きょうのことばー『イエスから目を離さないで』その1
日曜日には、キリスト教会の礼拝の説教をお伝えしています。
きょうは、2011年11月13日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教です。
説教題 『イエスから目を離さないで』
聖書箇所 ヘブル12章1~2節
教会のこれからの予定を申し上げますと、この次の日曜日(11月20日)は世界宣教の講壇です。インマヌエル綜合伝道団世界宣教局制作のDVDを視聴し、全国のインマヌエルの教会が世界宣教について心を一つにして祈る聖日です。毎年このためにコイン献金を実施しておりますが、ご協力頂ければと願っております。
そして、その次の日曜日(11月27日)は、教会の暦で言いますと、弟一アドベントです。イエスさまが天から降りてくださるのを待つという意味で待降節、またはアドベントと呼んでおります。いよいよクリスマスに向かってのギヤチェンジということで、これからの日曜日を改めて確認をいたしました。
この時期には、各メディアが今年を締め括る特集を組みます。まして私たち主を信じる者たちが、この年を受け止め総括し、来るべき年に備えることは、とても大切であろうと思うことです。
個人的ではありますが、3・11で、教会の屋根裏の書籍、書類が見るも無惨に散乱し、何とか片付けておりました9月頃のことですが、私に取っては記念すべきチラシを発見しました。勿論スクラップに取ってあるのは分かっていたのですが、それを改めて見たわけです。それは、自分が初めて教会に行くきっかけとなったチラシです。そして同じスクラップの中には、牧師となる導きを決定づけた一つのお手紙もありました。原点に立ち帰る大切なときでありました。43年前の11月16日に私は信仰を決断しております。その数日前から集会に出席していたことを思いながらそのチラシを見ると11月13日、ちょうど今日の日にちがその連続の集会の中にあったこと。改めて11月の聖日を迎えるときに、個人としても、この1年を振り返りながら、何か深く思うところがございました。そして、このような者があの1968年の11月16日、昭和43年11月16日にイエスさまを信じ、献身し、今日に至るまでの歩みを振り返るとき、一体どのような言葉でこれを総括できるのかと思いましたときに、やはり私はヘブル人への手紙12章2節が浮かびました、
2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
きょうの説教題『イエスから目を離さないで』。いまこのような者が講壇に立っておりますのは、色々なところを通りましたけれども、イエスから目を離さなかった、このことにあると思っております。
ヘブルの手紙を誰が書いたかには諸説あり特定されておりません。パウロが書いたという説もあります。しかし、誰が書いたにせよ肝要なのはその意味です。
当時ユダヤの人たちは一般的にユダヤ教を信じていました。旧約聖書の厳しい律法、戒律の中にありました。そのような宗教的土壌のなかにあって、イエス・キリストの十字架による贖いを信じた多くの人々があった。このようなクルスチャン信仰を持ったものの、彼らの置かれている社会はユダヤ教社会であるために、多くの試練、困難と直面しました。せっかく信仰を持ったにも係わらず、多くの壁が立ちはだかるとき、私の信じている信仰はこれでいいのだろうか、あの選択は間違いだったのではないか、このようなジレンマに陥ってしまったヘブルの方々があったのでしょう。恐らく皆さん方も、この人たちと同じ思いになられた事があるのではないでしょうか。
このヘブルの手紙には、イエス・キリストへの信仰は間違いのないものであることが縷縷述べられています。ユダヤ教では、大祭司が動物の血を携えてその年々に神様の前に罪の贖いをする。しかし実はイエスさまこそが、この大祭司にまさる大祭司、あのゴルゴダでご自分を生贄として血潮を流し、私たちの罪を贖ってくださったまことの大祭司である。ですから、あなた方の持っている信仰をしっかりと保ち続けてください、こう言っているのです。ヘブル人への手紙11章1節からには、私たちはいまこのように辛いところを通っているけれども、ということを認めたうえで、
1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
そして、
2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
昔の人たちは皆、まだ見ない天国を、神の国をまち望み、それをかたく信じて、その信仰を全うして来た人たちであると、アベル、エノク、ノア、アブラハムと次つぎに偉大な信仰者の名前を出して、彼らは皆、あなたがたと同じ信仰を持って、まだ目に見ないものを信じて確信していた。モーセも、ダビデもそうだった。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者達も皆命を賭して信仰を全うしている。そして36節などを見ると、
36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖でつながれ、牢にいれられるめに会い、
37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、試みをうけた
けれども彼らは、皆その信仰を貫いている。全うした人たちではないか。あの人たちに約束されたものを、今あなた方も同じように信じているのです。そして、それらを承けて、きょうの聖書箇所であるヘブル12章1、2節
1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
となるわけです。ヘブルの記者は、このような信仰の歩みを「競争」だと言っています。この「競争」を、忍耐をもって走りつづけようじゃないか、こういっているのであります。
この「競争」の意味には、オリンピックの競技のようなもの、というものもありました。正にその通りなのですが、これは命がけの競技のことです。勝ち負けで終わるのではなく、もっと切実な意味を含んでいる。ヘブルの記者が11章において、私たちは、このように既に命を賭けて競技を見事に走り抜いた人たちにによって見守られている、これを証しする者、それが12章の1節の「証人」という言葉なのです。これは使徒の働きの中にある、「聖霊があなたがたに臨むときあなたがたは力を受けます。そして…地の果てにまでわたしの証人となります」という「証人」と同じ言葉が使われており、これには、「殉教者」という意味があります。つまり彼らはその命を賭けて殉教者として、「さあ頑張るんだよ」と励ましている。そしてヘブルの記者が2節、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」、と私たちの今の信仰を励まし、或いは調整してくださっている。このように受け取ることができるのでございます。
2節の「イエスから目を離さないでいなさい」。どうぞ私たちの信仰生涯を振り返って、わたしはイエスさまだけを見、目を離さないでいたかどうかを吟味したいものです。
ー次ページにつづくー
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