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2011年12月

2011年、大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。

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1890年《森からの帰途》サン・モリッツ、
           セガンティーニ美術館

 この絵葉書は、アルプスの画家セガンティーニー光と山ー展で手に入れたものです。橇に積まれた木の根に面白さを見ました。また力強い生活姿勢にも惹かれるものがあります。逞しくありたいものです。
 2011年もきょうで締め括られます。このブログの現時点でのアクセス数は、111090となりました。この数字の内容も一通りではなく、訂正勧告、或いはもしかすれば異議申し立て、また冷やかしでクリックしてくださった方もいらっしゃるかと思います。余所をクリックしようとしたところがちょっと間違って開いてしまったというものも入っている可能性も。しかし何とか励ましてあげよう、頑張ってほしいと開いてくださった方々がいらっしゃいました。終盤は若干停滞しましたが、こうして2011年をいま静かに締め括ることができます。心から感謝申し上げます。

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明日のことは明日みづから思い煩わん

 年末ということで、この年を顧みると、多くのやり残したこと、書きあぐねたことがある。やはり大きなことは東日本大震災でさまざまなことが吹っ飛んでしまい、また内陸にあっても衝撃に引きずられてしまい、やるべき事を怠ったことも否めない。そして家族の他界、また友人、知人の他界、その他、その他……。多くのものが圧縮されてどんと提示され、それらを認識、受容できかねているあいだに早年末となった。
 シンフォニエッタ・盛岡のロビー・コンサートや、県下の、少なくとも盛岡市でやっているコンサートには行きたく思っても、なかなか行きかねた。友人の息子さんが彫刻で岩手県芸術祭賞になったこと、天沼さんの作品のこと。自治会関係でお世話になった方々のこと。クリンゲンバウムのマスターが亡くなられていたこと。まだまだまだまだたくさんあるけれども、また人様に失礼してしまったこと、不義理であったことも多くある。
 さてこれをどう総括するかとなると、大層なことは浮かばないのだが、

「明日のことは明日みづから  思い煩わん。一日の苦労は一日にして足れり」

 

このことばに心を平らかにし安息に入りたく思う。

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暮れゆく街

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 暮れゆく街。これは先だって上京したときの写真。

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 そしてこれが盛岡市中ノ橋からの夕暮れの写真。

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今年もあと4日

 クリスマスの礼拝も終わり、今年も残すところ4日となった。何をしようかと考えるよりも、天の導きがどの辺にあるのかを探ることのほうがよさそうに思う。


 

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きょうのことばー『羊飼いたちとともに』アドベント(4)ーその2

 前ページのつづきとなっております。

私が神学生だったときに、竿代先生から伺ったクリスマスの出来事が思い出されます。羊飼いたちは毎日羊の番しながら、いちばん可愛いキズのない、これが3歳を超えてはいけないという決まりがあり、2歳まででキズのないものを神に献げなければならなかった。ここでの羊飼いと羊飼いの子どもとの会話です。子どもたちは、お手伝いをしながらこう訊いたでしょう。

「ね、お父さん、どうしてこんなに可愛い羊たちが毎日生贄として殺されなければならないの?」

「よくお聞き、私たちがこうして飼っている羊たちは、罪ある私たちが神に受け入れられるために、私たちの身代わりの生贄として殺されるのだ。でもよくお聞き、動物の血は私たちの罪を赦すことはできないけれども、神さまが必ずほんとうの生贄である子羊を備えてくださる時が来るからね。そのときまで、私たちはこれを為しつづけるんだよ、わかったかい」

 こういう会話があっただろうと思われますが、私は今でもそれが心に残っています。

 羊飼いという仕事は、安息日にも働かねばならず、ユダヤ社会で守らなければならない安息日には仕事をしてはならないという神の戒めを、職業上守ることができない。羊飼いがいるからこそ、生贄をささげることができるにも関わらず、皮肉なことに差別、疎外されていた。その羊飼いたちに御使いが現われて、ルカの福音書21112節にあるように、

「きょうダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」

というこの救いのメッセージが告げられているのです。

また別な角度から見ると、イエスさまは、「わたしはよい羊飼いだ」と仰っている。また詩篇23篇には、「主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがありません」、イザヤ書40章には、「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」とあります。

羊飼いたちが、ユダヤの社会で蔑まれていたわけですが、だからこそ一層彼らはまことの子羊の降誕を待ち望んでいたでしょう。イエスさまは敢てご自分が羊飼いだと仰った。そして降誕のメッセージは羊飼いたちに届けられたのです。私たちはこの羊飼いたちのようでありたいと思います。

お話しを締め括りますが、

ベツレヘムの野に、ある意味社会からは離れたところで、彼らは羊の番をしていました。私たちはあまりに世の中に忙しすぎる生活をしているのではないでしょうか。忙しいという字は心を亡くすると書きます。なかなか言い得ています。飼い葉おけの中に寝ておられるお方を見まつるときが無いほどに忙しくあってはならない。世の中から離れるときが必要です。まさにこの時がそうかもしれません。世の中のすべての仕事をストップして神のメッセージに耳を傾けましょう。もしここが、御使いが現われたベツレヘムの荒野であるなら何と幸いなことでしょうか。

もう一つ、あの羊飼いのお父さんと子どもの会話を思い起こして、私たちの罪の身代わりとして血を流してくださったこのお方を見まつろうではありませんか。どんなに華々しく賑やかで愉快なクリスマスがあったとしても、十字架の見えないクリスマスは、ほんとうのクリスマスではありません。

神のひとり子が飼い葉おけの中に生まれてくださった、それも私たちのために死ぬために生まれてくださった、これがキリストであり、これがクリスマスであることを、どうか羊飼いたちとともに思い巡らしたいと思うのです。イエスさまは、死ぬために生まれてくださった、それは私たちに永遠の命であるゾーエイを回復してくださるためなのです。この場所が、どうかベツレヘムのあの羊飼いたちの野でありますようにと願い祈ることです。

※詳しい生贄の頭数など省略した部分がございます。聞き違い、誤字などあろうかと思いますがお気付きの点はご指摘ください。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『羊飼いたちとともに』アドベント(4)ーその1

20111218()のインマヌエル盛岡キリスト教会(0196462924)國光勝美牧師の説教をお届けいたします。

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説教題 『羊飼いたちとともに』

聖書引証 ルカの福音書2120(以下の太字は聖書からの引用です)

1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2
これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
3
それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
4
ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので
5
身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
6
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
7
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
8
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。
14
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15
御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
16
そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
17
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
18
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
19
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
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羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

【説教】

きょう私たちはベツレヘムにお生まれになった、羊飼いにきょうあなた方に救い主がお生まれになったとお告げがあったあのできごとに心を向けてみたいと思います。

 資料からだいたいのロケーションを知っていただこうと思います。

1、イエスはヨセフとマリヤを親としてベツレヘムに生まれた。

2、東方、これはバビロニアかペルシャだと思われるがアラビアの可能性もある。占星術師が王なる幼子を見ようとしてやってきた。ヘロデ王は彼らの知らせに心をかき乱された。

3、ヘロデ王は博士たちをベツレヘムに見送った。博士たちはイエスを見て贈り物をささげた。そして夢でヘロデ王のところに帰ってはならないというお告げを受けた。

4、彼らは、別な道を通って帰っていった。ヘロデ王は自分の王座を脅かす新しい王となる者が誕生したことに恐れを感じ、2歳以下の子どもを皆殺しにするという企てをする。

5、それを知ったヨセフとマリヤは、幼子イエスを連れてエジプトに逃れる。エジプトには凡そ3年ほどいたと推測されるが、その間、博士たちの贈り物によって生活が助けられた。やがてヘロデが死んだという知らせを受け、家族はエジプトからナザレに移り住む。

ガリラヤ地方のナザレ。グーグルのルート検索でナザレ、ベツレヘム間を調べますと、現在の整備された道で凡そ170㎞。身重のマリヤが170㎞の道を歩いたのです。大変な旅をしながらヨセフたちはエジプトに逃れナザレに帰っていった。いったん海抜下250メートルのエリコに出てからベツレヘムにのぼるとすれば、すごい山道を登ります。死海は地中海の海面よりも400メートル低いのです。エルサレムは海抜約800メートルの山の上の街ですから、その旅というのはそれ一つ取っただけでも容易ではありません。そのような旅をしながらヨセフたちは、ベツレヘムにやってきて、そしていきさつがありエジプトに逃れ、そしてまたナザレの方に帰ったというようなクリスマスのできごとというように見ることができます。

これも資料から、羊飼いたちのいたところというのは、ベツレヘムから東の村に、ベイドサフール村を通り過ぎるあたりが、羊飼いの野、及びボアズの野であるといわれる。このようなところで、羊飼いたちが羊の番をしながら生活していました。さて、この羊飼いたちは何のために羊を飼っていたのか。マーケットに提供するためなのかは定かではない。ただいえることは、エルサレムの神殿で神さまに生贄をささげるための羊を飼っていた。

もし聖書に記されてある律法の通りにささげるとするならば、牡牛、牡羊、子羊、山羊が毎日ささげられるのだが、規定通りの数でいうと、毎日子羊2頭。安息日(ユダヤ教では土曜日)にはこれに2頭追加される。また新月の祭には牡牛2頭、牡羊1頭、子羊7頭、山羊1頭。その他に種を入れないパンのお祭のときには、毎日これだけの数の、つまり新月と同じものを、過ぎ越しの祭のときには7日間の合計で牡牛14頭、牡羊7頭、子羊49頭、山羊7頭となる。羊の世話をするというのは、こういうことに用いられる羊を世話することであった、こういった文化圏に生きていない者にはどれほどに大変なことであるかと思われたことです。

そして、収穫祭、第7の月、年1度の贖いの日、仮庵の祭のときは弟一日目から8日目まであるわけで、このときにもそれぞれに規定通りの頭数が屠られます。こういう宗教文化だったわけです。イエスさまは、こういう世界においで下さったのです。

生贄はヘブル語でゼパール、ストレートにいって屠殺。まさしく生贄は屠殺です。神へのささげものとして家畜を殺す。なぜそれほどまでに動物の血が流されなければならないのか。一つは、神の怒りを宥めるため。宥めの供え物ともいう。人間の中心部分に神さまがいらっしゃれば問題はないのだが、神に代わって罪が入り込み、神に背く生き方をする者に対しては、きよい神さまの怒りがあることを私たちは忘れてはならないのです。

ジョナサン・エドワーズの説教を聴いていた会衆は、机にしがみつき、滅ぼされてしまうとおののいたといいます。逸話かも知れません。しかし言えることは、もし現代の教会に力が失われているとすれば、神の愛は説くけれども、神の愛をほんとうに知らせるためには、神の罪に対する怒り、神の裁きについて、オブラートに包むようにではなく、もっとストレートに言わなければならないのです。

ユダヤの人たちはこれほどまでに動物の血を流して、私たちは罪を犯しました、どうぞこの動物の血を身代わりとしておささげしますから怒りを鎮めてくださいと神に願う。血を流す事がなければ罪の赦しはない、これが聖書の教えです。なぜ生贄が必要なのか、それを献げることによって神の前に立つ資格が与えられるからです。これに免じてどうかあなたの前に立たせてください、受け入れてください。

私はこの日曜の朝、皆さんと一緒にこの生贄の子羊、神の怒りをその身に負ってくださったお方を心の中にしっかりと受け入れなければならないと思います。

「見よ、世の罪を除く神の子羊」

                 ―つづくー

 

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インマヌエル盛岡キリスト教会のクリスマス礼拝 ー2011年12月25日10時半~12時・祝会午後1時~2時半ー 

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    ☆   ☆   ☆   ☆

 今夕は我家のクリスマス会でした。長男は帰省しておりませんので、主人と二男と私とでささやかなテーブルを囲みました。教会でのクリスマスは大切ですが、家族でイエスさまのお誕生を祝うことは、また神さまのおよろこびになることではないかと思います。このときには、食べ物やプレゼントが何であるかは二の次、三の次であるように思います。と書くくらいですから、これもまたささやかなものなのですが。
 何れにしろ神様が恵んでくださった感謝なひとときでした。
 明日は全世界が祝う教会のクリスマス礼拝です。

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クリスマスキャンドルサービス

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 3・11に停電になったときに、蝋燭を点したけれども、きょうは光なるイエスさまがいらっしゃったことを思いながら蝋燭に点火。前の方から順番に後ろの方へと火が点されていきました。ゆらめく炎がそれぞれの顔をしずか照らしています。クリスマスのお話し
、トーンチャイムやギター演奏、メサイヤの鑑賞があり、讃美歌もうたいました。
 今の世の中の人々が楽しみとしていることに比べたなら、まことにささやかなものです。しかし、小さな小さなことに歓びや楽しさを感じることができる、見出すことができる、これが祝福なのだとつくづく思います。詭弁のようですがほんとうです。聖霊が関与してくださるとき、
暗きものが明るく変えられ、さもないことが楽しいのです。 兄弟姉妹方4人のギター演奏「きよしこの夜」には、心動かされました。
 帰りは路が真っ白。バイパス4車線はうっすらと圧雪。いつもより車間を取った縦列が延々と。2列の紅い尾灯の先には赤い信号機が目を見開いている。対向車2列のヘッドライト。防音壁に赤青の信号と車の灯りが連なって映っている。ホワイトクリスマスに感謝。

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クリスマスキャンドルサービス23日(金)18時~ インマヌエル盛岡キリスト教会

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わが恵汝に足れり

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きょうのことばー『メシヤなる主の待望』―アドベント(3)―その2

※前ページのつづきとなっております。

それでは人間の死とはいったい何なのか。先ずビオス、これは塵にかえる。「あなたがたは塵によって造られたのだから塵にかえる。」と聖書にあるように、やはりこれは定められていることであって、塵によって造られた人間が避けられない死、これを通して人間は塵にかえります。

それではゾーエイという神との関係に於ける命はどういうプロセスを辿るのか。それは死後裁きにあう。死にて後裁きにあうことが人には定まっている。ですから私たちはこのキリストによる救いをよく考えなければならない。イエスさまは、このゾーエイに於いてもビオスに於いても人に命を与えるためにこの世においでくださった。そのことをしっかりと心に留めておきたいと思います。それはどうしてかというと、私たちは例外なく神の裁きにあうのですが、私たちの罪の身代わりであるイエスさまを信じたときに、私たちは例外なくイエスさまの十字架の贖いの血潮の故に無罪とされる。この保障をしっかりと持つことができているかいないかは非常に重要なことです。

私は信じて救われているが、それじゃ、イエスさまを知る機会がなかった私の両親、友人、知人はどうなるのか、当然このような疑問が出てくるでしょう。その質問には申命記第2929節を提示します。
29
隠されていることは、私たちの神、のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、

「現わされたものは我らのもの、隠されたものは神のもの」

イエスさまを知らない人たちはどうなるのか、これは隠されている、即ち神に属することであります。ただ私の確信するところでは、ひとりの御子をも惜しまず与えてくださったお方、そのお方におゆだねするならば、このお方は判断を間違うことはない。このお方の判断がすべてを納得させるに違いありません。

現わされたことは、ヨハネの福音書第316

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

そのすぐ後に

17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
19
そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

「御子を信じる者は永遠の命をもつことができる」、この現わされた事実をしっかりと受け止めること。これによって私たちは裁きから死から命に移されている、これははっきりしていることなのです。そして繰り返すようですが、その他の方々は、神におゆだねすることです。これは神の領域なのです。

しかし聖書には、この神の愛を信じない者、御子の十字架を受け入れない者、光よりも闇を愛した者は、それに相応しい裁きを受けるとあり、聖書はそれを示していますので、それでよろしいのだと思います。あとは神さまにすべてをゆだねるということに尽きるだろうと思います。

旧約聖書には、イザヤ書9章にもあるように、やがて私たちに救い主が与えられると預言されております。しかし同じ聖書は、ダビデの王座について、その国はとこしえに続くと記しております。これは旧約聖書の預言者が、同じ聖書の箇所を通しながら、イエスさまのお誕生の記事と、それから王の王、主の主としておいでになるところの再臨のできごとを、同じ主のおいでくださる、一人の男の子が与えられるという中に見ているわけです。
6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

これがイザヤの見たメシヤの待望の実体であります。

今の私たちはクリスマスを、そして十字架を過去のものとして見ることができます。そしてイザヤが見たやがて来る王の王、主の主というものを将来のこととして見ることであります。ヘブル人への手紙第928節、

28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

メシヤなる主の待降ということをしっかりと心に留めたいと思います。

お話しを締め括ろうと思いますが、聖書はメシヤの来臨をはっきりと預言しております。そして第一降臨の預言はその通りに成就しました。ですから第二降臨といわれる再臨は必ずあります。どうか津波のあの日のことを思い出してください。多くの神を知らない者たちが、この地は、この宇宙は、開闢以来何も変わらないじゃないかというでしょう。しかし、水ですべては覆われた、そして、やがて火によって滅ぼされる、それまで保たれていると御聖言にあることを、私たちは聖書の預言としてしっかり捉えておかねばならないと思います。この2011年、大きな大きなことを経験した私たちは、やがて来る大いなる神の裁きというものが現実なのだということを一層心に留めるべきではないでしょうか。神の裁きがあります。このとき、神の愛を受け入れなかった者たちは、自分の責任に於いて神の裁きに立たなければなりません。しかし私たち救いを待ち望む者たちにとっては、その日、その時は、正に勝利の時、凱旋の時なのであります。どうぞイエスさまの十字架の贖いを心から感謝し、私たちは主の再臨を心から待ち望む者であらせていただきたい。クリスマスはただ2000年前に起きた主の来臨を記念するだけのものであってはなりません。それをしっかりと理解したのならば、もうすぐ来ると仰るこのイエスさまの再臨に生ける希望をもって私たちは備えて行くべきではないでしょうか。 

※聞き違いがある場合があります。また誤記、誤字、脱字など、お気づきになられたときにはご指摘ください。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『メシヤなる主の待望』―アドベント(3)―その1

20111211日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡0196462924)國光勝美牧師の説教をお伝えいたします。

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説教題 『メシヤなる主の待望』―アドベント(3)―その1

聖書引証 ヘブル人への手紙第92328

23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
  24
キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
  25
それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
  26
もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
  27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
  28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

 きょうはメシアなる主を待望する、そのところに焦点を合わせてお話ししたく思っております。

12月に入ってすぐに、沿岸を回った関係で、重茂にある姉吉に立ち寄る機会を得ました。ここに、「高き住居は児孫に和楽想え惨禍の大津浪此処より下に家を建てるな」と書かれた記念碑がございます。明治29年、昭和8年の津波もここまで来て部落が全滅、生存者は先に2名、後に4名であったことなどが記されております。9日、T兄姉が教会に立ち寄ってくださり、しばしお交わりの時を持ちました。その時に、やはり船越の地域でも、本来ここに家を建ててはならないと知りつつも、日を追うごとに警戒心が薄れ、便利な浜の近くに集落が出来てしまい、今回の大きな被害となってしまったったということを伺いました。

イエスさまがおいで下さることは、聖書の中に預言されており、それがまさにクリスマスの出来事であって、今から2000年ほど前に成就している。そして聖書には、もう一度主が来られることが預言されている。先には救いのため贖いのために来られたが、こんどは、御自身を待ち望む者達の救いの完成のために、或いは別な聖書の箇所でいうなら、こんどは、裁きのために来られるとあります。それでは私たちは、主の再臨をどれだけしっかりと心に留めて、その日に相応しく対処しているでしょうか。こんどは主が王の王、主の主として来られることをどれだけ真剣に自分の信仰生活の中で捉えているでしょうか。そのことを考えさせられるのであります。

このヘブル人への手紙926

26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

既にこのとき、「今の世の終わり」ということばが使われているのは、非常に興味深い。そして次の2728
27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

このことばに注目し、心を向けましょう。これを正しく理解するために、人間の三つの要素を、テサロニケ第一第523節から見てみましょう。

 人間の人間たる根源的なものは、霊的な存在であります。創世記にあるように、神の息を吹き入れて人は生けるものとなったとあります。その意味で霊的な存在だということ。それから心というものがあります。そしてもう一つは体です。この三つが人間を構成しているものであって、このいちばん中心に神さまという存在が収まっているときに、ここには麗しい調和がもたらされます。これが本来人間のあるべき状態であります。この霊というのは、ピューマ。風とも息とも訳すことができます。

それから心、これはスピリッツと英訳されていますが、「その人のアイデンティティ」とも訳されている。これは環境や状況に左右されず、その人の根源的なものを計測する根源的なものと解説されている。心と表現されているときには、まさにそれが私であり、これがあるから私であって他の人とは明らかに違う。これがスピリッツ。

もう一つ、この体というのは、塵で造られている肉体であります。

この三つの中心に神が存在すればよいのですが、神の代わりに罪が入るとおかしくなる。それこそ磁場が狂ったように、人間の神に向かう方向が狂ってしまう。誤った方向に行ってしまう。自分の好み、自分の想いを通してしまう。これが堕落したアダムとエバの在り方であり、その子孫の、今日的な人間のすがたを見るとき、ほんとうにそれがわかります。この罪の故に、本来あるべき人間の要素というものが、全く崩れてしまった。これが私たちのすがたです。

この滅び行く人間を、神は何とか救おうと救いの御業を成してくださったわけであります。

さてここで先ほど、「27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」とありましたが、ここでもう一つ心に留めたいのは、命ということ。これがはっきりと理解できるときに、死の理解もできるものと思います。命、これはビオスでありますが、生物学的な命、自然の生命現象としての命をいいます。

もう一つ、命と訳されていることばに、ゾーエイということばがあります。これは神との関係に於ける命であり、永遠の命をいうときに使われます。

人間は神さまが真ん中におられるときに、まさに、ビオスにおいても、ゾーエイにおいても祝福された関係の中に生きているのであります。

        ―つづくー

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きょうのことば

 日曜日には教会のメッセージを一週間遅れでお伝えしておりますが、健康的な事情で明日書かせていただきます。
 きょうは午前中は教会に行きまして、元気を貰ってまいりました。
メッセージの中で、
「忙しいという字は心を亡くすると書きますが、十字架を見上げる暇がないほど忙しくしていると、命を亡くしてしまう」
と語られました。耳が痛いことでした。
 今月は自分の健康の温存を優先しましたが、さまざま抱え込んでしまったことも確かです。
 以前はとにかくブログを毎日更新することを心がけておりましたが、これも、果たしてただただ毎日埋める自体に意味があるのか、見直さなければなりません。
 毎日曜に読んで頂いている方々にはお詫びを申し上げます。

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遠近

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人の目は遠近を捉える。
人の目は美しく見えるようにもできている。
人の目には見えない部分もある。
人の目には過剰に見える部分もある。

しかしどこにいて、
どこから
どのように見ても
ものそれ自体を
寸分違わずに正確に見せられ
見なければならないとしたら
恐らく一日として耐えられないだろう。

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この空間にも

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 この空間にも満ちている「在りて在るもの」。いま雑然としているこの部屋にも、この写真の空間にも、いまこの時に、「在りて在るもの」。

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我は葡萄の樹汝らは枝なり

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 今朝起きがけに、自分の存在感の希薄さ、というよりも自分の力を自分で実感することの希薄さを感じていた。そのときに、「我は葡萄の樹汝らは枝なり」ということばが浮かび、ああそうか、私は枝で葡萄の樹であるイエスさまに繋がっているなら、私は生きているのだ、そう思った。そしてそれが自分の存在が確かにあることを得心させ、平安を得ていた。

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いつの間にやら25時

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 時間の感覚も当てにはならないもの。そろsろ23時ごろかな、作業もそろそろ打ち切りにとPCの時間をみると、ただいま0時18分。このところまた夜更かしをしている。とにかくとにかく睡眠の時間だ。校正をしだしたら、これがまずいところばかりが目についてしまう。もう見ないことにして明日に。明日また日は昇る。

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クリスマスは教会で過ごそう!!

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☆クリスマス礼拝☆
 
12月25日(日) 10:30~12:00
    祝会  
 13:00~14:30
☆キャンドルサービス☆
 
12月23(金・祝日)18:00~19:00

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きょうのことばー『王なる主の誕生』―アドベント(2)―

日曜日には福音的な教会のメッセージをお届けしております。124日は上京しておりましたが、盛岡教会のメッセージをCDに録っていただきましたので、それを起こしてお届け致します。2011124()インマヌエル盛岡キリスト教会(0196226304)國光勝美牧師の説教です。

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説教題 『メシヤなる主の誕生』―アドベント(2)

聖書引証 イザヤ書967

6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

【説教】

この12月の第1聖日は第二アドベントでございますが、これを皆さま方とともに迎えておりますことは感謝でございます。

未曾有の大災害がありました2011年もあと28日で締め括ることとなりますが、インマヌエル綜合伝道団では東日本大震災に際し災害対策支援室を設置し、北海道から沖縄まで全インマヌエルの教会から被災教会関係者に対する義援金を集約し、被災地域にある教会に配分し管理を委ねました。この盛岡教会は内陸にあり、直接的な被害は少なく、貼り替えたばかりのクロスにまた前と同じ箇所にヒビが入った程度でした。これを本部に報告したところ、岩手の沿岸地域は大きく被災しており、その関係者も居られる筈で、岩手に関しては盛岡教会に委ねたいとの意向でした。そこでクリスマス前に何とか被災された教会をお訪ねしたく願っておりました。

311に福音的な教会で組織された岩手教会ネットワークという団体がありますが、私どもは正式には加わっておりませんが、そこからさまざまな情報をいただきながら、先週木曜日に行ってまいりました。

先ずは陸前高田市、この教会のT姉妹の出身教会が高田町洞の沢にございます。住所のみ頼りに行くと瓦礫の上に、矢印と「洞の沢」と書かれた手製の標識が立てられており、上って行きますと寺があり、それを過ぎて更に上ると津波の被害の痕跡が薄れ、このあたりが到達点であろうと思われるところに教会があり、先生方にお会いして支援金をお渡ししてきました。

その後大船渡市を経由し、IBCの特集番組で見た重茂半島の姉吉地区に立ち寄ってまいりました。最大波の高さ38.9メートルが調査確認されたところです。

それから一路宮古市に。ここには単立の教会で宮古コミュニティチャーチがあります。この教会が支援の拠点となり先生が大変熱心に被災者の方々を応援しておられますのでお会いすることにしました。ただこちらも車で移動中なので、連絡せずにお訪ねしましたところ、先生がちょうど山田からお帰りになりました。先生は長野県の千曲市から毎月いらしているボランティアの方がお帰りになるのでそちらに行く前に15分間の休憩を取りに戻られたのでした。この先生に支援金をお渡しして参りました。冬に入ろうとするいま、被災者の方々には長靴が不足していると聞きました。そのために用いられるかと思います。この日、そのようなことで、被災地に皆さま方のお心を届けることができました。皆さま方お一人お一人、個人的にも想いの深い1年間であったかと思うことでございます。

さて、短い時間ではありますがイエスさまのお誕生に心を向けてゆきたく思います。

「イエスさまの誕生」、これは即ち、「メシアの誕生」であります。年末になりますと至る処で、『第九』とともによく『メサイア』を聴きますが、「メシア」はヘブル語です。これをギリシャ語で言いますと「キリスト」。どちらも全く同じく、「油そそがれた者」または「油満たされた者」という意味です。ここでいう油とは、オリーブ油のことです。

「油そそがれる」という立場には三つございます。

一つは、王。王の就任のときに油そそぎの儀式があります。一つは、祭司、或いは祭司長。祭司には、神と人との間を取り持つ中保者としての職責があります。モーセの兄アロンの子孫は代々この油そそぎによって祭司に認証されておりました。一つは、預言者。神の御意(みこころ)である神の真理の御聖言(みことば)を預かって、それを人々に伝える立場の者を預言者といいます。この三つの職責に就く者は油そそぎを受けなければなりませんでした。たとえば、イエスさまが公生涯に立たれ会堂でお話しをするときに、それを不快極まりないと思う学者たちは、真っ先に、イエスさまが油そそぎを受けていないことをあげつらいました。誰でも勝手に預言者になれるものではなく油そそぎを受けたものでなければなれなかった、そういう文化背景がこの時代にはあったのです。

 三つの職責はそれぞれに独立しておりました。決して互いに侵犯してはならない。それほど各々に厳しい意味がありました。

 イザヤの時代に、ウジヤ王という物事をよく弁えた王さまがいました。このウジヤ王が、決して不遜さはなかったと思われますが、祭司しか入ってはならない神殿に祭司のようなつもりで足を踏み入れてしまった。ウジヤ王は神さまから厳しく叱責されます。その日からウジヤ王は重い皮膚病に罹ってしまった。それほど、王、祭司、預言者は格別に神からの資格を与えられている者であり、それぞれに貴い神の仕事をする者であって、それを兼ねる事は決してできない、またしてはいけない、これがメシヤだったのであります。

 イエスさまがメシヤとして誕生してくださったということは、実はこのイエスさまこそが、この三つの油そそぎ、王として、祭司として、預言者として三つの職責をお一人で全うすることのできるまことのメシヤとしてこの地上に誕生されたお方なのです。まことのメシヤが我らに与えられたことを覚えたいものです。

 預言者ナタンが、ダビデに対して祝福の預言をしているところがあります。サムエル第二 71113

11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。『主はあなたのために一つの家を造る。』
12
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。
13
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

 ここでは、まことのメシヤなる王はダビデの子孫から誕生することが預言されております。

 またきょうの引証聖句イザヤ書9章6~7節は、これも有名なイエスさま誕生の預言です。人々は、まことのメシヤがダビデの子孫から誕生することを知っておりました。ですからユダヤの文化的背景を持った人々のために書かれたマタイによる福音書には、もうその第1章の1節からが、イエスキリストの系図である人の名前が列記されております。「 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」。 この一行は、ダビデの子イエスさまが、メシヤが誕生したということをいっているのです。

 メシヤの預言として旧約聖書に燦然と輝くのがイザヤ書534~7節です。ここは格別に大祭司なるメシヤについての預言です。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 人間であるアロンの子孫から出た祭司は、祭司自身も罪人ですから自分の贖いの分の動物、そして自分たちに委ねられている人々の罪のための動物を携えて血を流し、人々の罪の赦しを請う祭司としての執り成しの務めを果たしました。しかしまことのメシヤなるお方は動物の血ではなく、神の子羊としてのご自分の貴い血潮を携えて、私たちの咎を負ってくださったのです。このお方こそ旧約聖書が預言しているまことの大祭司として誕生くださった。

 ルカの福音書には、シメオとアンナという老預言者が登場します。イエスさまが、エルサレムの神殿にお宮参りのためにヨセフとマリヤに抱かれてやってきました。シメオンがマリヤに対して、「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」と言いました。この預言者たちは、この幼子が十字架の贖いのために生まれた神の子羊であることをわかっていたのです。シメオンは「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです。」と、幼子を抱いた若い夫婦に言葉をかけたのを私たちは知っております。 

このお方が、まことの油そそがれた預言者であるとは、どういうことでしょうか。ヨハネの福音書146節、

6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 これは預言者と教師の違いといったらいいでしょうか。教師は真理を指し示しそれについて教えることができるでしょう。けれども「わたしが真理である」とは決して言えません。しかしこのまことの預言者であるお方は、神の国とは、人とは、神とは何であるのか。「わたしを見た者は父をみたのである」、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」これらをはっきりと私たちに示してくださったのです。

 疑い深いトマスが、あなたがどこに行くのか分らないと言ったときに、

「これほど長くあなたと生活しているのにわからないのか、トマス、わたしが道なのだよ、わたしが真理なのだよ、わたしが命なのだ。わたしを通してでなければ、父の御許に至ることはできない。ここに真理があるのだ」と仰った。

 まことの神の真理を私たちに伝えるお方、これがメシヤであります。

 クリスマスのとき私たちは、王、祭司、預言者として、まことのメシヤなるお方が、この世においでくださったということを確認したいと思うのであります。

 天から人類に降ってきてくださった、これが受肉です。これを私たちは、クリスマスとしてお祝しています。そして私たちに神の国について教え、そして、大祭司としての、メシヤとしての務めを全うされて十字架にお架かりになってくださった。そして天に帰っていかれた。クリスマスのできごとは、この一連の中で理解しなけえばならないものであります。これこそまことのクリスマスの奥義であるということを、私たちはしっかりと心の中に留めなければならないと存じます。

 

40分の説教をできるだけ短く編集しております。文責:中ぶんな

 

 

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マーラー1000人の交響曲ーシャルルデュトワー&N響&

  2日の23時半にデータで文芸誌に原稿を送信。翌日3日の9時40分には主人と共に列車の中。実はこの日はシンフォニエッタ盛岡がキャラホールに出演することが念頭にあったのだが残念な思いを持ちつつ新幹線乗車。東京駅に着くと長男が駆け付けてきた。取りあえずは新宿野村ビルで昼食。歩くうちに損保ジャパン東郷青児美術館で「アルプスの画家セガンティーニー光と山ー」展が開催中だった。心打つ作品に出会うことができた。後で これもブログに書く機会があるといいのだが。
 そして簡単に茶菓を摂ってからは、

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 この旅の主目的であるマーラーの『1000人の交響曲』に。NHKホール。チケットは発売と同時に息子が確保。この初演はほんとうに1030人という規模であったらしい。すでにさまざまな論評も出ているだろう。今回は500人の規模か。合唱団だけでざっと400人かと思ったが。オケはコントラバス、セロ各10台。底支えが期待できる数。ハープ4台。とにかく大々的な編成なのだ。指揮シャルル・デュトワ。登板メンバーやマーラー、曲についてはすこし検索すれば出てくるわけで、ここでは割愛。
 とにかく弟一部。CDで3回聴いているが、何か違う、何処か違うという思いを否めなかった。しかし弟二部からが素晴らしかった。これならじっくりついて行けそうだった。そして最後部分になったときに、二階の観客席の10列の後ろに、私はR10列11番なので私の位置辺りから私たちの真後ろにトランペット、トロンボーンが並んで入った。振り返ってよく見たわけではないが他の管も入っていたかもしれない。ここに入るとは知らないでチケットを取ったのだ。ライトがこちら側を照らしたので、自分を照らすはずはない、いったい何なのだと振り返りみるとこれだった。そしてステージと呼応しこれらの管が背後で高らかに鳴ったときのあの感動は一生忘れないものだった。これは神からのプレゼントだ、わたしはほんとうにそう思った。
 会場が多くの人々の感動の坩堝と化した。

テレビ放送予定

  1月15(日) 21:00~
    Eテレ(旧NHK教育) 「N響アワー」

 

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ありがとう神さま

 上京も好天に恵まれ、また思いがけなく今興味を持っている楽器のプチコンサートにも出会い、そして、家に帰ってからはじっくりと三日間寝ていなさいと、風邪のウィルスを活性化させ熱を出してくださり、節々の痛み、そして痛々しく見せるかに咳までも付け足してくださり、主人や二男の温かさを今一度忘れないようにしてくださり、それが分ったところで、こうして起き上がり、また元のようにパソコンにも向かうことが出来るようにしてくださったところに、教会からのカードも到着。
 これはひろ子牧師が、その時々に応じて教会の皆様のために祈って書いてくださっているカードなのです。

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『天地を造られた主が
   シオンからあなたを祝福されるように。』
                詩篇 134:3

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 こうして起き上がることができ、きょうを生きられることは、わたしに何が出来、何が出来ないか、何を持っているか、何を持っていないかにはどうも関係がないようです。ただ天の憐れみの故に、赦しの故に、こうしていまここに自分があることを感謝いたします。ありがとう神さま。拙い者を許し支え生かしてくださる皆様に厚く御礼申し上げます。

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久方ぶりの上京

 数年ぶりだろうか、上京したけれども、今回は快晴に恵まれた。コンサート、楽器店、夜景、姪の出産祝い。久方ぶりに生まれてまだ8日という赤子を見た。存在していなかったものが存在するようになる。不思議な感じがした。

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きょうのことばー『王なる主の誕生』―アドベント(1)―

毎週日曜日は、福音的なキリスト教会の説教をお届けしておりますが、きょうは土曜日ですが、2日間ブログの更新をお休みしますので、一日はやく掲載いたします。この日は正餐式にも与ることができました。

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20111127()、インマヌエル盛岡キリスト教会(0196462924)國光勝美牧師の説教です。

説教題『王なる主の誕生』―アドベント(1)

聖書箇所 マタイの福音書2章1~12(以下の太字は聖書からの引証です)1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3
それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4
そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5
彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。」
6
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8
そして、こう言って彼らをベツレヘムへ送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9
彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11
そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12
それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

【説教】

今年も待降節となりました。弟一アドベントを皆さま方とともに守ることができ、心から感謝をささげることでございます。

イエスさまがお生まれになったのは、プロテスタントやカトリックでは1225日とされ、一方、ロシア正教では118日とされております。そして世界の多くの人々が1225日にイエスさまのお誕生日をお祝しています。この日を意義深く持ちたいと思うことでございます。

 クリスマスには、よく三人の東方の博士たちがやってきたと聞きます。賛美歌でも、「三人の博士」と歌っておりますが、さて、この東の博士たちはどこから来たのでしょうか。彼らはバビロン、ペルシャで指導的な立場の人であったと言われております。色々な訳をつき合わせますと、「博士」は、星占い、占星術をする人たちでありました。古代ではこれが宗教的な意味合いも持っており、政治と一体になっていた。ですから、この博士たちは、その時代のエリートであったと言われております。この博士たちが、ときのローマ皇帝アウグストにでも謁見しようと旅に出るならわかりますが、ローマの属国にすぎない小さなユダヤの国に、王さまが生まれたと知って、お会いするためにはるばる旅をした。これは非常に大きな意味のあることです。

その昔、ユダヤの人たちは、バビロンに捕囚となっていた。しかし彼らは、自分たちがこのような国家的な悲劇に陥った理由を分かっていた。自分たちの信仰の在り方が間違っていたにも関わらず、まことの神に立ち返るように諭した預言者たちに聞き従わなかったからだという自覚がありました。そして悔い改めていたでしょう。何よりもソロモンの栄光に輝く神殿が灰燼に帰した彼らの悲惨さは想像に難くない。しかし彼らには聖書があった。聖書が与えられた民族であるという誇りがある。そこで彼らは、シナゴグ(会堂)と呼ばれる集落単位を形成し、聖書に聞き従う生活を彼らは捕囚中にしておりました。それを見たバビロン、ペルシャの異教の人たちは、彼らユダヤ民族の信じている神さま、信仰というものは、我らのそれとは本質的に違うことに気づいた、特に心ある人たちが自覚したようです。そこで博士たちは、ユダヤ人たちからこの聖書を真剣に学んだのでしょう。その中の一つが、民数記2417

17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

 先ず博士たちは教えられやすい心を持っていたということができます。自分たちの国の奴隷となった民族が信じている信仰を、見下すことをせずに前向きに捉えるのはそうできるものではない。自分たちより優れた文化を持つ者たちからは学ぼうとしやすい、そしてそれは案外受け入れられやすい。しかし、ユダヤ人たちは国を失い貧しくぼろぼろになっていた。その民族が持っていた聖書にある本質を博士たちは見極めた。聖書にある希望の光を捉えそれに焦点をぴたりと合わせた。そのときにユダヤ人への偏見からも見事に解放されたはずです。その意味に於いて日本のクリスチャンも仏教、神道という土壌にあって聖書に目が見開かれ、救いを確信し、これに自分を懸けている。教えられやすい心がなかったなら、とてもこうはならないと思うのです。何と幸いなことだろうと思います。

 それからこの博士の心は、クリスチャンになった私たちの心と同じだと思います。それは求める心を持っていた。日常生活に於いて、多くの人たちは、宗教をほとんど意識しないで生きています。そんな中で、生きるとは何かを真剣に考え求める心を、私たちは持つことができたのです。また、この博士たちと共通しているのは、勇気ある決断です。

一般社会に於いて、自分の地位、利権を守るためには大変な神経と知恵を使います。たとえば政治家は自分が病気であることを決して口外しない。人に弱みを見せてはいけない。いつ政敵にその座を奪われるやもしれないからです。これはもう世界共通のようです。この博士たちも、謂わばこのような支配階級に属していた。その博士たちが、名誉、地位よりも主にまみえることを優先させ、交通機関もままならず多くの危険にさらされる何千㎞もの旅に出発したのです。これは実に勇気ある決断です。帰ってきたときには、もしかすればもうその地位を失っているかもしれない、たとえそうなっても構わない。もうこの世の地位、栄達は私には関係がない。私はほんとうにお会いするべきお方にまみえ、そのお方を礼拝することが人生の究極であっても構わないという決断をもって彼らは旅をしたのです。

どうでしょうか。私たちがクリスチャンになったときに、そこまでの意識があったかどうかは別としても、アーメンと頷くことができると思うのです。クリスチャンですと旗揚げしなければ、世の中でもっと栄達できたかもしれない。しかし、もうそれは問題ではない。自分の人生の最高の目的は、神さまという大いなるお方に謁見し礼拝をささげる、これが叶うなら、私の人世は万々歳だ。どうでしょうか。私たちは、そのような思いをもって博士たちの礼拝を味わうことができているでしょうか。

 しかしそれと対象的なのが、祭司長、学者といわれる人たちです。博士たちが星に導かれてやってまいりました。彼らはユダヤの王としてお生まれになる方だから、そのお方は王の宮殿におられるに違いないと思ってヘロデの宮殿を訪れたのです。威儀を正した遙か遠方の博士たちがキャラバンを従えて宮殿に入っていくのですから、恐らく当時のエルサレム中の話題になったことでしょう。

ところが、このヘロデ王は、自分の地位に異常なまでに執着しており、非常に猜疑心が強かった。ヘロデは紀元後4年に亡くなっていますから、このときはもう晩年です。それでも自分の王座を狙っている者は容赦しません。そして嫌疑を掛けられた自分の妻を殺し、三人の子どもまで殺してしまう。巷では「ヘロデの家の子どもに生まれるよりも、豚の子どもとして生まれた方が幸せだ」と囁かれたほどでした。やってきた博士たちがヘロデ王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と訊いたものですから、ヘロデはすっかり恐れ惑い、その王として生まれたという子どもの殺害を企て、直ぐに祭司長、学者を召集します。マタイ2章4節。

4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
 すると5節で、

5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。」

そうです。祭司長、学者たちは救い主がどこに生まれたのかも知っているのです。ヘロデの宮殿があるエルサレムからベツレヘムまでの距離は大凡8㎞。にもかかわらず、会いに行こうとはしなかった。ここで彼らの信仰がどういうものかが分かります。

「ユダの地ベツレヘム、あなたはユダを治めるものたちの中で、決していちばん小さくはない。」

この御聖言もどこにあるか直ぐに開くことができるほど聖書にも精通していた。ベツレヘムだということも知りながら、彼ら祭司長、学者たちは動こうとしない。しかし博士たちは何千㎞もの道を多くの犠牲を払ってまで、ユダヤ人の王さまにお会いしようとやってきているのです。

博士たちの礼拝をもう一度見てみましょう。博士たちは先ず行きました。先ず行動を起こしたのです。そして、ひれ伏して拝みました。そしてもう一つ、ささげ物をいたしました。11節をご覧ください。

11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 お話しを締め括りますが、まことの礼拝とは一体何なのか。王なるお方の前に、私たちが先ず行くことです。博士たちが覚悟した犠牲を思い起こしてください。私たちがまことの王さまを礼拝しようとするとき、この博士たちが払った犠牲に勝るものがあるでしょうか。私たちはしばしばほんの僅かな犠牲を惜しむが故に、あの祭司長、学者たちのように、行こうとしない。私たちがクリスマスのとき、心に留めたいことは、あの博士たちの信仰です。先ず行きましょう。そして博士たちがしたように、王なるお方の前に礼拝をおささげしましょう。ひれ伏し拝むこと。そして、このお方に黄金、乳香、没薬をささげたとありますが、私たちができるささげものは何でしょうか。

 主よ、どうぞ私たちのすべてをお受け取り下さい。これが博士たちの黄金、乳香、没薬にまさるものではないかもしれません。しかし、主よ、私はあなたのものです。どうぞわたしを、あなたのご自由に、あなたの願いのままに私を用いてください。このように王なるお方の前に出ることができたなら、私たちはほんとうのクリスマスの礼拝をおささげする者となるのではないでしょうか。

※出来るだけ短くするために例話などを割愛しております。文責:中ぶんな

 

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大詰

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 きょうは午後からこんな写真撮りをしていた。なかなかうまくいかない。これも謂わば失敗作の一枚。失敗を載せるとは何事、ではあるのだが、自分のイメージ通りの写真を創り出すのはこれほどに難しいのだ。
 あまりに長いあいだ弾いていないので、弓の馬の毛がばらばらと落ちた。今年中に何とかドック入りさせようと思っている。

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クリスマスは教会で!!

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インマヌエル盛岡キリスト教会のクリスマスの集会は次の通りです。
ご一緒に御降誕をお祝いたしましょう。
入場無料。お気軽におでかけください。
☆クリスマス礼拝 12月25日(日)10時半~12時
 クリスマス祝会          13時半~15時
☆キャンドル・サービス
           12月23日(金、祝日)18時~19時

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