きょうのことばー『凱旋』ー元旦講壇ー
日曜日には、福音的な教会の説教をお届けしております。掲載は、編集のお時間をいただくために、1週間遅れとなっております。2012年1月1日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)國光勝美牧師の説教です。
説教題『凱旋』―元旦講壇―
聖書引証 ローマ人への手紙8章28、37節
【説教】
新年明けましておめでとうございます。
大災害に見舞われました2011年を越えさせていただき、いま、時を支配したもうお方に2012年の御聖言(みことば)を聞かんと御前に座していることでございます。
ここのところずっと、ここに掲げました引証聖句が心に通っておりますが、特にローマ8章28節、
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。
現状がいまだ3・11の大きな影響下にあり、これはいったいどういう事なのかという思い巡らしの中に、このおことばがしばしば浮かんでまいりました。
「神を愛する人々」と「ご計画に従って召された人々」が、「すなわち」で結びつけられている。そして「すべてのことを働かせて益としてくださる」。ここに見る摂理の神を私たちは心に留めたく思うのです。「摂理」は、神学的には、「善意に満ちた神のご配慮」であります。運でも宿命でもありません。ならばあの3・11は善意に満ちた神のご配慮であるのかを自問しました。
ここでいえますことは、私たちの信仰は決して御利益宗教ではありません。ローマ8章28節を一般的な解釈をなさる方は、必ず最後には御利益的な力が働いて利益となるのだろうと思われるかもしれません。しかしそうではないとすれば、いったいどういう事なのか。解こうとすれば、「神を愛する人々」にカギがあるのではないでしょうか。この関連としてヨハネの手紙第一4章10節、
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
私たちが神を愛するときには、もう既にその前に神が私たちを愛してくださったという事実があります。
信仰に導かれた頃に覚えた讃美歌があります。
♪おお、こんなにも私は神を愛している/こんなにも神を愛している/私は神を愛している/ それは神がはじめに私を愛してくださったから♪
短いただこれだけの歌詞です。「神を愛する人々」というときに、私たちは先ず、このことばを心に留めたいものです。
神を畏れ敬う人々はたくさんいます。しかし神を愛する人たちは少ない。恐らく今夕のニュースで、盛岡八幡宮、世界遺産の平泉の中尊寺の初詣が映し出されるでしょう。これも神を畏れ敬うことの表れです。しかし神を愛する人たちは果たしてどれだけいるでしょうか。私たちは、ただ神を畏れ敬っているだけではなく、神を愛するものになった者たちです。それはイエスさまが私を愛していてくださるから。神を、つまり、信仰を重宝にしている人はたくさんいます。家内安全、商売繁盛、試験合格等々。それを揶揄するのではありません。ただ多くの人たちは信仰を手段として、神さまを重宝な手段として詣でている。しかし神さまを愛する人たちはいない。
「神を愛する人々」、それは、イエス・キリストの愛を体験的に知った人のことです。イエス・キリストが私のような者を罪から救ってくださった、そして、私の身代わりとして御自身の命さえも惜しまずに贖いを遂げてくださったことを個人的に知っている人だけが、ほんとうの意味で神さまを愛する人になるのです。そして神さまと生命的な関わりを持ちつづけます。「私は神を愛している/それは神がはじめに/私を愛してくださったから」と讃美できる。こういった神さまとの関係にある人たち、その者たちのために、神さまはすべてのことを相働かせて益としてくださる。私たちはこのことを信じています。
ここでコリント人への手紙第一10章13節を見ましょう。
13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
3・11。この大きな試みを通った者たち。しかし、神さまは真実な方ですから、決して耐えることができない試練にはあわせない、神さまは必ずこれを益としてくださる、これを私たちは知っています。ここに信仰の告白があります。
そしてローマ人への手紙8章37節
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
ここに、「これらすべてのことの中にあっても」とあります。試練の状況下の外に出してあげようとは書いてありません。困難、苦しみの中にありながらも圧倒的な勝利者となると書いてあります。これこそがまことの凱旋です。
そしてコリント人への手紙第二12章9節にはこうあります。
9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
これはパウロが言っているのですが、パウロには生涯悩まされた眼病がありました。それに加えて地中海世界の伝道旅行では、間歇的に発病する高熱や悪寒に見舞われることも度々でした。マラリヤなどの風土病と思われます。パウロはこの肉体のとげを取り除いてくださいとお祈りしたのですが、この祈りは聞かれませんでした。神さまのお返事は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」というおことばでした。パウロは試練のただ中にありながら、神さまの十分な力、恵みを知ったのです。
そしてその後に、10節が以下のようにつづきます。
10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
私はきょう説教題を「凱旋」とし玄関に掲げました。これはただ単に年のはじめだから目出度い言葉、威勢のよい言葉を選んだといったようなことではないのです。世の中的な表面的な凱旋ではなく、パウロが証ししているところの、「これらの中にあっても圧倒的な勝利者になる」という意味の凱旋、これこそまことの勝利なのではないでしょうか。
「これらすべてのこと」即ち試練、悩み、苦しみといった諸々を、私たちがしっかりと神の側から見ることができるかどうか、これは私たちに対する挑戦です。
「神がすべてのことを相働かせて益としてくださる。アーメン」
この毅然とした信仰の態度が、「これらの中にあっても」というおことばの中には含まれているのではないでしょうか。
ローマ人への手紙8章31、32節
31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
南北戦争の時のエピソードがあります。北軍の最高責任者であるリンカーンに側近が言いました。「神が我々の側について下さることは感謝なことです」。これに対しリンカーンは言ったそうです。「それは違う、我々が神の側にいることが大切なのだ」と。
どうか私たちが、神の側に立ちつづける者であらせていただきましょう。
「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」ことができますようにお祈りをおささげいたします。
※出来るだけ短めに編集するために、例話などを割愛しております。文責:中ぶんな
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