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きょうのことばー『羊飼いたちとともに』アドベント(4)ーその2

 前ページのつづきとなっております。

私が神学生だったときに、竿代先生から伺ったクリスマスの出来事が思い出されます。羊飼いたちは毎日羊の番しながら、いちばん可愛いキズのない、これが3歳を超えてはいけないという決まりがあり、2歳まででキズのないものを神に献げなければならなかった。ここでの羊飼いと羊飼いの子どもとの会話です。子どもたちは、お手伝いをしながらこう訊いたでしょう。

「ね、お父さん、どうしてこんなに可愛い羊たちが毎日生贄として殺されなければならないの?」

「よくお聞き、私たちがこうして飼っている羊たちは、罪ある私たちが神に受け入れられるために、私たちの身代わりの生贄として殺されるのだ。でもよくお聞き、動物の血は私たちの罪を赦すことはできないけれども、神さまが必ずほんとうの生贄である子羊を備えてくださる時が来るからね。そのときまで、私たちはこれを為しつづけるんだよ、わかったかい」

 こういう会話があっただろうと思われますが、私は今でもそれが心に残っています。

 羊飼いという仕事は、安息日にも働かねばならず、ユダヤ社会で守らなければならない安息日には仕事をしてはならないという神の戒めを、職業上守ることができない。羊飼いがいるからこそ、生贄をささげることができるにも関わらず、皮肉なことに差別、疎外されていた。その羊飼いたちに御使いが現われて、ルカの福音書21112節にあるように、

「きょうダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」

というこの救いのメッセージが告げられているのです。

また別な角度から見ると、イエスさまは、「わたしはよい羊飼いだ」と仰っている。また詩篇23篇には、「主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがありません」、イザヤ書40章には、「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」とあります。

羊飼いたちが、ユダヤの社会で蔑まれていたわけですが、だからこそ一層彼らはまことの子羊の降誕を待ち望んでいたでしょう。イエスさまは敢てご自分が羊飼いだと仰った。そして降誕のメッセージは羊飼いたちに届けられたのです。私たちはこの羊飼いたちのようでありたいと思います。

お話しを締め括りますが、

ベツレヘムの野に、ある意味社会からは離れたところで、彼らは羊の番をしていました。私たちはあまりに世の中に忙しすぎる生活をしているのではないでしょうか。忙しいという字は心を亡くすると書きます。なかなか言い得ています。飼い葉おけの中に寝ておられるお方を見まつるときが無いほどに忙しくあってはならない。世の中から離れるときが必要です。まさにこの時がそうかもしれません。世の中のすべての仕事をストップして神のメッセージに耳を傾けましょう。もしここが、御使いが現われたベツレヘムの荒野であるなら何と幸いなことでしょうか。

もう一つ、あの羊飼いのお父さんと子どもの会話を思い起こして、私たちの罪の身代わりとして血を流してくださったこのお方を見まつろうではありませんか。どんなに華々しく賑やかで愉快なクリスマスがあったとしても、十字架の見えないクリスマスは、ほんとうのクリスマスではありません。

神のひとり子が飼い葉おけの中に生まれてくださった、それも私たちのために死ぬために生まれてくださった、これがキリストであり、これがクリスマスであることを、どうか羊飼いたちとともに思い巡らしたいと思うのです。イエスさまは、死ぬために生まれてくださった、それは私たちに永遠の命であるゾーエイを回復してくださるためなのです。この場所が、どうかベツレヘムのあの羊飼いたちの野でありますようにと願い祈ることです。

※詳しい生贄の頭数など省略した部分がございます。聞き違い、誤字などあろうかと思いますがお気付きの点はご指摘ください。文責:中ぶんな

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