きょうのことばー『わたしを呼べ』
日曜日に掲載するべきであった教会の説教を、遅れましたことをお詫びし、本日掲載いたします。2012年2月12日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教です。
いま、三つのおことばが基準として心の中にございます。一つは創世記17章1節
1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
そして、きょうの主題であるエレミヤの33章2~3節
2 「地を造られた主、それを形造って確立された主、その名は主である方がこう仰せられる。
3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
そして最後にイザヤ書43章13節
13 これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう。」
プロセスからいいますと、イザヤ43章13節が最初に私の心に鳴り響いて来ました。恐らくこのおことばへの願望から真っ先に浮かんだのでしょう。大きなイベントである「東北・希望の祭典」の開催に関わることになりました。励ましをいただかんと思い巡らしておりますうちに、これが次つぎに文語訳で出てまいりました。今この教団は新改訳聖書を使っていますが、盛岡を開拓して数年は文語訳聖書を使っておりました。文語訳を暗記しましたので、どうしても文語で出てきます。その中で、創世記の17章1節がでてき、またイザヤ書43章13節がでてくると、それに従うようにエレミヤ書33章2~3節が想起され、この3つがセットのように響いてくるのです。
いかにも、蔦田二雄先生の講壇に仕えていた時代、このおことばが折あるごとに語られていましたが、それで私の心の中にも止まっていたのでしょう。そしてはたと柘植不知人(つげふじと)先生を思い出しました。この教団と近しい4つの伝道団を設立された器で、バックストンの流れ、ホーリネス系の流れで、活水の群れといわれ、松本の教会の歴史の源流はこの活水の群れであったのです。この柘植不知人先生の生涯的なおことばが、やはり今日掲げております三つのおことばでした。ああいう時代の先生方にとっても大きな意味があったのです。翻って、私たちも今神さまから同じく激励のおことばが与えられている、そのように捕えさせていただきたく思います。
旧約聖書の中の大予言書の一つがこのエレミヤ書です。そして、きょう三つのおことばが骨組みとしてあるという意味はこれであります。神は、「わたしは全能の神である」とアブラハムに御自身を現わされ、その神は、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と仰った。これはいったいどのような意味を持つものなのだろう。またエレミヤ書では、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」といわれ、イザヤ書では「わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう。」と仰る。
創世記17章の「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」、これは、アブラハムが99歳のときに神様が久しぶりに現われて言われたおことばです。アブラハムは、神さまが自分を祝福してくださるなら子どもを与えてくださるはずだ、ところが自分の妻サラには子どもが与えられない。いったい神さまが祝福するといったお約束はどうなるのだろう。彼は彼なりに悩み、聖書の時代ではよくそうしたのですが、奥さんのすすめもあって、彼はハガルという夫人を通して子どもを得る。アブラハムは神と親しい友であったにも関わらずそうした。しかしこの時にようやく現れてくださった神は、「全き者であれ。」と仰った。神さまはここで何を全きとせよとお命じになったのか。
ここでは律法的に行いによってキズのない欠けのない完全をアブラハムに命じているというよりも、むしろ弱さを、私たちの弱さを誰よりも十分深くご存じいらっしゃるお方が、「全き者であれ」と仰るとき、これは神さまへの信頼において完全であるように、これを神さまは願っておられるのではないか。人間的な姑息な手段で動き回るのではなくそこに解決を求めるというのではなく、全幅的に神様に信頼する、今回のこの大きなことに直面し、当然私たちはなし得るベストを尽くします。きょうチラシ、ポスターが準備せられそしてマシェリにも次には広告が載ることになっております。が、それ以上に、神さまが私たちに期待しているのは、私に信頼するように、そこにおいて全き者であれと神さまは期待しておられる。「アブラハム神を信ず、神これを彼の義と認めたまえり」と書かれてあります。これだろうと思います。信仰においてまず全面的に神さまを信じる者であらせていただきたい、このように思いました。そして一つ、神さまは呼び求めなさいとエレミヤに語りかけてくださいました。詩篇81篇10節に「汝の口を広く開けよ、われものを満たしめん」というおことばがありますが、さて私たちはほんとうに呼び求めるという行為をどれだけしているでしょうか。
あの映画「ベン・ハー」に、彼が大海原で筏で漂流する場面があります。滅多には通りかからない船がやっと見えた。「助けてくれー」と叫んだが船は通り過ぎてしまった、これでは必死になって呼び求めたとは言えません。とにかく思いつく限りの方策を尽くし絶叫してでも呼び止めるべきでしょう。
ここで盲人のバルテマイを思い出します。マルコ10章46~52節、
46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。
52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
バルテマイは叫び始め、叫び立てた。ここには2人の盲人がいたのです。ところが、このバルテマイの方がよほど目だっていたのでしょう。イエスさまは「あの人を呼んできなさい」と仰った。バルテマイはエレミヤ書で神が仰った「われを呼び求めよ」に相応しく呼び求めた。この叫び、これほどに私たちは切に神さまに叫びたて願うべきなのです。そしてイエスさまは、「あの人を呼んできなさい」と仰いました。
このたびの「東北・希望の祭典」、これは私たちが群れとして共通して関わっているところですが、ただにそれだけではないはずです。皆さん方が、今マルコでいうならば、51節のことばです。そこでイエスはさらにこういわれた。わたしに何をして欲しいのか。最初はバルテマイが憐れんでください。わたしも憐れんでくださいと叫び始め叫び立て、イエスさまが読んできなさいとイエス様の前に行ったとき、イエスさまは、私に何をして貰いたいのか、そしたら彼は、先生、目が見えるようになることです。はっきりと、彼は何をして貰いたいのかということを、イエス様に訴え増した。イエスさまこれをご存じでないはずはない。イエスさまは百もご存じ。ここで何をして貰いたいときの私たちの叫び方、それに憐れんでください。だけど何をして貰いたいのか。そう、こういって求める焦点がはっきりと合うように私たちが直面する課題もそうだと思います。憐れんでくださいと、先週、今週、或いはお一人お一人が直面するときに、ああ、本当に主を呼び求めるというほどに叫び方をし、そして何をして貰いたいのかとイエスさまに問われたときに、はいということができる求め方。その時神様は大いなることを為してくださる。私は全能の神である。われおこなはば、誰かかこれを止めるを演や。お話しを締め括りますが、私たちの信じている神様をどうか全能の神というお方を新たに、アブラハムがそうであったように、アブラハム神を信ず。神これを彼の義と認めたまえり。信仰をもってこのお方に近づきたいと思います。そしてそれは、具体的には、神を呼ぶということです。エレミヤのおことばにありますが、そしてイザヤにもその名はふしぎと呼ばれるお方。あなたがたはいまだ思わざる事隠れたることを我汝にしめさん。と仰ってくださいます。エレミヤ33章2、3節をお読みいたしましょう。
2 「地を造られた主、それを形造って確立された主、その名は主である方がこう仰せられる。
3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
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