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きょうのことばー『いつもあなたがたとともに』

2012年1月29日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の礼拝説教をお届けいたします。この日は國光ひろ子牧師が講壇に立たれました。

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説教題 『いつもあなたがたとともに』

聖書引証 詩篇145篇

 毎年1月最後の聖日は、主任牧師が他出しますので、私が礼拝の御用をするようにと仰せつかり、ほんとうに緊張しながらこの講壇に立たせていただいております。

 先ほど読んでいただきました詩篇145篇の御聖言に入ります前に、皆さんにお祈りをしていただきたいと思うのですが、324日、東北希望の祭典が仙台に於いてフランクリン・グラハム氏をお迎えして開かれます。会場のグランディ・21宮城県総合運動公園にありますセキスイハイムスーパーアリーナは7000人が入ると聞きました。受け入れ教会である先生方が全力でこの準備に当たっておられます。きょうの午後2時半から決起大会が開かれます。仙台の田中敬康先生が責任者となっております。是非お祈りをもってこれが完遂されますようにお祈りいただきたいと思います。また盛岡に於いてはリアルタイムでこの希望の祭典のインターネット中継があります。盛岡に会場を設け、スライドで同時参加できるように準備が進められております。すばらしい讃美をしてくださる方々がいらっしゃいます。その時間帯でフランクリン・グラハム先生のメッセージは15分だということです。その短い中で生きた福音が語られます。

メッセージ15分、ご聖霊さまさえ働いていてくださるなら、説教の時間はこれで十分なのでしょう。そのようなことをも思いながらきょうの説教のご奉仕をさせていただきたく思っております。

【説教】

詩篇145篇。これはダビデの賛美です。そしてこの詩篇は、ある注解所には、「神の偉大さと神を敬うすべての人への神の不変の愛が繰り返し謳われている」とあり、また「神への讃美の詩篇としてこの145篇は全150篇ある詩篇中では最も美しいものの一つとして目立っている」との解説もございました。

145篇の17節は王である神さまに向かっての讃美の詩が書かれています。そして89節には神さまがどんなに善なるお方であるかを読ませていただくことができます。
8
は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。
9
はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。

この短いことばの中に、善にして善を為したもう神さまが現わされているように思います。

さらに後半1016節には、この神さまの素晴らしさを私たちは多くの人たちに述べ伝え告げ知らせなければならないと書かれております。

また最後の1721

17 はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。
18
主を呼び求めるすべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

神さまは私たちを常に助けてくださるお方である。神さまは求める者に近くあってお助けくださるお方であることが書かれています。912節には、「すべて」ということばが11回、「みな」ということばが2回使われている。ここに集中的に使われております。ということは18節にありますように、

18 主を呼び求めるすべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

というこのことには例外が無い。この約束は誰にでも当てはまるのです。このことに大きな励ましとまた恵みをいただきました。

あの東日本大震災から早10ヶ月以上が過ぎ去りました。最初は戸惑うばかりで言葉がないといいますか、どのように祈ったらいいのか、神さまなぜですかと言いたくなるのですが、言ってもいいかどうかわからない、ずっとそのような気持でおりました。ほんとうに祈りの言葉さえも分らない。そのように過ごし、しだいに月日が経っていく中で、いつの間にか、「自分と震災」というテーマに対峙し真正面から真剣に考えざるをえなくなりました。それまではただ「主よ憐れんでください」という祈りしかできなかったのです。真剣に向き合ってみますと、色々なおことばを与えられました。それを御紹介しながら、神さまの恵みをお分かちできたなら感謝でございます。

いちばん最初に心に浮かんだおことばは、歴代誌第二16章9節
9
はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」た主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

この中の「はその御目をもって、あまねく全地を見渡し」ということばが最初に心に響いてきました。そして「あまねく全地を見渡し」というときに、例外などないのだと思いました。神さまは見ておられる。

そして次に私の心に思い巡らされてきたおことばが、先ほどの詩篇14518節「まことをもって主を呼び求める者すべてには近くあられる」というおことばでした。たいへん恵まれました。「主が近くあられる」。

また申命記47節を見ますと、

 まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。

とありますが、この、「近くにおられる」が思い巡らしの中で浮かんでまいりました。私自身がその渦中に身を置いているわけではない、そのことが悪いなどといった問題ではなく、先ほど、「あすを守られるイエス」という讃美歌を歌いましたが、「あすはどんな日かわたしは知らない」のです。次の瞬間自分がどこにいて、どのようになっているのか知りません。そのときに、私がクリスチャンであることで、神さまからの大きな課題にあって、神さまが与えてくださる恵みとは何なのだろう。それは与えられたおことばから、いつ如何なるときにも神さまはすべてを見ておられる。そして呼び求める者に近くあってくださると聖書は言っているのです。

この教団の信仰の土台ともなっておりますイギリスのジョン・ウェスレーは長い伝道生涯を締め括るときに、「最もよきこと、それは神が共にいますことである」と言いました。私自身も、3年前に心臓の治療のために入院しました。詩篇461

神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

このおことばをいただいて、心の準備もないままに病院へ行き、何の準備もないままに入院し、何の知識もないままに「検査をして治療をします」と言われたときには吃驚しました。これからの人生がどうなるのかと思ったときに与えられたのが、「そこにある助け」、というおことばでした。文語訳では「いと近き助け」、また別訳では、「必ずそこにいまして助けてくださる」と書かれています。それで動揺せずにおりましたが、多くの医療機械器具に囲まれ、治療台に上がって、看護師さんの声掛けをいただくなかで、私は初めてのことなので万一のこともあると、「神さま、近くにいてくださるのは嬉しいですけれども、近くにいてくださるだけではなく、私をしっかり見ていてください」と祈ったことを今でも覚えています。傍にといっても距離がありますので、私から目を離さないでくださいとお祈りしました。これまでにも多くの方々が治療を受けて治っているわけですが、或いは何㌫かは万が一の結果も有り得る。結果に文句は言いませんと署名はしますが、このようなときのクリスチャンとしての恵みは何だろうと思ったときに、それは神さまに一緒に共にと言うことができる、そのことだと思いました。一生涯の終わりにもそう言うことができる。ほんとうに考えさせられました。

11月に高齢で一人暮らしの國光幾代子先生のお手伝いに行きました。大震災のことに話しが及ぶと、先生が、「このようなときのクリスチャンの特権、クリスチャンの恵みって何?」と訊きました。私もそのことを考えていましたので、「それは、神さまが共にいてくださる、そういうところに遭遇するかしないか、全く関係ないし、また次の瞬間私たちは何があるか分らないわけですが、どんなときにも神さまが共にいてくださることだと思う」と言いました。直ぐに幾代子先生も「そう、神さまが共にいてくださることよね」と仰ったときに、私は、心が震える思いでそれを実感したのです。そして私はさらに付け加えました。「そして神さまが共にいてくださるということを、クリスチャンは実感出来ることだと思います」と言ったのですが、今もそれがその通りだということを強く思います。私たち外側から見れば他の人たちと何も変わったところはありません。たまたま内陸の盛岡にいましたから直接的な被災はしませんでしたけれども、それと関係なく、クリスチャンであるというときに、被災地で教会が流された教会もありますし、また家を失くしたクリスチャンもいます。しかしそのような中で、クリスチャンにとってのいちばんの特権、クリスチャンの恵み、それは神さまが共にいてくださることである。洗濯機の中で色々なものが渦を巻く中で、一つ中心にあるもの、それは神さまがともにいてくださるということ、そして私たちは自分の中でそれを知ることができる。それがクリスチャンの恵みであり特権であります。そのような中であと二つのみことばが与えられましたので紹介し締め括りたいと思います。箴言521節。

21 人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。

共にいてくださるというお方は、私たちの道筋のすべてに心を配り、私たちに最善しかなさらない、心を配って導いてくださるお方であるという納得をいただきました。ですから、いまの状況がどのようであっても、これを心の平安をもって対処していくことができるのです。

そして、もう一つ、マタイの福音書2820

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

私たちはこの意味をほとんど理解していないかもしれない。しかし理解していようといまいと、神さまはこのお約束を果たしてくださる。これには大きな恵みと力をいただくことができました。

ジョン・ウェスレーは、「最もよきこと、それは神が共にいますことである」と言いました。また「明日を守られるイエスさまがある」ということも確認させていただきました。どうぞこのお方に目を留めながら進ませていただきたいと思います。私たちは、暗い闇に迷い込んで心が沈むときもある。しかし、そこで一瞬止まって神さまを見上げるときに神さまは、「わたしは共にいる」と仰ってくださるならば、私たちはそこをひとりではなかなか難しいですけれども、主の助けを頂きながら歩ませていただきたい。私たちのすべてに心を配っていてくださるお方に、私たちも心を向けてこの一週間歩ませていただきたいと思います。

※若干聞き間違いがある場合があります。ご指摘ください。文責:中ぶんな

 

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