きょうのことばー『パウロに見る凱旋的生涯』
2012年1月8日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお届けいたします。
説教題 『パウロにみる凱旋的生涯』
聖書引証 ピリピ人への手紙4章13節
13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
【説教】
きょうはパウロの凱旋的生涯とは何かを扱ってみたく思います。
ピリピ人への手紙はパウロが書いたピリピの信徒への手紙です。ユダヤ人の讒言により捕えられ獄中にあったときに書かれました。彼はここで自分が伝えている福音について深く思い巡らし、それを各教会の必要に応じて手紙として書き送ったものが聖書に編纂されいまに受け継がれています。ピリピ教会はアジアからヨーロッパへの伝道で最初にできたキリスト教会です。パウロは獄中で、このピリピ教会を励ますために三つの証しを認めました。
一つ目はピリピ1章21節
21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
パウロのただ一つの目標はイエス・キリストに仕えることであるといっています。
二つめは同じく2章5節
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
パウロはここで、ただ一つの模範はイエス・キリストであり、このように生きるといっている。
三つめは同じく4章13節
13私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
パウロは人生に於ける最大の力はイエス・キリスト御自身であるといいます。
つまりパウロの凱旋的生涯の秘訣はイエス・キリスト御自身を力としていた。パウロは、ローマ8章37節で、
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
といっています。このような証しをしたパウロとは、どんな人なのなか。当時のユダヤ人から見れば最も恵まれた環境に育ち、最高の経歴を持っていました。
アブラハムはイスラエルの中にあっては、神の祝福の象徴であった。神の祝福はアブラハムとその子孫に与えられ、彼らは割礼をもって自分たちがイスラエル民族であることを目に見える形で証ししていた。パウロは生まれて8日目に割礼を受けています。イスラエル民族の中でも、パウロは王を輩出しているベニヤミンの系統に属しており生粋のヘブル人であり、特に律法に熱心なパリサイ人でした。だからこそパウロは、当時出てきたばかりのユダヤ教の一派かと思われる教祖的な「この道」即ちキリスト教といわれるものを見過ごしにはできなかった。たかがガリラヤの大工であるキリスト、その回りを世の中から見捨てられた取税人や無学な漁師や罪深い者たちが取り巻いて、やれこの男が奇蹟を起こしたとか素晴らしい教えを説いていると騒ぎ立ててエルサレム周辺を混乱に陥れているという。許すべからず。パウロは燃えるような正義感を以てキリスト教徒迫害に立ち上がったのです。パウロはユダヤの人たちにとって次の時代を担う希望の星だったのです。
パウロは使徒の働き22章3節で、
3 「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳粛な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。4 私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。
こういっています。そしてパウロは生まれながらローマの市民権を持っていた。類推でパウロの両親はおそらくローマに多額に納税していたでしょう。裕福だったのです。ユダヤ人でありながらローマの市民権を持っていることは、パウロには大きな力となりました。同族の妬みで死刑にされそうになっても、ローマの庇護を受けられる彼は、その市民権を行使してカイザルに訴えることができました。
パウロの凱旋的な生涯を探るとき、この事実を抜きにして考えることはできないし、これこそがカギであると思います。
パウロはイエス・キリストによって徹底的に砕かれた人でした。パウロはイエスとの出会いにより、それ以前のものを全面否定されてしまう。ピリピ3章8節には
8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
パウロはこれほどまでに変えられてしまいます。「この道」の迫害のためにダマスコへ向かう途上で、キリストとの出会いがありました。
1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
パウロは復活のイエスに出会ったのです。彼はイエスに出会い、心の隅々まで隈無く自分がどんなに罪深いものであるかを自覚させられました。彼はその後、アラビヤに3年間と、後年は或いはモーセが扱われたシナイ山の辺りにいたのではないかと考えられますが、何れ彼は自分のこれまでの生き方を徹底的に深く思いを致す機会が与えられました。
私はきょうみなさま方に、凱旋的な生涯を送る秘訣はここにあると申し上げたい。一人一人がほんとうの意味でキリストに出会い、自分の本質というもの、もしキリストに出会わなければ自分がどういう者であるかをとことん突き詰めて、こんな罪深い者のために、キリストは十字架に架かり救いを為してくださったことを心に留めていただきたい。これができているかいないかで、その人の信仰生涯がまったく異なったものになる。それができたとき、パウロはガラテヤ人への手紙2章20節に、こう告白しています。
20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
きょうの結論ですが、イエス・キリストの贖いの前に徹底的に砕かれることです。砕かれてこそ、「すべてこれらの中にあっても勝ちえてあまりある」生涯となる。あらゆる境遇に勝つ力、ここで特に私は、孤独に勝つ力を挙げたいのです。最後にはパウロは殉教しますが、テモテの手紙第二に彼の最後のことばが書かれています。
17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。
そうです。私たちがいまどんな境遇に置かれていようとも、私を強くしてくださる方が私の内にいてくださる。だからこれらの中にあっても勝つことができるのです。しかもこのお方は、私を愛しておられる。これをパウロが教会の人たちに宛てたことばで言うならば、コリント第二12章、
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
これがパウロの証しです。
私たちはいま、どのような環境にありますでしょうか。
「神を愛する人々,すなわち,神のご計画 に従って召された人々のためには, 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを ,私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8:28)
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるの です。」( ピリピ人への手紙 4章13節).
弱いときにこそ、強い内なるお方を認めまつり生きていきたく思うことでございます。
教会集会(初めての方も気軽にご参加ください)
毎日曜日 礼拝 午前10時半~12時
毎水曜日 祈祷会 午前10時半~12時
午後7時半~9時
※ 先週の復習は割愛しました。約40分間の説教を短く編集させていただいております。
文責:中ぶんな
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