きょうのことばー『王なる主の誕生』―アドベント(2)―
日曜日には福音的な教会のメッセージをお届けしております。12月4日は上京しておりましたが、盛岡教会のメッセージをCDに録っていただきましたので、それを起こしてお届け致します。2011年12月4日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-622-6304)國光勝美牧師の説教です。
説教題 『メシヤなる主の誕生』―アドベント(2)
聖書引証 イザヤ書9章6~7節
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
【説教】
この12月の第1聖日は第二アドベントでございますが、これを皆さま方とともに迎えておりますことは感謝でございます。
未曾有の大災害がありました2011年もあと28日で締め括ることとなりますが、インマヌエル綜合伝道団では東日本大震災に際し災害対策支援室を設置し、北海道から沖縄まで全インマヌエルの教会から被災教会関係者に対する義援金を集約し、被災地域にある教会に配分し管理を委ねました。この盛岡教会は内陸にあり、直接的な被害は少なく、貼り替えたばかりのクロスにまた前と同じ箇所にヒビが入った程度でした。これを本部に報告したところ、岩手の沿岸地域は大きく被災しており、その関係者も居られる筈で、岩手に関しては盛岡教会に委ねたいとの意向でした。そこでクリスマス前に何とか被災された教会をお訪ねしたく願っておりました。
3・11に福音的な教会で組織された岩手教会ネットワークという団体がありますが、私どもは正式には加わっておりませんが、そこからさまざまな情報をいただきながら、先週木曜日に行ってまいりました。
先ずは陸前高田市、この教会のT姉妹の出身教会が高田町洞の沢にございます。住所のみ頼りに行くと瓦礫の上に、矢印と「洞の沢」と書かれた手製の標識が立てられており、上って行きますと寺があり、それを過ぎて更に上ると津波の被害の痕跡が薄れ、このあたりが到達点であろうと思われるところに教会があり、先生方にお会いして支援金をお渡ししてきました。
その後大船渡市を経由し、IBCの特集番組で見た重茂半島の姉吉地区に立ち寄ってまいりました。最大波の高さ38.9メートルが調査確認されたところです。
それから一路宮古市に。ここには単立の教会で宮古コミュニティチャーチがあります。この教会が支援の拠点となり先生が大変熱心に被災者の方々を応援しておられますのでお会いすることにしました。ただこちらも車で移動中なので、連絡せずにお訪ねしましたところ、先生がちょうど山田からお帰りになりました。先生は長野県の千曲市から毎月いらしているボランティアの方がお帰りになるのでそちらに行く前に15分間の休憩を取りに戻られたのでした。この先生に支援金をお渡しして参りました。冬に入ろうとするいま、被災者の方々には長靴が不足していると聞きました。そのために用いられるかと思います。この日、そのようなことで、被災地に皆さま方のお心を届けることができました。皆さま方お一人お一人、個人的にも想いの深い1年間であったかと思うことでございます。
さて、短い時間ではありますがイエスさまのお誕生に心を向けてゆきたく思います。
「イエスさまの誕生」、これは即ち、「メシアの誕生」であります。年末になりますと至る処で、『第九』とともによく『メサイア』を聴きますが、「メシア」はヘブル語です。これをギリシャ語で言いますと「キリスト」。どちらも全く同じく、「油そそがれた者」または「油満たされた者」という意味です。ここでいう油とは、オリーブ油のことです。
「油そそがれる」という立場には三つございます。
一つは、王。王の就任のときに油そそぎの儀式があります。一つは、祭司、或いは祭司長。祭司には、神と人との間を取り持つ中保者としての職責があります。モーセの兄アロンの子孫は代々この油そそぎによって祭司に認証されておりました。一つは、預言者。神の御意(みこころ)である神の真理の御聖言(みことば)を預かって、それを人々に伝える立場の者を預言者といいます。この三つの職責に就く者は油そそぎを受けなければなりませんでした。たとえば、イエスさまが公生涯に立たれ会堂でお話しをするときに、それを不快極まりないと思う学者たちは、真っ先に、イエスさまが油そそぎを受けていないことをあげつらいました。誰でも勝手に預言者になれるものではなく油そそぎを受けたものでなければなれなかった、そういう文化背景がこの時代にはあったのです。
三つの職責はそれぞれに独立しておりました。決して互いに侵犯してはならない。それほど各々に厳しい意味がありました。
イザヤの時代に、ウジヤ王という物事をよく弁えた王さまがいました。このウジヤ王が、決して不遜さはなかったと思われますが、祭司しか入ってはならない神殿に祭司のようなつもりで足を踏み入れてしまった。ウジヤ王は神さまから厳しく叱責されます。その日からウジヤ王は重い皮膚病に罹ってしまった。それほど、王、祭司、預言者は格別に神からの資格を与えられている者であり、それぞれに貴い神の仕事をする者であって、それを兼ねる事は決してできない、またしてはいけない、これがメシヤだったのであります。
イエスさまがメシヤとして誕生してくださったということは、実はこのイエスさまこそが、この三つの油そそぎ、王として、祭司として、預言者として三つの職責をお一人で全うすることのできるまことのメシヤとしてこの地上に誕生されたお方なのです。まことのメシヤが我らに与えられたことを覚えたいものです。
預言者ナタンが、ダビデに対して祝福の預言をしているところがあります。サムエル第二 7章11~13節
11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。『主はあなたのために一つの家を造る。』
12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
ここでは、まことのメシヤなる王はダビデの子孫から誕生することが預言されております。
またきょうの引証聖句イザヤ書9章6~7節は、これも有名なイエスさま誕生の預言です。人々は、まことのメシヤがダビデの子孫から誕生することを知っておりました。ですからユダヤの文化的背景を持った人々のために書かれたマタイによる福音書には、もうその第1章の1節からが、イエスキリストの系図である人の名前が列記されております。「 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」。 この一行は、ダビデの子イエスさまが、メシヤが誕生したということをいっているのです。
メシヤの預言として旧約聖書に燦然と輝くのがイザヤ書53章4~7節です。ここは格別に大祭司なるメシヤについての預言です。
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
人間であるアロンの子孫から出た祭司は、祭司自身も罪人ですから自分の贖いの分の動物、そして自分たちに委ねられている人々の罪のための動物を携えて血を流し、人々の罪の赦しを請う祭司としての執り成しの務めを果たしました。しかしまことのメシヤなるお方は動物の血ではなく、神の子羊としてのご自分の貴い血潮を携えて、私たちの咎を負ってくださったのです。このお方こそ旧約聖書が預言しているまことの大祭司として誕生くださった。
ルカの福音書には、シメオとアンナという老預言者が登場します。イエスさまが、エルサレムの神殿にお宮参りのためにヨセフとマリヤに抱かれてやってきました。シメオンがマリヤに対して、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」と言いました。この預言者たちは、この幼子が十字架の贖いのために生まれた神の子羊であることをわかっていたのです。シメオンは「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです。」と、幼子を抱いた若い夫婦に言葉をかけたのを私たちは知っております。
このお方が、まことの油そそがれた預言者であるとは、どういうことでしょうか。ヨハネの福音書14章6節、
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
これは預言者と教師の違いといったらいいでしょうか。教師は真理を指し示しそれについて教えることができるでしょう。けれども「わたしが真理である」とは決して言えません。しかしこのまことの預言者であるお方は、神の国とは、人とは、神とは何であるのか。「わたしを見た者は父をみたのである」、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」これらをはっきりと私たちに示してくださったのです。
疑い深いトマスが、あなたがどこに行くのか分らないと言ったときに、
「これほど長くあなたと生活しているのにわからないのか、トマス、わたしが道なのだよ、わたしが真理なのだよ、わたしが命なのだ。わたしを通してでなければ、父の御許に至ることはできない。ここに真理があるのだ」と仰った。
まことの神の真理を私たちに伝えるお方、これがメシヤであります。
クリスマスのとき私たちは、王、祭司、預言者として、まことのメシヤなるお方が、この世においでくださったということを確認したいと思うのであります。
天から人類に降ってきてくださった、これが受肉です。これを私たちは、クリスマスとしてお祝しています。そして私たちに神の国について教え、そして、大祭司としての、メシヤとしての務めを全うされて十字架にお架かりになってくださった。そして天に帰っていかれた。クリスマスのできごとは、この一連の中で理解しなけえばならないものであります。これこそまことのクリスマスの奥義であるということを、私たちはしっかりと心の中に留めなければならないと存じます。
※40分の説教をできるだけ短く編集しております。文責:中ぶんな
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