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きょうのことばー『メシヤなる主の待望』―アドベント(3)―その1

20111211日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡0196462924)國光勝美牧師の説教をお伝えいたします。

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説教題 『メシヤなる主の待望』―アドベント(3)―その1

聖書引証 ヘブル人への手紙第92328

23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
  24
キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
  25
それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
  26
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
  27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
  28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

 きょうはメシアなる主を待望する、そのところに焦点を合わせてお話ししたく思っております。

12月に入ってすぐに、沿岸を回った関係で、重茂にある姉吉に立ち寄る機会を得ました。ここに、「高き住居は児孫に和楽想え惨禍の大津浪此処より下に家を建てるな」と書かれた記念碑がございます。明治29年、昭和8年の津波もここまで来て部落が全滅、生存者は先に2名、後に4名であったことなどが記されております。9日、T兄姉が教会に立ち寄ってくださり、しばしお交わりの時を持ちました。その時に、やはり船越の地域でも、本来ここに家を建ててはならないと知りつつも、日を追うごとに警戒心が薄れ、便利な浜の近くに集落が出来てしまい、今回の大きな被害となってしまったったということを伺いました。

イエスさまがおいで下さることは、聖書の中に預言されており、それがまさにクリスマスの出来事であって、今から2000年ほど前に成就している。そして聖書には、もう一度主が来られることが預言されている。先には救いのため贖いのために来られたが、こんどは、御自身を待ち望む者達の救いの完成のために、或いは別な聖書の箇所でいうなら、こんどは、裁きのために来られるとあります。それでは私たちは、主の再臨をどれだけしっかりと心に留めて、その日に相応しく対処しているでしょうか。こんどは主が王の王、主の主として来られることをどれだけ真剣に自分の信仰生活の中で捉えているでしょうか。そのことを考えさせられるのであります。

このヘブル人への手紙926

26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

既にこのとき、「今の世の終わり」ということばが使われているのは、非常に興味深い。そして次の2728
27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

このことばに注目し、心を向けましょう。これを正しく理解するために、人間の三つの要素を、テサロニケ第一第523節から見てみましょう。

 人間の人間たる根源的なものは、霊的な存在であります。創世記にあるように、神の息を吹き入れて人は生けるものとなったとあります。その意味で霊的な存在だということ。それから心というものがあります。そしてもう一つは体です。この三つが人間を構成しているものであって、このいちばん中心に神さまという存在が収まっているときに、ここには麗しい調和がもたらされます。これが本来人間のあるべき状態であります。この霊というのは、ピューマ。風とも息とも訳すことができます。

それから心、これはスピリッツと英訳されていますが、「その人のアイデンティティ」とも訳されている。これは環境や状況に左右されず、その人の根源的なものを計測する根源的なものと解説されている。心と表現されているときには、まさにそれが私であり、これがあるから私であって他の人とは明らかに違う。これがスピリッツ。

もう一つ、この体というのは、塵で造られている肉体であります。

この三つの中心に神が存在すればよいのですが、神の代わりに罪が入るとおかしくなる。それこそ磁場が狂ったように、人間の神に向かう方向が狂ってしまう。誤った方向に行ってしまう。自分の好み、自分の想いを通してしまう。これが堕落したアダムとエバの在り方であり、その子孫の、今日的な人間のすがたを見るとき、ほんとうにそれがわかります。この罪の故に、本来あるべき人間の要素というものが、全く崩れてしまった。これが私たちのすがたです。

この滅び行く人間を、神は何とか救おうと救いの御業を成してくださったわけであります。

さてここで先ほど、「27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」とありましたが、ここでもう一つ心に留めたいのは、命ということ。これがはっきりと理解できるときに、死の理解もできるものと思います。命、これはビオスでありますが、生物学的な命、自然の生命現象としての命をいいます。

もう一つ、命と訳されていることばに、ゾーエイということばがあります。これは神との関係に於ける命であり、永遠の命をいうときに使われます。

人間は神さまが真ん中におられるときに、まさに、ビオスにおいても、ゾーエイにおいても祝福された関係の中に生きているのであります。

        ―つづくー

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