感謝!感謝!
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J.S.バッハの一連のクラヴィーア協奏曲は、ライプツィヒのコレギウム・ムジクムという演奏団体のために創作されていたようだ。
バッハのコレギウム・ムジクムの主な活動場所はG.ツィンマーマンが経営するコーヒー店とコーヒー庭園で、冬は金曜の夜8~10時。夏は水曜日の夕方4~6時、毎週定期的に演奏会を開いていたという。
いつもなら夕食後はコーヒーを飲まないのだが、明朝の起床はゆっくりでいいと思うと、8時という時間だが、つい一杯淹れてしまった。飲んでいるところに、主人がたまたまそこにあった息子から送られてきたCDを掛けたのがこの曲。居間で聴いている。冬のあいだパソコンは一階と二階を忙しく往復している。
曲が流れた途端に部屋の空気が整然と流れだした。これはいい。一旦聴きだすと際限がなくなるのだが、ブログを書きながら聴いているいまは3ラウンド目だ。急かされることもなく駆り立てられることもなく心地よい響きに伴われてゆったりと過ぎゆく時間。気がつけばもう10時。ツィンマーマンのコーヒー庭園のコンサートがおひらきになる時間だ。バッハもこの庭園でコーヒーを飲みながら自作の出来具合に耳を澄ませたのだろうか。バッハが飲んだコーヒーはモカかキリマンジャロかブルーマウンテンか。はたまたこの銘柄が当時あったであろうか等々興味は尽きないと書きたいところだが、明日は明日の興味となるやもしれない。
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賀川豊彦もまた獄中経験をしたようだ。大正10年7月29日の川崎と三菱の労働大争議のときだ。争議を指導したのは賀川だった。川崎争議団本部と神戸友愛会本部の幹部200人とともに検束されたのだ。そのときに彼が神戸監獄署橘分監で詠んだ歌がある。
真夜中の一時は鳴りぬ二時ききぬ醒めたる我は獄の虫とる
僧房のその生活に似たるかな我とみ神と二人にしあれば
三年も五年も此処に置かれても神捨てざればうきことはなし
わが友は監房の戸口に額あてよよとぞ泣きぬ眼もあてられぬほど
このあと8月10日には証拠不十分として釈放、出獄している。
また賀川は昭和13年、15年に満州伝道旅行をする。帰京し、昭和15年6月に東京の松沢教会で「エレミヤ哀歌に学ぶ」と題して行った説教が反戦運動の容疑を受ける。特に南京での日本軍の暴行事件を公開の席で喋ったという嫌疑を持たれ、陸軍刑法99条による流言蜚語で起訴され巣鴨拘置所に送られてしまう。ところが、外務大臣松岡洋右が司法大臣風見章に会い賀川を釈放させる。9月13日に「拘束不必要」として釈放されている。
大正10年の獄中生活は10日余。昭和15年では約3ヶ月の獄中生活。この約3ヶ月が賀川にどのような教訓、変化をもたらしたかは分らないが、彼が「教会を強くしてください。日本を救ってください。世界に平和を来たらしてください。主によってアーメン」と祈った昭和35年4月23日の夜に彼は昇天している。
信仰の結果は神のみぞ知る。しかし、「救貧よりも、積極的な防貧」のため、自ら貧しい人々のまっただ中に生き、粉骨労し労働組合を立ち上げ各種組合を組織したその常人為し能わぬ業績には圧倒される。非難する人々もいるが、彼は生涯信仰を保ち続け、また金銭と女性とに清らかであったのは確かなようだ。
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(ライブ中継盛岡会場は日本基督教団の内丸教会です)
以下に、2012年2月19日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の礼拝説教をお届けします。説教題 『厳かな教会の使命』
聖書引証 テモテへの手紙第二 4章1~8節
1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
「東北・希望の祭典」がいよいよ近づきましたが、御聖言(みことば)から恵と整えをいただきたく導かれていることでございます。
きょうはテモテへの手紙第二の4章を開きました。パウロによって書かれた手紙は新約聖書の多くの部分を占めております。ローマ、コリント、ガラテヤなどといた教会宛の書簡と個人宛の書簡とがありますが、テモテへの手紙はテモテという個人宛の書簡です。殊にもこのテモテへの手紙は、後継者に対する遺言的な内容となっています。これを書いたときには軟禁状態ではなく地下牢に投げ込まれていました。「6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」と最期がきていることを自覚し、そして11節では、「マルコを伴って、いっしょに来てください。」と言っています。また13節では上着と書物と羊皮紙を持って着て欲しいと頼んでいます。苛酷な状況の中で何としても書き遺さねばならないと彼はペンを取ったのです。
この手紙の冒頭には、「1私はおごそかに命じます。」とございます。私たちが今神からおごそかに命じられていることは何か、それを学ぶためにきょうはこのテモテへの手紙をお開きいたしました。
「神の御前で」そして「生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で」命じるとあります。パウロが殉教を目前にして命がけで言い置きたかったこと、それは2節にある「みことばを宣べ伝えなさい」、このことです。そして伝道するにも困難な世の中になることを3~5節で述べています。
3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
それでも「2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」とパウロは言っています。この盛岡にもエホバの証人、統一協会、ロデムといった危険な新興宗教の進出が見られます。これらは聖書的ではなくむしろ福音伝道の妨げとなっています。この時代の危機に乗じて勢力を拡大しています。人々が真理から耳を背けてしまう、このような時代に、このような時代だからこそ、私たちは、おごそかに命じられているのです。
テモテへの手紙第二の3章15節には「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」とございます。間近に迫りました「東北・希望の祭典」も、ここに焦点を合わせて臨みたいと思います。
よみがえられたイエスさまも宣教を命じておられます。マルコの福音書16章15節「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
またマタイの福音書28章でも命じておられます。
「19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
自分たちだけが福音の恵の中にあっていいはずがないのです。
12月には松本にいる私の両親がイエスさまを信じ洗礼を受けました。90過ぎた父が度々電話をかけてきて、「ありがとう、ありがとう」と繰り返します。先週はI兄弟姉妹のお母様に福音をお伝えしたところ信仰に立たれました。
「東北・希望の祭典」で、私たち一人一人が関係者にみことばをお伝えし、イエスさまを知っていただく機会となすことができますように、私たちにはそれが託され命じられている。これを命じる相手が威儀を正し、「1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」とまでいっているとき、私たちはこれを真剣に受け止めてしっかりとみことばをのべ伝えるべきではないのか、私はそのように導かれております。
最後に使徒の働き18章9節を確認いたしましょう。
9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。
あのパウロにして恐れることがあったのです。私たちも、もし人にこんなことを言ったらどう思われるか、どんな仕打ちをうけるかと恐れることがあり得ます。
ここに一人の若い牧師の証しがございます。彼は開拓伝道を始めたばかりのところで阪神大震災に遭いました。家族は助かりましたが会堂も潰れてしまいました。それから2年間多くのボランティアの方々とともに必死に炊きだしなどの被災支援をし、礼拝も天幕を張って行っておりました。仮設の方々からも多くの感謝の言葉をいただきました。やがて多くの方々が仮設を出てそれぞれの生活を築かれていきました。多くのクリスチャンからの献金でやっと教会も再建され、期待を持って2年間関係した方々にご案内をし集会を開いたところが外からは誰一人来なかった。彼の受けたショックは並大抵のものではありませんでした。私は確かに2年間精一杯ボランティアをしていたけれども、あの方々にイエス・キリストを伝えていただろうか。大きな反省を強いられたといいます。彼は言っています。
「福音の話さえしなければいい牧師さんで通る。人間関係が崩れることを危惧するゆえにキリストの証しを控えた向きがある。しかしどうだろう、キリストを証しせずに崩れる人間関係というものがあり、一方、キリストを証ししたがために崩れる人間関係があるとするならば、私はむしろ後者を選ぶべきだった。人間関係が崩れてもキリストを伝えなければ私は必ず後悔するだろう。」
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」
確かに今多くの方々が心をこめて被災者の方々のためにボランィアをしておられる。しかし今教会が為すべきこと為し得ること為さねばならないこと、イエスさまからおごそかに命じられていることは、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」、このことです。今だからこそさせていただきたい。よみがえられたイエスさまのご命令に心から応答させていただきたいと存じます。
※ 例話などの省略がございます。
文責:中ぶんな
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歌唱 松田 晃
1931年盛岡市生まれ
岩手大学を経て東京芸術大学委託課程修了。
岩手県立紫波高校教諭、盛岡短大教授、盛岡短大附属こまくさ幼稚園長、
岩手県合唱連盟理事長及び名誉会長、全日本合唱連盟常務理事兼財政委員長及び同監事、
同東北支部長、岩手県声楽研究会会長、岩手県教育振興基本対策審議会委員、岩手県芸術文化協会常務理事、岩手県文化振興事業団評議員を歴任。
指揮者、独唱者として県内外の演奏会に出演多数。
岩手県教育表彰(芸術・文化)、地方文化功労者表彰、岩手日報文化賞をうける。
声楽を糠塚ハル・千葉了道・秋本雅一朗、ピアノを三神昭子・岩崎操、指揮法を渡辺暁雄・髙田三郎・濱田徳昭・大谷研二の諸氏に学ぶ。
1962年より盛岡コメット混声合唱団指揮者。現在、岩手県立盛岡短期大学名誉教授、岩手県合唱連盟顧問、日本合唱指揮者協会会員、岩手声楽研究会名誉会長、雅声会代表、盛岡市文化振興事業団評議員。
ピアノ 雫石環
県立盛岡第二高等学校、国立音楽大学器楽科ピアノ専攻卒
ピアノを瀬川慶子、辛島輝治、池沢幹男の諸氏に師事
伴奏法を大場俊一氏に師事
大学在学中2年間、ダン・タイ・ソン氏の特別レッスン受講者に
選ばれる
平成7年ウィーン音楽大学夏期講習受講
岩手芸術祭ピアノ部門 第45回奨励賞、第46回芸術祭賞受賞
平成2年より盛岡コメット混声合唱団のピアノを受け持ち、これまで
同合唱団の演奏会及び合唱コンクール等にピアニストとして出演
現在、合唱・独唱・独奏の伴奏を中心に演奏活動を続けている
ピアノ教室主宰
シューベルト作曲:歌曲集『冬の旅』(村上敏明 訳詞による)
1.おやすみ 2.風見の旗 3.凍る涙 4.凍結 5.菩提樹
6.増水の川 7.川にて 8.回顧 9.鬼火 10.休止
11.春の夢 12.孤独 13.郵便 14.白髪 15.からす
16.最後の希望 17.村にて 18.嵐の朝 19.幻惑
20.道しるべ 21.はたごや 22.勇気 23.幻日
24.ライエル弾き
村上敏明(むらかみ としあき) 1927(昭和2)年東京生まれ、東京大学卒業、農学博士、岩手大学名誉教授、盛岡市在住
※会券:前売2,000円(当日2,500円)
前売券は岩手県民会館プレイガイドで発売中
※【11.春の夢】の後にコーヒータイム15分を設けます。
主催 雅声会
後援 岩手日報社、朝日新聞盛岡総局、盛岡タイムス、IBC岩手放送、テレビ岩手、めんこいテレビ、岩手朝日テレビ、エフエム岩手、(社)岩手県芸術文化協会、岩手県合唱連盟、岩手声楽研究会、盛岡コメット混声合唱団
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天才ヴァイオリニストヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetzas 1901~1987)は、演奏技術の完璧さからとかく冷たいなどと言われているようだ。さて、その時代にあって、自らの耳で聴いた人はどのように語っているのか。それが大正12年11月5日の東京朝日新聞に載っていたのでご紹介しよう。
「私の聴いたハイフェッツ
十歳で壇に立った魅力の演奏」
堀内敬三
来る七日に来朝して九日から三日間帝国ホテルに開かれるハイフェッツ氏の演奏は、大震災後清純な慰安に渇した我が罹災地の人々への天恵の一つでなければならぬ、氏に就いて新歸朝の音樂研究家堀内敬三氏の印象をかゝげる(一記者)
ハイフェッツはヴァイオリンの世界的大家であるが、年はまだ満二十四歳にしかならない。明治三十二年波●(判読不可)ウィルナ(ロシア帝国領ビルナー現在のリトアニアの首都ー)に生まれ、父は其地のシンフォニーオーケストラのコンヴェルトマイスター(主席のヴァイオリニスト)であった。彼は父の薫陶の下に三歳の年からヴァイオリンを弾き始め五歳の時には既に公衆の前で演奏を行ったと云ふ。ウィルナの王室音樂學校を卒へたのは七歳当時既に十分少年音樂家として認められてゐたであろう。やがて露都へ行ってレオポルド・アウアーの門下に加へられた。アウアーは今紐育(ニューヨーク)に居るが古くから世界無比と云はれるヴァイオリンの教授で、現代のヴァイオリニストは悉く其の門下から出てゐる●だから、入門も非常にやかましく、其の代り入門したら大抵は大家になれると云ふ見込みがつけられる位に評判が高い。ハイフェッツはアウアーの下で專心技を磨き、その下を離れて愈(いよいよ)本式に演壇に立ったのは僅かに十歳の時であった。
ハイフェッツは斯くて露西亜全國の演奏旅行に非常な喝采を受け、續いて全欧洲に亙る演奏旅行に天才の名を謳われた。昨年没なった有名な指揮者ニキシが獨逸ライプチヒのゲワントハウスのオーケストラを指揮し、ハイフェッツの獨奏に伴奏したのはハイフェッツが十二歳の時で、其頃迄に此の有名なオーケストラに依って伴奏された少年音樂家はヨアヒムだけであったといふ。其後二、三年の間に彼は一躍大家の列に入り、欧洲各地の大オーケストラはその演奏會に争って彼を演奏者として招いたが、戦争が始まってから欧洲が不便になってきたので、彼は十七歳の時シベリヤ、日本を経由して紐育へ赴き、爾来其処に定住して益(ますます)名聲を高めた。
彼の年齢は非常に若いが、其技巧は實に老練で、殊にパガニニやサラサテの作曲になる速度と複雑な技巧とを要する曲に就いては當代並ぶ者が少ない。ハイフェッツの音は常に美しい。どんなに早い所もピチカト、スタッカート、ダブルストップの連続する所も彼は其の輝くばかり●●な音色で奏して行く、苦しむ跡も渋滞の跡もない。いつも其の潤ひのある若々しい魅力に富んだ響きが彼の弓から奏し出される。その音程はどんな場合でも非常に正確で、細かい表情はフレーズイング、ボウイング、アクセント、強弱の正しい使い方によって明快に現わされる。そしてステージに於ける彼の態度は飽くまで平静である。
ハイフェッツは、バッハやブラームスやバイトーヴェンの曲を好んで弾くが私の聴いた中ではブルッフ、メンデルスゾーン、ウィニアウスキーなどの曲が非常に巧であった。斯う云ふ落ち着いた曲、ケレンの少ない曲に彼の示す正直な技巧はその超凡の理解力をよく語るもので、此ヽに彼の音色の美しさと不思議な魅力とは明らかに現わされる。
ハイフェッツは、趣味から云ってもなかなか豊かな人で、寫眞、ゴルフ、読書などその重なものであるが、就中寫眞は得意らしく、活動寫眞撮影機などをぶら下げて歩いてゐる所さへ見かけた事がある。年齢の割にふけた人で、いつも老人らしい恰好をしてゐる。
音色というものに相当に鋭敏な感覚を持つ日本の聴衆にハイフェッツは最もよい印象を与へるであろう。私はこの二、三年彼の演奏を聴かなかったが、人の話では其の間にも幾らかの進歩を見せたさうであるから、今度も私は大きい期待を持って、その來朝を迎へるわけである。
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日曜日に掲載するべきであった教会の説教を、遅れましたことをお詫びし、本日掲載いたします。2012年2月12日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教です。
いま、三つのおことばが基準として心の中にございます。一つは創世記17章1節
1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
そして、きょうの主題であるエレミヤの33章2~3節
2 「地を造られた主、それを形造って確立された主、その名は主である方がこう仰せられる。
3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
そして最後にイザヤ書43章13節
13 これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう。」
プロセスからいいますと、イザヤ43章13節が最初に私の心に鳴り響いて来ました。恐らくこのおことばへの願望から真っ先に浮かんだのでしょう。大きなイベントである「東北・希望の祭典」の開催に関わることになりました。励ましをいただかんと思い巡らしておりますうちに、これが次つぎに文語訳で出てまいりました。今この教団は新改訳聖書を使っていますが、盛岡を開拓して数年は文語訳聖書を使っておりました。文語訳を暗記しましたので、どうしても文語で出てきます。その中で、創世記の17章1節がでてき、またイザヤ書43章13節がでてくると、それに従うようにエレミヤ書33章2~3節が想起され、この3つがセットのように響いてくるのです。
いかにも、蔦田二雄先生の講壇に仕えていた時代、このおことばが折あるごとに語られていましたが、それで私の心の中にも止まっていたのでしょう。そしてはたと柘植不知人(つげふじと)先生を思い出しました。この教団と近しい4つの伝道団を設立された器で、バックストンの流れ、ホーリネス系の流れで、活水の群れといわれ、松本の教会の歴史の源流はこの活水の群れであったのです。この柘植不知人先生の生涯的なおことばが、やはり今日掲げております三つのおことばでした。ああいう時代の先生方にとっても大きな意味があったのです。翻って、私たちも今神さまから同じく激励のおことばが与えられている、そのように捕えさせていただきたく思います。
旧約聖書の中の大予言書の一つがこのエレミヤ書です。そして、きょう三つのおことばが骨組みとしてあるという意味はこれであります。神は、「わたしは全能の神である」とアブラハムに御自身を現わされ、その神は、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と仰った。これはいったいどのような意味を持つものなのだろう。またエレミヤ書では、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」といわれ、イザヤ書では「わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう。」と仰る。
創世記17章の「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」、これは、アブラハムが99歳のときに神様が久しぶりに現われて言われたおことばです。アブラハムは、神さまが自分を祝福してくださるなら子どもを与えてくださるはずだ、ところが自分の妻サラには子どもが与えられない。いったい神さまが祝福するといったお約束はどうなるのだろう。彼は彼なりに悩み、聖書の時代ではよくそうしたのですが、奥さんのすすめもあって、彼はハガルという夫人を通して子どもを得る。アブラハムは神と親しい友であったにも関わらずそうした。しかしこの時にようやく現れてくださった神は、「全き者であれ。」と仰った。神さまはここで何を全きとせよとお命じになったのか。
ここでは律法的に行いによってキズのない欠けのない完全をアブラハムに命じているというよりも、むしろ弱さを、私たちの弱さを誰よりも十分深くご存じいらっしゃるお方が、「全き者であれ」と仰るとき、これは神さまへの信頼において完全であるように、これを神さまは願っておられるのではないか。人間的な姑息な手段で動き回るのではなくそこに解決を求めるというのではなく、全幅的に神様に信頼する、今回のこの大きなことに直面し、当然私たちはなし得るベストを尽くします。きょうチラシ、ポスターが準備せられそしてマシェリにも次には広告が載ることになっております。が、それ以上に、神さまが私たちに期待しているのは、私に信頼するように、そこにおいて全き者であれと神さまは期待しておられる。「アブラハム神を信ず、神これを彼の義と認めたまえり」と書かれてあります。これだろうと思います。信仰においてまず全面的に神さまを信じる者であらせていただきたい、このように思いました。そして一つ、神さまは呼び求めなさいとエレミヤに語りかけてくださいました。詩篇81篇10節に「汝の口を広く開けよ、われものを満たしめん」というおことばがありますが、さて私たちはほんとうに呼び求めるという行為をどれだけしているでしょうか。
あの映画「ベン・ハー」に、彼が大海原で筏で漂流する場面があります。滅多には通りかからない船がやっと見えた。「助けてくれー」と叫んだが船は通り過ぎてしまった、これでは必死になって呼び求めたとは言えません。とにかく思いつく限りの方策を尽くし絶叫してでも呼び止めるべきでしょう。
ここで盲人のバルテマイを思い出します。マルコ10章46~52節、
46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。
52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
バルテマイは叫び始め、叫び立てた。ここには2人の盲人がいたのです。ところが、このバルテマイの方がよほど目だっていたのでしょう。イエスさまは「あの人を呼んできなさい」と仰った。バルテマイはエレミヤ書で神が仰った「われを呼び求めよ」に相応しく呼び求めた。この叫び、これほどに私たちは切に神さまに叫びたて願うべきなのです。そしてイエスさまは、「あの人を呼んできなさい」と仰いました。
このたびの「東北・希望の祭典」、これは私たちが群れとして共通して関わっているところですが、ただにそれだけではないはずです。皆さん方が、今マルコでいうならば、51節のことばです。そこでイエスはさらにこういわれた。わたしに何をして欲しいのか。最初はバルテマイが憐れんでください。わたしも憐れんでくださいと叫び始め叫び立て、イエスさまが読んできなさいとイエス様の前に行ったとき、イエスさまは、私に何をして貰いたいのか、そしたら彼は、先生、目が見えるようになることです。はっきりと、彼は何をして貰いたいのかということを、イエス様に訴え増した。イエスさまこれをご存じでないはずはない。イエスさまは百もご存じ。ここで何をして貰いたいときの私たちの叫び方、それに憐れんでください。だけど何をして貰いたいのか。そう、こういって求める焦点がはっきりと合うように私たちが直面する課題もそうだと思います。憐れんでくださいと、先週、今週、或いはお一人お一人が直面するときに、ああ、本当に主を呼び求めるというほどに叫び方をし、そして何をして貰いたいのかとイエスさまに問われたときに、はいということができる求め方。その時神様は大いなることを為してくださる。私は全能の神である。われおこなはば、誰かかこれを止めるを演や。お話しを締め括りますが、私たちの信じている神様をどうか全能の神というお方を新たに、アブラハムがそうであったように、アブラハム神を信ず。神これを彼の義と認めたまえり。信仰をもってこのお方に近づきたいと思います。そしてそれは、具体的には、神を呼ぶということです。エレミヤのおことばにありますが、そしてイザヤにもその名はふしぎと呼ばれるお方。あなたがたはいまだ思わざる事隠れたることを我汝にしめさん。と仰ってくださいます。エレミヤ33章2、3節をお読みいたしましょう。
2 「地を造られた主、それを形造って確立された主、その名は主である方がこう仰せられる。
3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
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土曜日は朝から首筋が痛み、鳩尾がだるく、疲れが出たのだろうぐらいに思っていた。直に治ると決め込み臥せっていたが昼になると熱が38、3度。もしやインフルエンザ?これは人に感染する、それよりも何よりも具合が悪い。ものが食べられない。しかし思った。ここで数日食べない方が健康にはいいかもしれない。体重を減らすチャンスかな。耳が腫れている。このときばかりは最寄りに駆け込む。するとすぐに総合病院の救急に回された。主人に送ってもらう。耳鼻科と思いこんでいたところ診療科目は皮膚科と告げられ意外だった。待つこと1時間。点滴1時間。病名は丹毒。そして食事支度のピンチヒッターは主人に。憧れの図式にやっと到達したのもつかの間、日曜日には熱も下がりかなり回復の見込みに。
そこで気になりだしたのが、毎週日曜に自分に課してしている説教の起こし。まずい、まずい。誰に頼まれるでもない、自分が勝手にやっていることだ。何時辞めても誰も異議申し立てなどはしない。だけどそれじゃ、まるで神様に守られなかったみたいじゃないの。まずい、まずい。これじゃまるで放り投げて何処かに遊びにいったと思われても仕方がない。ぐるぐるとほとんど無意味で非生産的なことまでを考える始末。耳の腫れはまだ安静にしていなさいと警告。多少悪化しても起きてやろう。しかしそのとき私ははたと意識の奧に神の慮りを感じ取った。やすみなさい、今は。この時はこの時で、私にはお前に教えることがある。神様はそう自分に仰っているのではないか。そうだ、私が今無理にでも起きてやろうとするのは、むしろ人の目を気にしているからであって、神をおもってのことではない。内心の自己分析ができた。
私はゆっくりと休むことにし、今日の為すべき事である点滴を受けに行った。これまでと全く別な視点から、この教団の宣教師のアフリカの病院での奉仕に照らしながら、医療現場の様子やスタッフの動きを見た。そして薬を処方してもらい受け取りにいったとき、二男の同級生のお母さんが薬剤師をしておられ、懐かしがってくださり、いまさっきメールを開けてみると、「お会いしましょう。土、日空いてます」。これもまた意外な嬉しい成り行きであった。
きょうも無理はしない。この辺りでパソを閉じるとしよう。
「主に感謝せよ。主はまことに慈しみ深い。その恵みは永遠まで」
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一昨日だったろうか、これは主人が話していたことだが、イソップ寓話に『アリとキリギリス』がある。主人は楽器を鳴らして夏中遊び暮すキリギリスのすがたに、長いあいだ、音楽とは怠け者がするものという印象を持っていたらしい。ところが高校生のとき、ラジオから流れるリストのプレリュードを聴いて音楽の良さに気づかされたという。このキリギリスが子ども達にのこす音楽イメージはたしかにすこし残念だが、これで寓話は寓話として成り立っているわけで、騒ぎ立てるほどのことではなく、こういう印象を持った子供達も早晩必ずや音楽を見直すときが待っている。何れ面白いなと思った。
Wikipediaによると、この話しの元は『アリとセミ』だが、ギリシャからアルプス以北に伝わるときの翻訳過程で『アリとキリギリス』となっている。セミはヨーロッパ北部ではあまりなじみのない昆虫だかららしい。
しばしば音楽で気分転換をし音楽に癒されている。もし音楽がなかったなら人生はどれほどに味気なくなることか。
3・11以降、被災地にはプロ、アマ問わず多くの音楽家達が訪れている。小山実稚恵さんも被災地に足を運んでくれた。その小山さんが、実に2012・3・11(日)のこの日、盛岡市民文化ホールにあの唸りのコバケンこと小林研一郎&東京都交響楽団とともに盛岡市民文化ホールにやってくる。被災地の一周忌。チャイコフスキーが演奏される。
多忙のため自分は行きかねるのだが、せめてご案内だけでも。
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演奏 いわてフィルハーモニーオーケストラ
ヴァイオリン 川畠成道
指揮 寺崎巖
曲目 メンデルスゾーン 序曲ハ長調
モーツァルト ディベルティメント K138
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲
エルガー 行進曲 「威風堂々」
冨田勲 新日本紀行のテーマ
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某図書館では新聞もDVD化しているということだが、岩手県立図書館で久方ぶりに昔の新聞の閲覧を申し出ると、やはりまだマイクロフィルムである。それをからからと回しながら大正にタイムスリップ。東京朝日新聞だ。関東大震災は大正12年9月1日。マイクロ上では2日~11日までが欠番となっていた。新聞社が曲がりなりにも発行に漕ぎ着いたのは震災から10日経ってからということになる。焼け野原となった東京で音楽活動ができるとしたら……
大正12年11月3日に音楽の記事が出てきた。
「若い元気を日比谷に漲らしたい
四日、本社の為に出演する
勇ましい音楽復興団」
この見出しで登場した写真は榊原直。
榊原直がインタヴューに応えている。記事は以下の通りです。当時のピアノ事情なども分ります。
「31日に関西の演奏旅行から帰りました。北陸金沢を振り出しに福井、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、福山、津山、広島、山口、尾道の12ヶ所で演奏会をやりましたが、大阪を除く他は至る所大成功でした。収入は全部焼けた東洋女子両市立音楽学校に寄附するつもりです」と。
来る4日、日比谷公園新音楽堂催す本社の慰安音楽会に音楽復興会員の一人として出演する。ピアノの榊原直氏は先ずその半月の旅に於ける収穫から語りだした。
「一行は何れも脚絆掛のリュックサックを背負った勇ましい姿だったのです。之までの演奏旅行で常に悩まされたピアノも至る所立派なものが備えられてあったのには驚きました。案外に思ったのは大阪の中の島公会堂にあるピアノが一番劣っていたことです。此の次は盛岡、それから金沢へは4日。日比谷に出演する顔ぶれで重ねて出かけることになって居り、大阪でも更にやりたいと思っています。山田氏其他老人連も音楽復興協会というのを拵えて帝都
復興の歌を作っているそうですが、老人は理屈が多くていけません。……震災後の音楽会ですか、これまで流行していた変梃なものが一切影を没して真実味が加わってきたことは大変結構なことと思って居ます」と、その日を想わせるような若い元気を示した。
そして大正12年11月5日(月)の東京朝日新聞には
「楽界一流の妙技に酔って
感激に満ちた聴衆
昨日日比谷に開かれた
本社主催慰安演奏会」
この見出しで以下の記事があります。
「本社主催音楽復興●(判読不可)出演の慰安音楽大演奏会は4日午後1時半から日比谷公園新音楽堂に開かれた震災以来久しく音楽のメロディに接しなかった人々は、午前●自頃から既に入場し始め約1萬の聴衆は全く取締警部補の所謂「音楽堂始まって以来の静粛さを以て熱心に聴き入った、薄曇りの空、そよとの風もない秋空の下に是等の聴衆と演奏者との気分がぴったりと合ってこの計画は全く感謝を以て酬いられた、演奏者は提琴独奏の窪氏、ピアノの榊原氏、アルトの花島秀子夫人、ソプラノ竹岡鶴代女史等何れも一流揃いで特にベートーヴェンの三重曲作品1の1やトーマ作ミニヨンの竹岡女史、独唱に至っては●感激の絶頂に引込まれて聴衆は盛んにアンコールを続けて止まなかった。伴奏者として我楽界に第一人者たる榊原氏の妙技!聴衆は廃墟の都から芸術の国へ夢の如く誘い込まれて行った。震災以●脅かされ通した市民の心がこんなに慰められたか感謝拍手に抱擁された音楽家たちの顔も●●に燃えていた。
以上の記事からもこの当時クラッシク音楽では最も演奏回数の多かった榊原たち一行が東北のそれも岩手の盛岡に11月にやってくるというのは特別なことであり、実は、この背景には当時の盛岡市郊外の太田に大正4年(大正6年という説もある)に結成された弦楽四重奏団太田カルテット(主宰者梅村保)の存在があり、彼らを毎夏太田に或いは盛岡に招待し厚遇したことがある。
実際には榊原直は窪と竹岡鶴代とともに来盛している。盛岡劇場の「罹災救恤大演奏会」に出演するためであった。ステージに立ったのは大正12年11月10日の夕べだった。午後2時からも予定が組まれていたが、三氏が極度に疲労していたので取りやめている。東京朝日新聞にはヴァイオリンは窪とのみ出ているが、太田カルテットのメンバー赤沢長五郎がのこしたプログラムによれば、窪兼雅であろう。盛岡公演のあと、太田カルテットは榊原ら一行を繋温泉に数泊招待している。
大正の時代、関東大震災のときにも、このようにチャリティーに極限まで身を投じた音楽家達があった。私は音楽の側面からだけを書いているが、その他、それこそ地球を覆うばかりの善意が、大災害のときにこそ表れ出でている。去年の東日本大震災からあと一月弱で一年が経過する。いち早く支援に動いたアメリカのサマリタン・パースは今度3月2、3、4日と仙台で開かれる「東北・希望の祭典」に協賛しているが、このように世界中の善意が、また国中の心を揺さぶり突き動かし、慈愛の支援の想いを呼び起こし良心を呼び起こしてくれるのは、多くの犠牲になった人々のその事実、つまりは犠牲者の方々が人の本来の有り様に目覚めさせてくれるているのではないか、ふとそう思われたことである。
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12日(日)、盛岡バッハ・カンタータ・フェラインのコンサートを聴いた。毎年の宗教曲演奏。それが今回で35周年という。管弦楽は東京バッハ・カンタータ・アンサンブル。鏡貴之さんが健康上の事情で出演できず、沼田臣也さんがステージに。
ミサ曲という“代物”の大方が退屈でしかなかった私が、この合唱団の演奏会がきっかけで何とか解って聴きたいと毎年“予習”をしては聴きに出かけていた。それがようよう解りかけてきたこの頃なのだ。今回は“予習”なしで聴くこととなった。手持ちのCDが無かったからである。むしろ新鮮に入ってくる。なまじ予習などしないで、真っ先に入ってくる音の記憶というものを大切にすべきかもしれないとも思った。何れ私が感じたのは、底光り。今回はここはマリオスではなく聖トーマス教会であると想像して聴いてみた。実際に行ってみたことはないのだが、そこは想像の利便性、すると実際曲が自然に耳に入ってくるから驚きだ。そこで思ったのは、私が現代曲をただ破壊的な過激さとしか感じられないのは、曲の持つ世界を知らないからだと思った。現代曲を聴くときに、たとえばアクションムービーやSF世界などを想像しながら聴くなら、俄然整合性が出てくるのではないか。これは余談だけれども、何れ、ミサ曲があの静謐な光が籠もる重く神聖な建造物に整合性があるのは、言うまでもなく確かなように思う。
マリオスにプログラムを落とすか忘れるかしてしまい、明日、それがあるかどうかわかることになっているが、20分の休憩で読んだだけで、もう一度よく読んでからつらつらと考えてみたい。
この東北に今このような宗教曲が流れることは非常に意味のあることであると思う。
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2012年2月5日のインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師の礼拝説教をお届けいたします。
説教題 『信仰の実践的祝福』
聖書引証 マルコの福音書 4章35~41節
【説教その1―主に「東北・希望の祭典」開催に先だっての経過報告】
この冬の最も寒い2月の第一聖日も変わりなく守ることができ感謝です。先週は、私は十和田に行っておりましたので、ひろ子先生に講壇を委ねました。礼拝の様子を伺いまして感謝を覚えたことです。そして今週10、11日にはお茶の水のOCCビルのインマヌエル綜合伝道団本部に於きまして、3年に1度の第19次総会が開かれます。盛岡教会としての総会は1月22日でしたが、今度は教団としての総会です。教団の条例によりますと、代表の任期は3年で2期まで。現在の代表竿代照夫師は2期満了、そこで新しい代表が選出されることになっております。このことのためにどうか格別にお祈り頂きたいと思います。
それからもう一つ、神さまから大きな信仰のチャレンジを頂いております。「東北・希望の祭典」がございます。あの3・11からこの1年近くに亘って、行政、民間、宗教界、これはキリスト教会をも含めてのことですが、みなが同じ想いで復興に尽力してきております。
アメリカのクリスチャンたちはこのような場合の対応は実に迅速です。キリスト教支援団体サマリタン・パースなどは、100トンの支援物資を専用機で空輸し3月19日には被災地に届けました。支援チームはこの時既に仙台に到着していたのです。阪神・淡路大震災のときもそうでした。私はたまたま教団の会議で伊豆・伊東におりました。ちょうど早天祈祷会に行こうとしたとき、どうも神戸の方で大きな震災があったらしいと聞きました。早天の担当の先生が急遽神戸に帰られたことで、これは容易ならざる事態が起きたと思いました。そのすぐ後の分科会のとき、アメリカの若い宣教師がおられたのですが、地震の話しを聞くやいなや、今すぐにでも支援に動くべきだ、日本の教会はこういう点が立ち後れていると、まだまったく確認情報が入っていない段階で直ぐさま行動に移った姿には驚いたことでした。
今回の「東北・希望の祭典」に関しても、アメリカのビリー・グラハム伝道団が母体となっている支援団体が動きました。被災地がまもなく大震災から1年を迎えようとしている今こそ、真の希望であるこの福音を伝えるときであると、仙台を拠点に教会に働きかけてきたのです。費用はすべてグラハムサイドで持つということです。この話しは、12月のクリスマスの頃に具体化しました。そしてその主旨に賛同する諸教会があり、今回インマヌエル仙台教会の田中敬康先生を実行責任者とし、日本キリスト教団の青葉荘教会の島隆三先生が事務局となって諸教会とともに動いております。いまは救援物資などが重要な段階であり救霊の集会を開くときではないというお考えの方もいらっしゃいます。けれども私たちは今だからこそキリスト教会にしか成しえない救霊という支援をすべきと「東北・希望の祭典」を、3月2、3、4日の3日間、仙台市のグランディ・21セキスイハイムスーパーアリーナに於いて開催することに致しました。
さらに、これが仙台のみに止まらず、インターネットを通じて東北の青森、秋田、山形、福島、岩手の各拠点からも恵みを提供したいとのグラハムサイドからの申し入れがありました。私は祈りの中に、これを神さまからのチャレンジと受け止めました。神さまは、これを通して教会が一歩前進することを期待しておられると思います。その後のスタッフの協議で、青森だけは2か所青森市と三沢で持たれることになりました。
盛岡での責任はインマヌエル盛岡キリスト教会にあります。そして諸教会の先生方のご意見をうかがいながら、会場は中原眞澄先生の快諾をいただき内丸教会の会堂で、3月3日(金)16:00~、4日(土)16:00~の2日日「東北・希望の祭典」のインターネットライブ中継を行うことに決定いたしました。
【説教その2―聖書からのメッセージー】
聖書引証 マルコの福音書4章35~41節
35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。
36 そこで弟子たちは、群集をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。
38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」
39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
このお話しはこのマルコ、そしてマタイ、ルカの三つの福音書にも書かれております。同じように書かれてはいるのですが、少しずつ違っているところがあります。「夕方になって」と書いてあるのはマルコ伝(の福音書)だけでした。そしてイエスは弟子たちと舟に乗り、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。この舟を出すそもそものきっかけはイエスさまが「渡ろう」と仰ったことにありました。「東北・希望の祭典」もイエスさまが私たちに命じておられるのではないでしょうか。
さて、この3つの福音書に共通していることがあります。マタイ伝8章には「イエスは眠っておられた。」とあり、マルコ伝4章には「イエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。」とあり、ルカ伝8章には「イエスはぐっすり眠ってしまわれた」とある。何れぐっすり眠っておられた。ここでふと、ほんとうにイエスさまはぐっすりと眠っておられたのだろうかという聖なる疑問がわきました。もしかすれば弟子たちがどうするかを薄目をあいてご覧になっていたのではないか。眠っていたと書いてあるのですから、そうに違いないのですが、ここですこし話しを膨らませて、弟子たちがイエスさまを抜きに自分たちの力だけで困難に立ち向かわなければならないときに、果たしてどんな行動を取るものかを実は見ておられたとしたら。今回の「東北・希望の祭典」のことも、このようなときに、受け止める諸教会、運営のスタッフ、或いは盛岡の教会の人たちはどのように行動するのか、イエスさまがそれを薄目でご覧になっているとしたらどうだろう、私はこのようにさえ考えました。
私はマルコの率直さが好きですが、「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」とマルコは書いています。そしてマタイ伝8章25節の方には「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」と書かれています。マルコの方は、私たちが溺れそうなのにイエスさまは何とも思わないんですか、という悲鳴が聞こえてきそうです。ここには私たちの飾らないありのままの心の動きが表れているように思います。信仰生活を送っていくときに、予期せぬ出来事が襲い来ることがあります。また良かれと思って為したことが裏目に出ることもあります。この聖書の場面も、弟子たちは大暴風雨で命が危ない状況です。「イエスさまは何とも思わないんですか」、私たちが課題、困難に直面したとき、ついこのような言葉を発してはいないでしょうか。「どうして私たちは、こんな苦しい目にあわなくちゃならないんですか」と。イエスさまはここで「黙れ、静まれ」と仰る。ここでは風を叱りつけているのですが、イエスさまは私たちの不信仰な心の動きを叱っておられる。そして「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と言われる。実は、私は今回の祭典に携わるに当たって、東北の伝道の厳しさ、準備期間の短さ、気象条件、夕刻という時間帯などに危惧を覚えるところがございました。しかし、これを読みながら、「イエスさま有難うございます」という心境になりました。イエスさまから叱られる。これは私たちへの神の愛の表れであります。私は叱られるうれしさをも覚えたことでした。本気でイエスさまとともに行かなければ、このような問題には直面しません。本気でイエスさまとともに行くからこそ直面するのです。イエスさまは「行こう」と仰る。行きましょう。神さまは私たち全体に、教会に大きな恵みに浴する機会を与えたく願っておられる。
41節にあります。
彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
ここで弟子たちが恐怖に包まれたほどの神さまの大いなる御業を、今こそ期待し進み行くことを神さまは願っておられるのではないでしょうか。このお方のおことばとご干渉があるならば、私たちが今回神さまから与えられている営みは、大きな祝福となるでしょう。イエスさまから「信仰が薄い」、「信仰がどこにあるのか」、「信仰がないのはどうしたのか」と言われるのは、結局は信頼しきっていないからなのです。
「我らは真実ならねども、彼は絶えず真実にましませり」ということばがあります。私たちの側がどのようであっても、イエスさまはいつも真実でいらっしゃいます。私たちはこのお方に信仰を持ち進み行けばいいのです。イエスさまは今、一人一人がどのようにするのかをご覧になっている。「東北・希望の祭典」に於いても、主は私たちを愛するがゆえにムチ打ち訓練してくださる。幸いなことです。私たちの疑いという波、私たちの恐れ、不安という嵐、これを「黙れ、静まれ」と自ら叱りながら運営に当たらせていただきたく思うことです。
※CDを起こして書かせていただいております。編集上割愛した部分がございます。
文責:中ぶんな
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東北・希望の祭典
2012/3/2(金) 18:00~
3(土) 16:00~
4(日) 16:00~
仙台市 グランディ・21 セキスイハイムスーパーアリーナ
東北・希望の祭典 ライブ盛岡中継
2012/3(土) 16:00~
4(日) 16:00~
盛岡市 内丸教会(電話019-622-6688)
盛岡中央郵便局と岩手医大を結ぶ路際にあります。
かつて4回ビリー・グラハムが来日していますが、今回はその息子フランクリン・グラハム氏がゲスト・スピーカーとして来日。この東北でキリストの愛・救い・永遠の命が語られます。
これは統一原理協会、エホバの証人(ものみの塔)などといった新興宗教とは関係ありませんので、安心しておでかけください。
多彩な豪華アーティストによる讃美をあなたに!!
下記のように宮城県の被災地域には送迎バスも準備されます。御連絡先も下記に。
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きょうはするりと時がすり抜けていったような一日だった。洗濯をし三食をつくる、これはもう常識で特筆するにはあたらないだろう。昼頃までは明るい日差しが屋内にさしこみ和んで過ごすことができた。たまにお茶に呼んでくださる方が玄関先にいらしたので、どうぞどうぞと強いて入っていただき、コーヒーをご一緒した。彼女が、いつか「明るさもご馳走のうち」と言っていたのを思い出し、閉まっていた障子戸を開けて日差しを取りこむ。ちょうど彼女が腰掛けたソファの一角が照らされた。
昼は今年になって初めてのパン食。コンソメスープを溶かし、溶き卵を流し、いただいたばかりの生わかめをたっぷりと入れる。茶色の生わかめがきれいな緑色に様変わり。新鮮な気分を貰う瞬間だ。沿岸にあるご実家は昨年津波をすんでのところで免れたという。あと一月と2日で一年。早いものだ。
さて午後からは一仕事とつらつらと思ううちに、首都直下型地震「4年以内に70パーセント」、が撤回されたことやら何やらが浮かび、あの情報源は東大だったけ、一旦書いてしまっている。また書き直さなくちゃ、やれやれ。しかしそれが70から30になったとしても、確率はどのほどであろうが、何れ来そうであるところが恐ろしい。
しているうちに環境を憂いて眼がすっかり嶮しくなった北上山地のイヌワシのワッシワッシと威嚇する翼の音も聞こえたような気がし、この威嚇にすぐさますくみ上がって反応するのにも一抹の不安を覚えつつ、しかし確かにこれも書くはずだったのが、いつのまにやらかき消えてしまっていた項目の一つ。それで取りあえずはILCの成り行き、これも3回ばかり新聞で読みながらも、まだまだ岩手に遡上したとは言い難いとコピーも取らないでしまった。数千万という調査費をかけてあっさりと脊振に持ちゆかれた日にはいったい、それと昨年の震災、何よりも原発の放射能汚染がどの範囲にまで……加速器ばかりではなく研究者、関連スタッフの住環境の問題と何か懸念材料ばかりが去来。しかしあるウェブページには、なかなか決まらないのは政治がらみがあるから、脊振の場合には建設予定トンネルの長さ30㎞までが限界で、さらに研究をグレードアップするために35ないし40㎞に延長することには無理があると出ていた。それにしてもILCの環境への影響がいったいどのようであるのかは今以て分らない。大震災を潜ってみればもう何としても誘致を実現させ東北の経済活性化に繋げなければ、他に新たな産業を構築することの厳しさがあるのだろう。
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佐渡に震度5強のニュース。雪に覆われた佐渡市がテレビ画面に。いまの段階被害は報告されてはいないようですが、何事もないことを祈りつつ、音楽会のお知らせをさせていただきます。
盛岡バッハ・カンタータ・フェライン35周年演奏会
ソプラノ 村元彩夏 金成佳枝
アルト 上杉清仁(カウンターテナー)
テノール 鏡貴之
バス 佐々木直樹
管弦楽 東京バッハ・カンタータ・アンサンブル
(コンサートマスター蒲生克郷)
合唱 盛岡バッハ・カンタータ・フェライン
指揮 佐々木正利
A.ヴィヴァルディ キリエ Kyrie RV587
クレド Credo RV591
マニフィカト Magnifical RV610
M..コレット 主を誉め称えよ Laudaie Dominum
J.S.バッハ ミサ曲イ長調 A-Dur Messe BWV234
S席5,000円(指定席) A席4,000円 (指定席) B席2,500円 (自由席)
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早寝早起き励行はなかなか守れそうにもない。あっという間に21時、22時を回っている。きょうも就寝時間をすこしだけ延長して書こうかと思う。
「コンサートが退屈な私って変?」クリスティアーネ・テヴィンケル著(春秋社)に以下のような箇所があった。
「コンサートで感じるどこか場違いな印象、それは退屈と混同されがちだけれど、こんな違和感が生まれる最大の原因は、作品が本来ならふさわしくない枠の中に押し込まれていることにある。たとえば宴会のための音楽や、娯楽向けの軽い音楽をコンサートで演奏しても、飲み食いは禁止だし、おしゃべりもできない。室内楽にしても、もともとは自分で音楽をやるような、ひとにぎりの「通」のために書かれたものだ。特定の標題(たとえば自然、恋、シェイクスピアの作品など)にもとづく作品なのに、、その詳しい内容が今ではわからなくなっていることもある。それに教会音楽の演奏会で、曲の中味に対する宗教的な共感から、ぜひ一度聴いてみようという熱心な聴衆が集まったのに、会場が宗教とはぜんぜん縁のない場所だったなんてことは、けっこう多いんじゃないだろうか?」
これに続いて
「バッハの時代にはマタイ受難曲の上演は聖金曜日の晩課の一部で、途中に長い説教が挟まれていた。イエスの十字架の道行きに自分も加わり、痛みと苦しみをともにすることが大きな目的だった。アリアはどれも、深く黙想に浸るためのもので、……歌詞が何を歌ったものか、聴衆はみなわかっていた。……」
こうなると、たとえばバッハを最も相応しい場所で、最も相応しい環境で味わうにはやはり礼拝堂でコンサートを開き、最低一箇所に司祭か牧師の説教をもうけ、聖書の中味をすこしでも知り、祈り心を持ちながら耳を傾けるのがよい、こういうことなのだろう。
また室内楽は本来大ホールで聴くべきものではないということになる。箏や三味線はお座敷でということにもなろうか。
ただ、どんな場所で、どんな時間に、どんな心境のときに聴いても胸に染みいってくる音楽というものもある。これは人によって違うかも知れない。或る方にとっては演歌が、シャンソンが、ジャズが、また或る方にとってはドイツリードがとさまざまだろう。私の場合には讃美歌、「アメージング・グレイス」である。道ばたでどこの誰とも知られぬ方のバックの中から携帯の着信音として聞こえてきたとき、病院の待ち時間に流れてきたとき、ラジオから、テレビから、そのどのアメージング・グレイスにも私の心には、限りない優しさ、これは神の愛であるかもしれない、それが心にじわりと湧き出る。これは神が人類に与えた慰めの曲の一つであると私は思っている。
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1956(昭和31)年、1967(昭和42)年、1980(昭和55)、1994(平成6)年と日本に於いてビリー・グラハム大会が開かれ、この4回の聴衆延べ人数は約69万5千人。決心者は94,238人でした。
そして2012年、この平成の困難な東北の地に、神は、ビリー・グラハムの息子フランクリン・グラハム師を遣わされるのです。
東北・希望の祭典
Tohoku Celebration of Hope
With Franklin Graham
キリストの愛・救い・永遠のいのち
グランディ・21セキスイハイムスーパーアリーナ
2012年
3/2(金)18:00~ 3/3(土)16:00~ 3/4(日)16:00~
入場料無料
インターネット盛岡中継に参加しよう!!
ライブ中継
3月3日(土) 16:00~18:30
3月4日(日) 16:00~18:30
内丸教会礼拝堂
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2012年1月29日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の礼拝説教をお届けいたします。この日は國光ひろ子牧師が講壇に立たれました。
説教題 『いつもあなたがたとともに』
聖書引証 詩篇145篇
毎年1月最後の聖日は、主任牧師が他出しますので、私が礼拝の御用をするようにと仰せつかり、ほんとうに緊張しながらこの講壇に立たせていただいております。
先ほど読んでいただきました詩篇145篇の御聖言に入ります前に、皆さんにお祈りをしていただきたいと思うのですが、3月2~4日、東北希望の祭典が仙台に於いてフランクリン・グラハム氏をお迎えして開かれます。会場のグランディ・21宮城県総合運動公園にありますセキスイハイムスーパーアリーナは7000人が入ると聞きました。受け入れ教会である先生方が全力でこの準備に当たっておられます。きょうの午後2時半から決起大会が開かれます。仙台の田中敬康先生が責任者となっております。是非お祈りをもってこれが完遂されますようにお祈りいただきたいと思います。また盛岡に於いてはリアルタイムでこの希望の祭典のインターネット中継があります。盛岡に会場を設け、スライドで同時参加できるように準備が進められております。すばらしい讃美をしてくださる方々がいらっしゃいます。その時間帯でフランクリン・グラハム先生のメッセージは15分だということです。その短い中で生きた福音が語られます。
メッセージ15分、ご聖霊さまさえ働いていてくださるなら、説教の時間はこれで十分なのでしょう。そのようなことをも思いながらきょうの説教のご奉仕をさせていただきたく思っております。
【説教】
詩篇145篇。これはダビデの賛美です。そしてこの詩篇は、ある注解所には、「神の偉大さと神を敬うすべての人への神の不変の愛が繰り返し謳われている」とあり、また「神への讃美の詩篇としてこの145篇は全150篇ある詩篇中では最も美しいものの一つとして目立っている」との解説もございました。
145篇の1~7節は王である神さまに向かっての讃美の詩が書かれています。そして8、9節には神さまがどんなに善なるお方であるかを読ませていただくことができます。
8 主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。
9 主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。
この短いことばの中に、善にして善を為したもう神さまが現わされているように思います。
さらに後半10~16節には、この神さまの素晴らしさを私たちは多くの人たちに述べ伝え告げ知らせなければならないと書かれております。
また最後の17~21節
17 主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。
18 主を呼び求めるすべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。
神さまは私たちを常に助けてくださるお方である。神さまは求める者に近くあってお助けくださるお方であることが書かれています。9~12節には、「すべて」ということばが11回、「みな」ということばが2回使われている。ここに集中的に使われております。ということは18節にありますように、
18 主を呼び求めるすべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。
というこのことには例外が無い。この約束は誰にでも当てはまるのです。このことに大きな励ましとまた恵みをいただきました。
あの東日本大震災から早10ヶ月以上が過ぎ去りました。最初は戸惑うばかりで言葉がないといいますか、どのように祈ったらいいのか、神さまなぜですかと言いたくなるのですが、言ってもいいかどうかわからない、ずっとそのような気持でおりました。ほんとうに祈りの言葉さえも分らない。そのように過ごし、しだいに月日が経っていく中で、いつの間にか、「自分と震災」というテーマに対峙し真正面から真剣に考えざるをえなくなりました。それまではただ「主よ憐れんでください」という祈りしかできなかったのです。真剣に向き合ってみますと、色々なおことばを与えられました。それを御紹介しながら、神さまの恵みをお分かちできたなら感謝でございます。
いちばん最初に心に浮かんだおことばは、歴代誌第二16章9節
9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」た主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。
この中の「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し」ということばが最初に心に響いてきました。そして「あまねく全地を見渡し」というときに、例外などないのだと思いました。神さまは見ておられる。
そして次に私の心に思い巡らされてきたおことばが、先ほどの詩篇145篇18節「まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる」というおことばでした。たいへん恵まれました。「主が近くあられる」。
また申命記4章7節を見ますと、
まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。
とありますが、この、「近くにおられる」が思い巡らしの中で浮かんでまいりました。私自身がその渦中に身を置いているわけではない、そのことが悪いなどといった問題ではなく、先ほど、「あすを守られるイエス」という讃美歌を歌いましたが、「あすはどんな日かわたしは知らない」のです。次の瞬間自分がどこにいて、どのようになっているのか知りません。そのときに、私がクリスチャンであることで、神さまからの大きな課題にあって、神さまが与えてくださる恵みとは何なのだろう。それは与えられたおことばから、いつ如何なるときにも神さまはすべてを見ておられる。そして呼び求める者に近くあってくださると聖書は言っているのです。
この教団の信仰の土台ともなっておりますイギリスのジョン・ウェスレーは長い伝道生涯を締め括るときに、「最もよきこと、それは神が共にいますことである」と言いました。私自身も、3年前に心臓の治療のために入院しました。詩篇46篇1節
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
このおことばをいただいて、心の準備もないままに病院へ行き、何の準備もないままに入院し、何の知識もないままに「検査をして治療をします」と言われたときには吃驚しました。これからの人生がどうなるのかと思ったときに与えられたのが、「そこにある助け」、というおことばでした。文語訳では「いと近き助け」、また別訳では、「必ずそこにいまして助けてくださる」と書かれています。それで動揺せずにおりましたが、多くの医療機械器具に囲まれ、治療台に上がって、看護師さんの声掛けをいただくなかで、私は初めてのことなので万一のこともあると、「神さま、近くにいてくださるのは嬉しいですけれども、近くにいてくださるだけではなく、私をしっかり見ていてください」と祈ったことを今でも覚えています。傍にといっても距離がありますので、私から目を離さないでくださいとお祈りしました。これまでにも多くの方々が治療を受けて治っているわけですが、或いは何㌫かは万が一の結果も有り得る。結果に文句は言いませんと署名はしますが、このようなときのクリスチャンとしての恵みは何だろうと思ったときに、それは神さまに一緒に共にと言うことができる、そのことだと思いました。一生涯の終わりにもそう言うことができる。ほんとうに考えさせられました。
11月に高齢で一人暮らしの國光幾代子先生のお手伝いに行きました。大震災のことに話しが及ぶと、先生が、「このようなときのクリスチャンの特権、クリスチャンの恵みって何?」と訊きました。私もそのことを考えていましたので、「それは、神さまが共にいてくださる、そういうところに遭遇するかしないか、全く関係ないし、また次の瞬間私たちは何があるか分らないわけですが、どんなときにも神さまが共にいてくださることだと思う」と言いました。直ぐに幾代子先生も「そう、神さまが共にいてくださることよね」と仰ったときに、私は、心が震える思いでそれを実感したのです。そして私はさらに付け加えました。「そして神さまが共にいてくださるということを、クリスチャンは実感出来ることだと思います」と言ったのですが、今もそれがその通りだということを強く思います。私たち外側から見れば他の人たちと何も変わったところはありません。たまたま内陸の盛岡にいましたから直接的な被災はしませんでしたけれども、それと関係なく、クリスチャンであるというときに、被災地で教会が流された教会もありますし、また家を失くしたクリスチャンもいます。しかしそのような中で、クリスチャンにとってのいちばんの特権、クリスチャンの恵み、それは神さまが共にいてくださることである。洗濯機の中で色々なものが渦を巻く中で、一つ中心にあるもの、それは神さまがともにいてくださるということ、そして私たちは自分の中でそれを知ることができる。それがクリスチャンの恵みであり特権であります。そのような中であと二つのみことばが与えられましたので紹介し締め括りたいと思います。箴言5章21節。
21 人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。
共にいてくださるというお方は、私たちの道筋のすべてに心を配り、私たちに最善しかなさらない、心を配って導いてくださるお方であるという納得をいただきました。ですから、いまの状況がどのようであっても、これを心の平安をもって対処していくことができるのです。
そして、もう一つ、マタイの福音書28章20節
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。
私たちはこの意味をほとんど理解していないかもしれない。しかし理解していようといまいと、神さまはこのお約束を果たしてくださる。これには大きな恵みと力をいただくことができました。
ジョン・ウェスレーは、「最もよきこと、それは神が共にいますことである」と言いました。また「明日を守られるイエスさまがある」ということも確認させていただきました。どうぞこのお方に目を留めながら進ませていただきたいと思います。私たちは、暗い闇に迷い込んで心が沈むときもある。しかし、そこで一瞬止まって神さまを見上げるときに神さまは、「わたしは共にいる」と仰ってくださるならば、私たちはそこをひとりではなかなか難しいですけれども、主の助けを頂きながら歩ませていただきたい。私たちのすべてに心を配っていてくださるお方に、私たちも心を向けてこの一週間歩ませていただきたいと思います。
※若干聞き間違いがある場合があります。ご指摘ください。文責:中ぶんな
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きょうは午後5時半から旬菜・濱乃井で天気図の合評会があった。自宅から会場まで歩いたが途中の温度計は5時現在で-2度。地図を確かめながら10分まえに到着。すでに4人の方々が見えていた。
編集長立川さんの総評があり、個性的な11人の甘口辛口の批評が飛んだ。二次会はコーヒー派と飲み方とに分れ、私はコーヒーが好きなのでコーヒー派に。ドトールのカフェオレは淹れたばかりでけっこう美味しかった。帰りは時代小説の浅沼さん、ホラー小説の菊池さんと話しながら帰途に。踏みごたえのある雪道は心地よいものだ。
12人のうちプロ作家はひとり。そして間もなくプロになるのではないかと期待される方々が数人。勿論この中に私は入ってはいない。何れ随筆、童話、評論、小説、詩と、とにかく書くことが好きな生き物たちの集まりである。
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恐らくいまの方々はご存じないと思われる世界的なヴァイオリニストヤッシャ・ハイフェッツ(Jascha Heifetzas 1901年2月2日 - 1987年12月 10日)。あまりに技巧的に卓越しているが故に、その演奏はとかく冷たいとか機械的だなどと評されている。わたしもこのブログにマシーンと書いたことがある。しかし、しかし、その昔、といっても大正12(1923)年のこと、9月1日の関東大震災のとき、アメリカでこのニュースを聞きつけたハイフェッツは、被災者を支援すべく1日のうちにニューヨークを出航した。21歳の若さだった。さっそく船上でチャリティーコンサートを開き3000圓の義援金を集めた。流石に天才ヴァイオリニストである。
真っ直ぐに日本へとはならなかったようで、先ず上海に上陸、継いで北京、天津、再び上海に。またまた乗船、大連上陸、京城、陸路を南下し、こんどは日本に上陸。
11月7日神戸から特急で13時間かけて東京入り、演奏会場である帝国ホテル宴会場に立つ。どうも帝国劇場が被災したために宴会場でのコンサートとなったらしい。掲載してあるのがそのときのプログラム。開いてみたいという方は2011年3月29日の中ぶんなの日記をご覧ください。
ハイフェッツは和やかに人々に接したものの、震災の惨状にはかなり心を痛めていたようです。というのもハイフェッツ自身が革命を逃れて17年にロシアからアメリカに亡命するという辛酸を舐めていたかららしい。
このプログラムを除き、実はこのようなことが分ったのは、こちらのブログのお陰なのです。
何だそうか、はい、そうなのです。
あとはこのブログに飛んでいただけば分る
ー実は書いている最中に地震がありましてちょっと揺れました。外は大雪。震度1かと思いますが。ー
と思いますが、演奏は三日間。この宴会場の後には日比谷公園の野外ステージにも立っております。11月です。ハイフェッツは吹きっさらしの寒い寒い、弦を押さえるにも指がかじかむようなステージで演奏をやってくれたんです。いまの盛岡の冷え込みのような氷のような演奏と評されたハイフェッツ。しかし、しかし、この事実を知るときに、そのハートは温かな温かな人であった、そんなふうに思うのです。その後は関西方面で演奏し、11月27日にプレジデント・リンカーン号で帰米したようです。ハイフェッツは船上と日比谷だけでも約5800圓の寄附を集めたということです。
これからは、彼の氷のようなヴァイオリンの音を何かで何処かで聴くたびに、私は彼の温かい温かいハートを思い出すでしょう。
東日本大震災にもそんな温かい音楽家たちがたくさんおられました。
慈善は被災者ばかりではなくこうしてその貴い行為を知った者をも温めてくれます。いま外には路上の圧雪を削る除雪車の音がしています。冷え切っています。しかしこれを書いた心はすっかり温まりました。きょうの盛岡のようすがどうだったか、ついでに写真も載せてみます。
こんなふう。けれども温まりました。冷たい旋律のハイフェッツのお陰で。3・11のために心をくだかれた多くの音楽家たちのお陰で。また音楽関係以外の多くの方々のお陰で。
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