きょうのことばー『信仰と希望の基礎』ー召天者記念礼拝ー
毎週日曜日には、教会の礼拝の説教をお伝えしています。きょうは2011年11月6日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージです。
説教題 『信仰と希望の基礎』ー召天者記念礼拝
聖書箇所 ペテロの手紙第一1章13~25節
教会では11月の弟一聖日は主にある兄弟姉妹方とともに、先に天に帰られた方々を偲ぶときを持つことが恒例となっております。昨年までは、講壇の横の壁面に御遺影の額を掲げさせていただきましたが、今回からはプロジェクターを用い、パソコンからスクリーンに御遺影を映し出して、ご一緒に召天者の方々を偲びたいと願っております。(つづいて、15分間、御遺影と墓地、墓碑銘が映し出されました)
スクリーンの背景に流れました讃美歌は、インマヌエル讃美歌454番『なつかしくも浮かぶ思い』です。皆さんで歌いましょう。
1、なつかしくも うかぶおもい
あまつふるさとは ややにちかし
※ふるさと ふるさと
こいしきふるさと ややにちかし
2、父のかみの そなえたもう
住まいぞおおかる あまつやには
※
3、おいなやめる わが十字架の
かむりとなるべき 日ぞまたるる
※
4、あさ日またぬ つゆのいのちおもわぬ
あらしにいまもや散らん
※
短く召天者記念礼拝の御聖言の御用をさせていただきます。
きょう心に留めさせていただきたい御聖言は、ペテロの手紙第一の1章21節でございます。
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
ペテロの手紙には第一と弟二がありますが、それぞれに異なった意味、目的がございます。ペテロはおよそ紀元後60年過ぎ、ローマ皇帝ネロの時代の使徒です。実は彼は、このネロの暴虐により捕えられ殉教しております。言い伝えによりますと、主イエスさまと同じ十字架では申し訳ないと、自ら逆さ磔を望み殉教しております。
そのペテロが、殉教を目前としたとき、自分の持っている信仰を是非わかって継承してもらいたいと燃えるような思いをもって書いたのがペテロ弟一であり、ペテロの第二であります。弟一の主な対象は、幅広く一般の方々向けに、第二の方は、仲間内のクリスチャンたちに、終末に於ける教理を正しく理解して貰うために書かれたようです。
またペテロの手紙第一の1章3節には
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
ここに書かれておりますように、殉教を前にしたペテロが何としても伝えたかったのは、「どうか私が持っているような生ける希望をあなた方にも持ってもらいたい」というこの事でございました。また、ペテロの手紙第二の1章13、
13 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
ここに「地上の幕屋」という表現があります。これに続きまして14節、
14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っています。
これが婉曲に何を意味しているのか。このときのペテロでいうなら、「幕屋」は、自分の纏っている、魂の纏っている肉体、体のことです。地上にいるあいだの幕屋を脱ぎ去って天に帰るときが近づいている。私はそれを知っている。だから今あなた方にも、私の持っているような「生ける希望」を持ってもらいたい。これがペテロの手紙弟一、或いはペテロの手紙第二の非常に大切な鍵となることばです。この召天者記念礼拝で、ここにおられるお一人お一人に、ペテロが伝えたく願っている「生ける希望」を確信していただきたい。
ペテロの手紙弟一の1章21節にはこうございます。
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
そして、ペテロの手紙弟一の1章18節には、
18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
ここに、むなしい生き方から贖い出されたとあります。「むなしい」という言葉を、原典はギリシャ語で書かれていますが、これに即して調べますと、「空虚な」、或いは「つまらない」、或いは「役に立たない」といった意味です。以前はそのような生き方であったあなた方が、キリストによって贖い出された。傷もなく汚れのないキリストの貴い血によって私たちは贖い出されたのです。
私たちがもし沙漠で迷い、或いは大海原で漂流したとして、どちらに向かって一歩を踏み出すべきなのか、これを持っている人と持っていない人では、人生がまったく違うものになるでしょう。沙漠のようなところに、ぽつんと置かれてしまい、さあこれから目的地に行かねばならない、こっちかなと踏み出した瞬間に、もしかすれば遠ざかっているのかもしれない。待てよ、目的地は寧ろこっちかな。いや右の方かも知れない。いや左の方かもしれない。どちらに踏み出したらよいか分からない状態、それが「虚しい生き方」、「つまらない生き方」、「役に立たない生き方」です。
しかし私たちには、イエス・キリストというお方、「わたしが、道であり、真理であり、命なのです」と仰るこのお方がいらっしゃる。「わたしが道である」。私たちの行くべき目標に私たちを繋いでくれるのが道なんです。目的の所に私たちを導いてくださる、それを道というのです。それがなければ道ではありません。お弟子さんたちが、「主よ、私に父を(神さまを)示してください、そうすれば十分です」と言ったとき、イエスさまは、「私が道なんだ」、このように語ってくださいました。
そうです。それまで行く方向を知らずして虚しい生き方をしていたものがイエス・キリストというお方と出会ったとき、イエスさまは、「わたしはあなたを愛しているよ、さあ、あなたの歩むべき方向はここですよ、歩むべき道はここですよ」と示してくださった。私たちはイエス・キリストによって救われたのです。そして、「わたしが道であり真理であり、命である」とイエスさまが仰るこのことには、実は大切な恵みが秘められております。それは、イエスさまは私たちのために、私たちに永遠の命を与えてくださるために、身代わりとして死んで下さったのだということ。そして、「わたしを信じるのならば、あなた方も永遠の命を持つことができる」と主はお約束をしてくださった、そして、そのお約束がほんとうに確かなものであるというしるしに、主イエスさまは、よみがえって下さったのです。「わたしが生きているからあなたがたも生きるのです」。
ペテロの手紙第一の1章21節に、
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
そして次に、ペテロの手紙第二の1章13~16節を、すこし重複するかもしれませんが大切なところですのでお読みします。
13 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っています。
15 また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。
つまりペテロは、「私はもう近々この世を去っていくけれども、その後に残るあなた方に、どうか今私が言うことを思い起こして貰いたい、それが私の務めなのです」と言って、更にペテロの手紙第二の1章16節でペテロはいうのです。
6 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
これを、ペテロは念を押して言いたかった。
「私は近々世を去っていくけれども、この私の持っている生ける希望をあなた方に確実に伝えたい。私が語っているイエス・キリストの復活は、巧くできた荒唐無稽な作り話に従ったのではない。私はその目撃者なのです」とペテロはここで言っています。
ペテロをご存じの方は是非思い起こしていただきたい。彼はもともと臆病者でした。イエスさまが敵の手に渡されたとき、彼は心配してこっそりとイエスさまの後についていった。ところが、敵に「お前もあのイエスの仲間だろう」と言われたとき、「違う違う、誓っていうが俺はあんな男の仲間じゃない、神に呪われたっていい、俺はあんな男を知らない」と三度もイエスさまを否定してしまったのでした。イエスさまが十字架につけられた後も、いつ敵が自分たちを捕まえに来るかとびくびくしていた。弱虫だったのです。私たちと同じ弱さを持っていた。ところが、そのペテロが、ここでは堂々と、「あなた方が十字架につけたこの男を神はよみがえらせてくださった。私たちはその証人です」と命を賭けてその証しをしていった。ペテロは変えられていたのです。
いま私たちは、既に天に帰っておられる方々を、偲んでばかりいるときではございません。虚しい生き方から救い出され贖い出され、イエス・キリストという天に通じる道を歩まれ、今そのお方のもとに安らぎの中にある兄弟姉妹方のことを心に留めながら、願わくは私たちも、その歩みに倣わせていただきたい。天に向かうところの望みをしっかりと持って地上生涯を歩ませていただきたいと心から願っているところでございます。
※讃美歌の5、6番を省略。また編集上、割愛した部分がございます。誤字、脱字などはご指摘ください。文責:中ぶんな
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