きょうのことばー『王なる主の誕生』―アドベント(1)―
毎週日曜日は、福音的なキリスト教会の説教をお届けしておりますが、きょうは土曜日ですが、2日間ブログの更新をお休みしますので、一日はやく掲載いたします。この日は正餐式にも与ることができました。
2011年11月27日(日)、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019~646-2924)國光勝美牧師の説教です。
説教題『王なる主の誕生』―アドベント(1)―
聖書箇所 マタイの福音書2章1~12節(以下の太字は聖書からの引証です)1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。」
6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8 そして、こう言って彼らをベツレヘムへ送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。
【説教】
今年も待降節となりました。弟一アドベントを皆さま方とともに守ることができ、心から感謝をささげることでございます。
イエスさまがお生まれになったのは、プロテスタントやカトリックでは12月25日とされ、一方、ロシア正教では1月18日とされております。そして世界の多くの人々が12月25日にイエスさまのお誕生日をお祝しています。この日を意義深く持ちたいと思うことでございます。
クリスマスには、よく三人の東方の博士たちがやってきたと聞きます。賛美歌でも、「三人の博士」と歌っておりますが、さて、この東の博士たちはどこから来たのでしょうか。彼らはバビロン、ペルシャで指導的な立場の人であったと言われております。色々な訳をつき合わせますと、「博士」は、星占い、占星術をする人たちでありました。古代ではこれが宗教的な意味合いも持っており、政治と一体になっていた。ですから、この博士たちは、その時代のエリートであったと言われております。この博士たちが、ときのローマ皇帝アウグストにでも謁見しようと旅に出るならわかりますが、ローマの属国にすぎない小さなユダヤの国に、王さまが生まれたと知って、お会いするためにはるばる旅をした。これは非常に大きな意味のあることです。
その昔、ユダヤの人たちは、バビロンに捕囚となっていた。しかし彼らは、自分たちがこのような国家的な悲劇に陥った理由を分かっていた。自分たちの信仰の在り方が間違っていたにも関わらず、まことの神に立ち返るように諭した預言者たちに聞き従わなかったからだという自覚がありました。そして悔い改めていたでしょう。何よりもソロモンの栄光に輝く神殿が灰燼に帰した彼らの悲惨さは想像に難くない。しかし彼らには聖書があった。聖書が与えられた民族であるという誇りがある。そこで彼らは、シナゴグ(会堂)と呼ばれる集落単位を形成し、聖書に聞き従う生活を彼らは捕囚中にしておりました。それを見たバビロン、ペルシャの異教の人たちは、彼らユダヤ民族の信じている神さま、信仰というものは、我らのそれとは本質的に違うことに気づいた、特に心ある人たちが自覚したようです。そこで博士たちは、ユダヤ人たちからこの聖書を真剣に学んだのでしょう。その中の一つが、民数記24章17節
17 私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。
先ず博士たちは教えられやすい心を持っていたということができます。自分たちの国の奴隷となった民族が信じている信仰を、見下すことをせずに前向きに捉えるのはそうできるものではない。自分たちより優れた文化を持つ者たちからは学ぼうとしやすい、そしてそれは案外受け入れられやすい。しかし、ユダヤ人たちは国を失い貧しくぼろぼろになっていた。その民族が持っていた聖書にある本質を博士たちは見極めた。聖書にある希望の光を捉えそれに焦点をぴたりと合わせた。そのときにユダヤ人への偏見からも見事に解放されたはずです。その意味に於いて日本のクリスチャンも仏教、神道という土壌にあって聖書に目が見開かれ、救いを確信し、これに自分を懸けている。教えられやすい心がなかったなら、とてもこうはならないと思うのです。何と幸いなことだろうと思います。
それからこの博士の心は、クリスチャンになった私たちの心と同じだと思います。それは求める心を持っていた。日常生活に於いて、多くの人たちは、宗教をほとんど意識しないで生きています。そんな中で、生きるとは何かを真剣に考え求める心を、私たちは持つことができたのです。また、この博士たちと共通しているのは、勇気ある決断です。
一般社会に於いて、自分の地位、利権を守るためには大変な神経と知恵を使います。たとえば政治家は自分が病気であることを決して口外しない。人に弱みを見せてはいけない。いつ政敵にその座を奪われるやもしれないからです。これはもう世界共通のようです。この博士たちも、謂わばこのような支配階級に属していた。その博士たちが、名誉、地位よりも主にまみえることを優先させ、交通機関もままならず多くの危険にさらされる何千㎞もの旅に出発したのです。これは実に勇気ある決断です。帰ってきたときには、もしかすればもうその地位を失っているかもしれない、たとえそうなっても構わない。もうこの世の地位、栄達は私には関係がない。私はほんとうにお会いするべきお方にまみえ、そのお方を礼拝することが人生の究極であっても構わないという決断をもって彼らは旅をしたのです。
どうでしょうか。私たちがクリスチャンになったときに、そこまでの意識があったかどうかは別としても、アーメンと頷くことができると思うのです。クリスチャンですと旗揚げしなければ、世の中でもっと栄達できたかもしれない。しかし、もうそれは問題ではない。自分の人生の最高の目的は、神さまという大いなるお方に謁見し礼拝をささげる、これが叶うなら、私の人世は万々歳だ。どうでしょうか。私たちは、そのような思いをもって博士たちの礼拝を味わうことができているでしょうか。
しかしそれと対象的なのが、祭司長、学者といわれる人たちです。博士たちが星に導かれてやってまいりました。彼らはユダヤの王としてお生まれになる方だから、そのお方は王の宮殿におられるに違いないと思ってヘロデの宮殿を訪れたのです。威儀を正した遙か遠方の博士たちがキャラバンを従えて宮殿に入っていくのですから、恐らく当時のエルサレム中の話題になったことでしょう。
ところが、このヘロデ王は、自分の地位に異常なまでに執着しており、非常に猜疑心が強かった。ヘロデは紀元後4年に亡くなっていますから、このときはもう晩年です。それでも自分の王座を狙っている者は容赦しません。そして嫌疑を掛けられた自分の妻を殺し、三人の子どもまで殺してしまう。巷では「ヘロデの家の子どもに生まれるよりも、豚の子どもとして生まれた方が幸せだ」と囁かれたほどでした。やってきた博士たちがヘロデ王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と訊いたものですから、ヘロデはすっかり恐れ惑い、その王として生まれたという子どもの殺害を企て、直ぐに祭司長、学者を召集します。マタイ2章4節。
4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
すると5節で、
5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。」
そうです。祭司長、学者たちは救い主がどこに生まれたのかも知っているのです。ヘロデの宮殿があるエルサレムからベツレヘムまでの距離は大凡8㎞。にもかかわらず、会いに行こうとはしなかった。ここで彼らの信仰がどういうものかが分かります。
「ユダの地ベツレヘム、あなたはユダを治めるものたちの中で、決していちばん小さくはない。」
この御聖言もどこにあるか直ぐに開くことができるほど聖書にも精通していた。ベツレヘムだということも知りながら、彼ら祭司長、学者たちは動こうとしない。しかし博士たちは何千㎞もの道を多くの犠牲を払ってまで、ユダヤ人の王さまにお会いしようとやってきているのです。
博士たちの礼拝をもう一度見てみましょう。博士たちは先ず行きました。先ず行動を起こしたのです。そして、ひれ伏して拝みました。そしてもう一つ、ささげ物をいたしました。11節をご覧ください。
11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
お話しを締め括りますが、まことの礼拝とは一体何なのか。王なるお方の前に、私たちが先ず行くことです。博士たちが覚悟した犠牲を思い起こしてください。私たちがまことの王さまを礼拝しようとするとき、この博士たちが払った犠牲に勝るものがあるでしょうか。私たちはしばしばほんの僅かな犠牲を惜しむが故に、あの祭司長、学者たちのように、行こうとしない。私たちがクリスマスのとき、心に留めたいことは、あの博士たちの信仰です。先ず行きましょう。そして博士たちがしたように、王なるお方の前に礼拝をおささげしましょう。ひれ伏し拝むこと。そして、このお方に黄金、乳香、没薬をささげたとありますが、私たちができるささげものは何でしょうか。
主よ、どうぞ私たちのすべてをお受け取り下さい。これが博士たちの黄金、乳香、没薬にまさるものではないかもしれません。しかし、主よ、私はあなたのものです。どうぞわたしを、あなたのご自由に、あなたの願いのままに私を用いてください。このように王なるお方の前に出ることができたなら、私たちはほんとうのクリスマスの礼拝をおささげする者となるのではないでしょうか。
※出来るだけ短くするために例話などを割愛しております。文責:中ぶんな
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