きょうのことばー『メシヤなる主の待望』―アドベント(3)―その2
※前ページのつづきとなっております。
それでは人間の死とはいったい何なのか。先ずビオス、これは塵にかえる。「あなたがたは塵によって造られたのだから塵にかえる。」と聖書にあるように、やはりこれは定められていることであって、塵によって造られた人間が避けられない死、これを通して人間は塵にかえります。
それではゾーエイという神との関係に於ける命はどういうプロセスを辿るのか。それは死後裁きにあう。死にて後裁きにあうことが人には定まっている。ですから私たちはこのキリストによる救いをよく考えなければならない。イエスさまは、このゾーエイに於いてもビオスに於いても人に命を与えるためにこの世においでくださった。そのことをしっかりと心に留めておきたいと思います。それはどうしてかというと、私たちは例外なく神の裁きにあうのですが、私たちの罪の身代わりであるイエスさまを信じたときに、私たちは例外なくイエスさまの十字架の贖いの血潮の故に無罪とされる。この保障をしっかりと持つことができているかいないかは非常に重要なことです。
私は信じて救われているが、それじゃ、イエスさまを知る機会がなかった私の両親、友人、知人はどうなるのか、当然このような疑問が出てくるでしょう。その質問には申命記第29章29節を提示します。
29 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、
「現わされたものは我らのもの、隠されたものは神のもの」
イエスさまを知らない人たちはどうなるのか、これは隠されている、即ち神に属することであります。ただ私の確信するところでは、ひとりの御子をも惜しまず与えてくださったお方、そのお方におゆだねするならば、このお方は判断を間違うことはない。このお方の判断がすべてを納得させるに違いありません。
現わされたことは、ヨハネの福音書第3章16節
16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
そのすぐ後に
17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。
「御子を信じる者は永遠の命をもつことができる」、この現わされた事実をしっかりと受け止めること。これによって私たちは裁きから死から命に移されている、これははっきりしていることなのです。そして繰り返すようですが、その他の方々は、神におゆだねすることです。これは神の領域なのです。
しかし聖書には、この神の愛を信じない者、御子の十字架を受け入れない者、光よりも闇を愛した者は、それに相応しい裁きを受けるとあり、聖書はそれを示していますので、それでよろしいのだと思います。あとは神さまにすべてをゆだねるということに尽きるだろうと思います。
旧約聖書には、イザヤ書9章にもあるように、やがて私たちに救い主が与えられると預言されております。しかし同じ聖書は、ダビデの王座について、その国はとこしえに続くと記しております。これは旧約聖書の預言者が、同じ聖書の箇所を通しながら、イエスさまのお誕生の記事と、それから王の王、主の主としておいでになるところの再臨のできごとを、同じ主のおいでくださる、一人の男の子が与えられるという中に見ているわけです。
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
これがイザヤの見たメシヤの待望の実体であります。
今の私たちはクリスマスを、そして十字架を過去のものとして見ることができます。そしてイザヤが見たやがて来る王の王、主の主というものを将来のこととして見ることであります。ヘブル人への手紙第9章28節、
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
メシヤなる主の待降ということをしっかりと心に留めたいと思います。
お話しを締め括ろうと思いますが、聖書はメシヤの来臨をはっきりと預言しております。そして第一降臨の預言はその通りに成就しました。ですから第二降臨といわれる再臨は必ずあります。どうか津波のあの日のことを思い出してください。多くの神を知らない者たちが、この地は、この宇宙は、開闢以来何も変わらないじゃないかというでしょう。しかし、水ですべては覆われた、そして、やがて火によって滅ぼされる、それまで保たれていると御聖言にあることを、私たちは聖書の預言としてしっかり捉えておかねばならないと思います。この2011年、大きな大きなことを経験した私たちは、やがて来る大いなる神の裁きというものが現実なのだということを一層心に留めるべきではないでしょうか。神の裁きがあります。このとき、神の愛を受け入れなかった者たちは、自分の責任に於いて神の裁きに立たなければなりません。しかし私たち救いを待ち望む者たちにとっては、その日、その時は、正に勝利の時、凱旋の時なのであります。どうぞイエスさまの十字架の贖いを心から感謝し、私たちは主の再臨を心から待ち望む者であらせていただきたい。クリスマスはただ2000年前に起きた主の来臨を記念するだけのものであってはなりません。それをしっかりと理解したのならば、もうすぐ来ると仰るこのイエスさまの再臨に生ける希望をもって私たちは備えて行くべきではないでしょうか。
※聞き違いがある場合があります。また誤記、誤字、脱字など、お気づきになられたときにはご指摘ください。文責:中ぶんな
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