赦されるんです。今晩あなたは新しい人世を始めるんです。そしてそこには選択があります。イエス・キリスト様を受け入れるか、それを拒否するか。それをあなたが選ぶことです。今晩いまからそのときを持ちます。今晩イエス・キリストを信仰をもって受け入れてください。イエス・キリストを救い主として信じてください。どうぞあなたの人世の主として信じ従ってください。今その選択をしようではありませんか。この中のすべての人々この場に於いて、今まででイエス・キリストを自分の心にいまだかつて迎え入れた事のない方々、いえす・キリストを救い主として信じたことのない方々、いまみなさんがおられるその場に立ち上がって前に進み出てください。そして皆さんが前に来られたら祈りを導きます。もし2階席におられる方は階段を下りて前に進み出てください。

 フランクリン・グラハム氏のメッセージはプログラムの最後でした。メッセージはここで終わりますが、これからお招きがありお祈りの導きがなされました。多くの方々が招きに応じられました。

 レコーダーから聞きとれない部分もありましたし、若干違っている部分もあろうかと思いますが、できるだけ忠実に書かせていただきました。きょうこのように疲れを覚えず書くことができ、また書くための時間が与えられた事を感謝しつつ。文責:中ぶんな

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「東北・希望の祭典」ーフランクリン・グラハム氏のメッセージその1 -

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 「東北・希望の祭典」の最終日のフランクリン・グラハム氏のメッセージを2回に分けてお届けします。

通訳:内村保氏

 みなさんこんばんは! 今週はすばらしい音楽に満たされたでしょうか。この舞台で歌を歌って下さった方、またすべてのことをしてくださった一人一人またグループに感謝を申し上げ たいと思います。ありがとうございました。そしてまた感謝を述べたいと思います。仙台に私たちを招いてくださった実行委員の先生方にも感謝します。この先 生方が準備のために多くの時間を割いてくださいました。ほんとうに私たちは感謝の思いでいっぱいです。教会そして牧師先生方にも感謝を申し上げたいと思い ます。今週のこの大会のためにサポートしてくださり感謝します。ボランティアの方々にも感謝します。カウンセラーの方、またその他のさまざまな奉仕者、こ のすべての背景に多くの方々の働きがあります。すべての一人一人に私から特別な感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございます。また多くのビジネス マンの方々が多くを捧げてくださいました。そして多くのサービスをしてくださいました。すべての人々に感謝をしたいと思います。また最後に神様に私は感謝 したいと思います。
 イエス・キリスト様に来るということについてお話ししたいと思います。この大会に於いて多くの機会、イエス・キリスト様につ いて聞かれたと思います。今晩皆様方にこのイエス様と出会っていただきたいのです。私たちの体の中には魂というのがあります。この魂、霊というのは神様の 前に特別なものであります。神様が皆さんを作って下さったのです。神様は私たちに息を吹きかけ私たちは生きるものとなった。そして皆さんが持っているこの 魂、霊というものは、皆さんに一つしかないんです。ある日私たちはこの体が死ぬ日を迎えます。私たちの内側にある魂、霊というのは永遠に生きるんです。今 晩私たちは永遠にどこでこの霊を過ごすかお話ししたいと思います。
 聖書はいってます。人はたとえ全世界を手に入れても魂、命を損じたら何になる でしょうと。自分の魂を買い戻すために人はいったい何を差し出すことができるでしょう。神様があなたを創ってくださいました。でも私たちには問題があるん です。その問題というのは罪というものです。罪というものが私たちの人類に悪いものを持ってきました。この罪というものが神と私たちを分け隔てたんです。 神様に話すことはできません。神様に良い関係を持つこともできません。それは罪というものがそれを遮るからです。でも今晩皆様の罪は赦されるんです。神様 と良い関係を持つことができるんです。神様は皆さん一人一人を愛しておられます。そして皆さんと良い関係を持ちたいと願っておられます。でもこの罪という ものが壁となっております。でも今晩この罪は赦されるんです。神様との良い関係を持つことができる。神の御子であるイエス・キリストを信じることによっ て。神様はひとり子のイエスさまをこの地上に送り私たちの罪を取り除くために来てくださいました。イエス・キリスト様は私たちの罪をもって十字架に架から れました。皆さんの代りに死んでくださったんです。神様はこのイエス様をよみがえらせました。今晩しばらくすると皆さんをお招きしたいと思います。皆さん がおられるところ立ち上がって前に踏み出ていただきたい。そして祈りを導きたいと思います。皆さんの罪を神の前に告白し、神様に赦しを求めましょう。神の 御子イエス・キリストさまを皆さんの心に迎えいれてください。今晩私たちの人生は変わります。みなさんの魂はこのすばらしい神様に握られるのです。

 でもその前に聖書をお読みいたします。この人の話は魂を失おうとしていた人の話です。ルカによる福音書19章というところです。 
1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。
2
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
3
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。
4
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
5
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
6
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
7
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
8
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
9
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 

 この人は自分の魂を失う危険の中 にいました。今晩この中におられる皆さんも魂を失う危険性の中にあるのではないでしょうか。イエス・キリスト様はこのエリコという町を通っておられまし た。エルサレムというところから約27キロ離れたところです。今日もまだこの町は存在します。イエスさまの時代、この街はとても重要な町でした。そこは貿 易が行われるところでした。ですからローマの国はそこに取税人を置いて税金を集めました。ザアカイはその取税所のトップでした。不正な公務員でした。誰も 人を欺く公務員はいません。ユダヤ人ではありますけれどもローマに仕えている人でした。そして税金を集めるとき、普通よりももっと余計に集めていた。そし て取税人という人たちは、その儲けた分を自分のポケットに入れていたんです。ですから自分の同胞からお金を得て金持ちになった人です。彼は騙していまし た。嘘をついていました。でもイエス・キリスト様がそこを通られたんです。ここに興味深いことがあります。ザアカイはイエス様が誰か見たいと思ったんで す。今晩ここにおられる皆さんもイエス様という方を知りたいならば、そしてこの方を見るんです。今晩ここにおられる方々がイエス・キリストと出会うことが できるんです。イエス様のもとに来たいと願いましょう。でもそこには障害となるものがあります。そこには多くの群衆がいたでしょう。彼は背が低かったんで す。もう大勢の人の後ろでは何も見えません。神様の目から見ると私は小さいものだと思っている人はいませんか。自分の人生なんて神の前にはちっぽけだと 思っている人はいませんか。皆さん一人一人は神の前に小さなものではないんです。神様はあなたを創ってくださり、あなたを愛しておられる方です。神様はあ なたを愛しておられます。そして天から一人子のイエス・キリスト様をこの地上に送りあなたを救うために来てくださったんです。神は実にそのひとり子イエ ス・キリストをお与えになったほどに世を愛された、それは御子イエス・キリストを信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。   ー次のページにつづくー



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「東北・希望の祭典」 ー集われた多くの方々、そして讃美

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 3月2(金)~4日(日)の3日間に亘る「東北・希望の祭典」。本会場グランディ21・セキスイハイムスーパーアリーナには3日間での入場者数は、2日は霙混じりの降雪の中1,630人(内決心者35人)、3日4,780 人(内決心者166人)、4日5,310人(内決心者133人)でした。盛岡のライブ中継会場では2日間で140人の方々が来場、その中からやはり信仰告白された方々がいらっしゃいました。他6ヶ所でもサテライトを設け中継され多くの方々が集いました。

 最終日には阪神大震災で弟を失った森祐理が南三陸から駆け付け、その思いと澄みきった歌声を聞かせてくれた。森の弟が住まう天の故郷、その故郷を会場の皆さまとともに歌いました。続いて敬称は略しますが、演歌のみずき舞、アルフィー・サイラス、7回のグラミー賞に輝くカーク・フランクリン、テノール新垣勉、3rd Wave、被災地31ヶ所回ったカントリーウェスタンのギタリスト、シンガーのデニス・アガジャニアン、トミー・クームズバンドのそれぞれが楽しく心に染みいる音楽、ミュージックを使命感に貫かれた響きをも併せて多くの人々の心に届けました。

 明日のブログではフランクリン・グラハム氏のメッセージを掲載いたします。

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国際七宝展で奨励賞ー天沼三津子さんが10年ぶりにー

 展示会などがあるときにこのブログでご紹介している七宝作家の天沼三津子さんが、第25回国際七宝・ジュエリーコンテストで奨励賞を受賞しました。出品し続けて19年。10年ぶり6度目の入賞です。受賞作は、ハヤチネウスユキソウを題材にしたネックレス「地上の星」。コンテストには10カ国から約100人が130点を応募し、20人が入賞。入選作品は3月6日から12日まで東京都の上野の森美術館ギャラリーで展示されます。
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 いま2012年2月27日の盛岡タイムスの記事から書いておりますが、
「技法は難易度の高い伝統の有線七宝の研ぎ仕上げ。研ぎは180番から3000番までの8種類の砥石を使い分ける。…研ぎ仕上げは漆塗りのような風合いになる。天沼さんは「七宝らしい七宝よりも、しっとりとした仕上がりを目指したい」と、ガラスから渋い光を引き出している。
 23歳で七宝に魅せられ、独学で「アトリエ・ミツコ」を立ち上げた。30代で彫金を修得し、「手抜きをしない」をモットーに七宝ジュエリーにこだわってきた。「人よりいいものを作りたいとおもったらおまけの努力が必要。たとえば釉薬の洗浄作業人よりもちょっとだけ多めに洗う。人がこれでいいなと思うところでやめずに、ちょっとの努力をすることでもっときれいな色が出る。このおまけを絶やさずに、これからも七宝を作り続けていきたい」と天沼さん。

 以下は私のコメントですが、

私は自分用にイヤリングをお願いしたことがあります。出来るだけ小さめで四角なものを白系統でとお願いしたところ、何と、「小さめよりも一回り大きいものがあなたには似合うと思うから」と二通り作ってくださったのです。なるほどつけてみますと天沼さんの仰る通りです。私は前言を取り消し、大きめのほうを選らばせていただきました。以来、冠婚葬祭のときに真珠を飾るしかしたことのない私が、アクセサリー、これは天沼さんが作ってくださったイヤリングだけですが、たまにつけるようになりました。単に販売するというのではなく、ほんとうに似合うかどうかにもはっきりとした提言をくださいます。天沼さんの作品は七宝自体が洋服のうえで輝くというよりも、一見地味に見えながらも、つけたときにそのファッションを活かしてくれるという、そういったアクセサリーを多く制作しています。手を抜かない姿勢は暮しの随所に表れており、花作りなどもその一例です。


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春よ来い!

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  写真に写っている空は真っ青だが、きょうは朝から雪。そして夕方にはそれが雨に変わった。9時近い今も雨音がしている。午後3時半ごろには震度3かと思われる地震があった。
 きょうもやるべき事が二つ三つあったが、いまはゆったりとした時が流れている。スタンド、パソコン、音響機器、スキャナ、ヘッドホン、ストーブ、座卓、書架、片付け忘れた湯飲み茶碗、これらがみな自分が置いた場所にそのままあることに、散らかってはいるが、雑多な紙類がそのままそこにあることに安堵する。たんたんと滴の音がしている。まるで近づいてくる春の足音のようだ。これほど春が待たれた年もなかったように思う。

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きょうのことばー『福音の手と足』

きょうで三日間にわたる「東北・希望の祭典」はおわりました。アクティブで熱い信仰とイエスさまを信じる人々の流れを静かに感謝した三日間でした。きょうの日曜日はいつものように、一週間まえの礼拝講壇のメッセージをお伝えしておりますのでご了解ください。

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2012226日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡0196462924)國光勝美牧師の説教をお届けします。

説教題 『福音の手と足』

聖書引証 ローマ人への手紙101115

11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
14
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
15
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
 

前回はパウロの遺言ともいえるテモテ個人に宛てた手紙をお開きしましたが、今回のこのローマ人への手紙は、パウロによってローマにある教会宛に書かれたものです。きょうは福音伝道というテーマでメッセージを導かれております。

 いよいよ「東北・希望の祭典」、今掲示されておりますのは、ライブ中継盛岡のチラシですので33日(土)、4日(日)の2日間となっております。この本会場は32日(金)、3日(土)、4日(日)と三日に亘り、仙台のグランディ21を会場にして行われます。たまもの豊かなゴスペルシンガーの方々の音楽と、そしてフランクリン・グラハム氏の聖書からのメッセージがあります。311の東日本大震災を想いながら仙台に集まろうと東北の人々に呼び掛け、神の御前にもういちど新たに壇を築き出発の時としようと企画されました。そしてこれを仙台だけではなく、東北の各地にお伝えしたいと、各県7ヶ所にライブ中継会場が設けられました。青森、三沢、八戸、秋田、酒田、福島、盛岡です。

盛岡会場は、インターネット中継の設備、音響、プロジェクターを備えた日本基督教団の内丸教会が快く提供くださいました。さっそく中尾敬一兄弟が、使用にはまったく支障がないことをチェックいたしました。会場の許容人数は通常100人。補助椅子も足せば150200人までは可能だということです。そしてデービット・松本先生によるスタッフの研修会が持たれました。先生はグラハムのスタッフになる以前はアメリカの軍人であり然るべき地位にあったようです。初めてお会いした盛岡駅での小一時間のミーティングのなかで、先生と中尾兄弟とのてきぱきとした段取りの確認でそれを感じたことでした。この段階で、私は盛岡教会の可能な集会の規模は3040人と想定しておりました。ところが先生は200人規模を考えておられたのです。

この教会での研修会には18人の方々が集まってくださいました。仙北町のバプテスト教会の角谷先生。また田園ホール近くの盛岡チャペルにいらっしゃる水田先生ご夫妻で、九州の佐賀のインマヌエルの臼井先生と親交があられます。それから北上の伊藤先生。また東松園教会におられるルーテル同胞の姉妹。それから内丸の先生は休暇中ですが代りに一人の姉妹がおいでくださっています。私たちにとっては非常に新鮮な研鑽のときでした。それを受けまして、きょうのメッセージの導きを得ました。

ここにデービット・松本先生が、仮設住宅を回られたときに作られた作詞があります。「故郷」のメロディーで歌ってみましょう。

1.イエスの愛はいまでも

私を日々引き上げ

心の傷を優しくいやす

とわの命主の愛 

2.この命は主のもの

われらともに生きよう

悩む魂に伝えてゆこう

 とわの命主の愛 

デービッド先生の研修会を受けて、「希望の祭典」において、私たちが福音をもっと単純にストレートにお伝えすることを神さまは期待しておられる。世間的な会話を交えず15分で福音を人さまに伝えることができるか、これではないかと思いました。

 みなさんは握力がどれぐらいおありですか。私は30年以上前になりますが、開拓伝道で盛岡に来て初めて花粉症に罹りました。激しい頭痛、手足のしびれといった症状がでました。脳神経外科に行き、診て貰っている最中にその症状が出、吃驚した看護師さんが先ず私に握力計を握らせたのです。そして「プロ野球のピッチャー並みです」と言われました。スポーツ選手の握力を調べてみますと、ハンマー投げの室伏が120。引退した海王が110。プロ野球を引退した新庄92。ハマの大魔神こと佐々木主浩ピッチャー80。朝青龍75。私は80ぐらいありました。今は50もいきませんが。ただ使っていれば握力は出てくる。 「福音の手」があります。これをしっかりと握って繰り返すことによって、クリスチャンの持つ信仰というものがはっきりしてきます。親指「神は愛」…第一ヨハネ48神は愛だからです」。人差し指「私は罪人」…ローマ310義人はいない。ひとりもいない」。中指「キリストの十字架」…第二コリント521「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」。薬指「信仰」…ローマ1013主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。小指「御言の約束」…ローマ1011彼に信頼する者は、失望させられることがない」

ダイエットのためには自転車こぎがいいらしい。どこのジムにも自転車マシンが置いてあります。ただ或る方は勘違いをして負荷を重くしてしまう。これは筋肉が付くがダイエットにはならない。むしろギアを軽くして何回もこぐほうが効果がある。小さなことでもそれを繰り返しやることが、私たち信仰生活の大きな力になるのだと思います。握力もそうでしょう。

親指「神は愛」。人差し指「私は罪人です」。これは目的から外れている生き方のことです。よく紙を切ろうとしてカッターマットに以前つけてしまったキズの方に引き寄せられ、切りたい方向と違ってしまうことがあります。本当は真っ直ぐいきたいのに曲がってしまう。私たちが本来歩むべきところから離れてしまう。それからもう一つ罪人というときに、失われている状態であること。たとえばこの時計、私にとっては大切なものですが、この時計をもしどこかに置き忘れてしまったとき、時計事態の性能に変化はなくとも、もはやこの時計は何物でもなくなる、私たちは神さまにとって大切な存在なのですが、しかし神さまから離れてしまった状態では、本来の意味を持たなくなる、それは人間のあるべきところではない。このように言えるでしょう。ローマ人への手紙310節には「義人はいない。ひとりもいない。」と書かれています。中指「キリストの十字架」。いちばん中心にあり高く聳えているもの、これがキリストの十字架です。十字架こそ福音の中心中の中心です。薬指「信仰」。イエス・キリストの十字架を信じること。小指「御言葉の約束」。たとえていうならパッキン。水道の蛇口のパッキンもあれば固体ロケットブースターに使われるOリングというパッキンまであります。機械などの生命的部分が完璧であったとしても、その漏れを防ぐこのような部品に氷点下でヒビが入っただけでも爆発事故が起ったりする。スペースシャトルの事故がそうでした。人が救われるというとき、このパッキン、聖書の約束のことばというパッキンをしっかりと嵌めておけば、信仰の脱落を防ぐことができます。

聖書の神のことば、これを知っているだけで、新しい方が求めていらしたときに、神さまは愛なのです。神さまは私たちをほんとうに愛していてくださる。私たちは神さまの愛を受けることができないほど罪人なのです。一人一人置かれている人生の局面は違っているでしょうけれども、皆このところを例外なく通っている。ぜひこの「福音の手」を覚えていただきたい。今回のデーヴィット先生が語ってくださったことは、まさにこれなのです。これを何回も繰り返しているうちに強い握力になるでしょう。

 さて福音の手と足といいました。これを伝えること。ローマ人への手紙1015節には「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」とございます。せっかく自分の受けている福音を、どうか多くの方々にお伝えしようではありませんか。良いことを伝える足として教会が、そしてお一人お一人が用いられますならばほんとうに幸いなことでございます。

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すばらしきこの日

 きょうは2012年3月3日(土)。私は勿論、盛岡の内丸教会で行われた「東北・希望の祭典」に出かけた。本会場である仙台のグランディ21のライブ中継を見ることができた。
ーいまこれを書いている22時26分に地震がありました。震度3程度かと思われますがー
 クリスチャンの音楽家、ミュージシャン、演歌歌手、ギタリストの出演。こんなときには大いに手を打ち鳴らしリズムに乗って楽しむべし!!

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 本会場の熱気が伝わってくる。神への讃美が溢れている。神の愛がシンガーの全身から、あるときは淡々と、あるときは切々と、あるときは歓喜となって湧きでる。

 そしてフランクリン・グラハムのメッセージ。彼は言う。神と人とを隔てているものは何か。神と人とのあいだに壁となっているものは何か。

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 そしてきょう、イエス・キリストを信じ、隔ての壁を除かれた魂が天に加えられました。彼女は言いました。「きょうから私はもう一人じゃない」。そう、彼女はきょうからいつでも神と二人で人生を歩むことになったのです。2012年3月3日(土)のこの日、天に大いなる喜び、神の勝利がありました。

 「東北・希望の祭典」は明日4日(日)にも仙台であります。そしてそのライブ中継もあります。盛岡会場は日本基督教団内丸教会で午後3時会場、4時開演です。世界的なメッセンジャーの声を聴いてください。地球をおおう神への賛歌、人へのまことの愛の歌声を聴いてください。
 

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いよいよですー「東北・希望の祭典」ライブ中継ー盛岡会場:日本基督教団内丸教会 午後4時~

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盛岡の中継会場:内丸教会(盛岡市中央通1-6-44)

3/3 (土)

16:00〜19:00 東北・希望の祭典(開場15:00)
カーク・フランクリン、3rdWave、新垣勉、デニス・アガジャニアン、
みずき舞、柳川立行、トミー・クームズバンド
メッセージ:フランクリン・グラハム師

3/4 (日)
 
16:00〜19:00 東北・希望の祭典(開場15:00)
カーク・フランクリン、3rdWave、新垣勉、デニス・アガジャニアン、
みずき舞、柳川立行、トミー・クームズバンド
メッセージ:フランクリン・グラハム師

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いまもって癒えぬ悲しみ

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 きょうから3月。といってもブログを書くのは大抵はあと数時間で一日が終わろうとするときなのだが。
 去年の今時期はもう生涯忘れることができないことばかりだ。9日舅が掛り付けのN内科にいたとき、昼前だったが宮城県沖震度4という地震があった。舅はこの内科の医師のお世話で入院先を紹介してもらい午後3時にはそちらに入院となった。このときの地震があの11日の大地震の予兆であったのだ。大地震直後入院先の新しいこの病院のエレベーターの上の壁には亀裂が入っていた。看護師さん達が患者を一ヶ所に集めて守ってくれたという。そのあと一旦退院した舅は10日間自宅療養ののち吐血、救急車で入院。それは治癒したのだが余病が併発し5月10日に他界している。自宅にいるあいだは主人と共に介護に当たった。一人の力では動かすことができなかった。自宅にいるあいだにいきなり大きな揺れが来た場合にはどのようにして迅速に移動させたらよいか方法を考えたものだった。
 この大震災で多くの命が失われた中で、93歳の命を何とか取り留めようとしていた。たとえ110歳であろうと本人には生きる権利があるからだ。しかし5月になって舅は旅だっていった。家庭的なことをいえばこのような事態だったが、沿岸の惨状は酷いものだった。そして原発は心底恐ろしかった。
 家族を亡くした方々の心は今以て決して癒えてはいない。涙が底をつかないのです。気晴らしで一時意識から遠ざけているように見えるときでも、大きな悲しみの傷口は心の底でばっくりと口を開けているのです。
 実は「東北・希望の祭典」も、このような中におられる方々の心の魂の救済を願って企画されました。本会場は仙台のグランディ・21セキスイハイムスーパーアリーナ

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これが東北の7ヶ所でライブ中継(内丸教会の地図はこちらから入れます)されます。盛岡会場は日本基督教団内丸教会 (019-622-6688)です。
ライブ中継の方は3月3(土)、4(日)の2日間 会場午後3時。開演午後4時~です。

おでかけください!! ご参加ください!!

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