きょうのことばー『イエスから目を離さないで』その2
※前ページからのつづきとなっております。
イエスさまから目を離してしまう理由は何か。それは、人を見てしまうからです。私たちは人を見てしまうとき、イエスさまから目を離してしまいます。たとえば、信仰を持とうとするとき、イエスさまを信じていない人から、「クリスチャンになるの?」「クリスチャンに?」と言われ、ためらってしまう事がある。自分の決断が人と違っていることで躊躇する。たしかに、多くの人々と同じ事をやっている方がよほど楽なのです。ヘブルの記者が言うのです。人はどんなときにだって言うときは言う。何をしたといっては人は言う。何をしなかったと言っては人は言う。世の中の人の評価、そんなことに、大切な自分の信仰の決断を左右されることほど残念なことはない。
人を見るときに、私たちはイエスさまから目を離すということがあり得る。或いは皆さん方もきっとそういうところをお通りになったかもしれません。そうなのです。
また同じ人を見てしまう場合でも、また違うケースがあります。何かというと、イエスさまの仲間がどうかを見てしまうことです。
ペテロは、イエスさまが、いつもヨハネを依怙贔屓しているように見えていた。自分はこれほど一生懸命仕えているのに、どうもイエスさまの目はいつもヨハネに注がれている。ペテロがイエスさまに、「主よこの人はどうですか」と質問をしているように、いつも他の弟子たちを気にしてしまう。そんなときにイエスさまは仰るのです。
「あなたは私に従いなさい」
そうなのです。私たちは人に目を向けやすい傾向性、弱さを持っています。今日憐れみのゆえに自分が斯くあらせていただいているのは、イエスさまから目を離さなかったから。きっと皆さま、アーメンと頷いてくださるでしょう。
そして、イエスさまから目を離してしまう状況がもう一つあります。それは自分を見るときです。自分自身の欠点、或いは足りなさ弱さ、これを知るときに落ち込んでしまう。そして、そこにばかり目が行って失望落胆し、いつのまにかイエスさまを見上げることができなくなってしまう。ヘブルの記者は私たちに「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と言っています。私たちはほんとうに自分自身の足りなさ、弱さを知り尽くしているでしょうか。思い切って申し上げますが、私たちが自分の足りなさを知る以上に、実は、神さまは私たちの足りなさをもっともっとよくご存じなのです。その上で私たちを愛して救いの中に導いてくださっているのです。そのお方に目をあげることが信仰です。ダビデもそうでした。偉大な王であるダビデにしても、弱さ足りなさ、欠点をたくさん持っていたのです。けれども神さまは、足りなさ、弱さ、失敗をも受けとめて、信仰の器としてくださった。ですから、私たちは、そんな自分に落ち込んでいる暇など無いのです。イエスさまを見上げる。イエスさまから目を離さない。これが信仰生活を全うする大きな秘訣であるとこう総括して間違いでしょうか。
ヘブル人への手紙を書いた記者が、ストレスの多い、困難の多い、厳しい社会の中にあって、苦しく辛く、もう信仰なんか分からなくなった、やめたいという人たちに、さあ、アブラハムを見てごらん、ノアを見てごらん、ダビデを見てごらん。みんな彼らは、信仰を持って進んでいった殉教者なのです。私たちはこのような殉教者に雲のように取り巻かれ見守られながら、今大切な競技をしている。遊び半分の競技じゃない。命がけの競技をしているのです。失敗などではない。ですからイエスさまから目を離さないで、イエスさまにしっかりと目を留めて走り続けさせていただきたいのです。
ヘブル12章2節の「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」を別の聖書の日本語訳を見ますと、「信仰の導き手、またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし」とあります。信仰の導き手。またこれを全うする者なる完成者。色々な訳を比べてみました。「創始者」の意味を探していたとき、その一つに、「列のいちばん先頭」という訳があったのです。急に、イエスさまがレジに並んでおられるような気がしました。そうだ、このお方の後ろに並んでいればいいのだ。先ほど申し上げたヘブル11章に出てくる信仰の偉人たちが並び、私たちも並んでいる。列の先頭はイエスさま。そう、このお方のように並べばいい。そして「完成者であるイエス」というおことばからして、この列の最後尾にもイエスさまがいてくださる。そう想像して間違いではないことばが使われています。イエスさまが父なる神さまにお持ちだった信仰の在り方、それに倣いましょう。他の人たちもそのように倣って歩みました。私もそれに倣いましょう。
そしてもう一つ。こんどは例話です。
NHKで昨年から「世界の名峰グレートサミッツへの招待」をシリーズで放送しておりますが、「アイガー」を録画しておき、やっと昨日観ることができました。
ヘルメットにカメラを着けたNHKの女性ディレクター、彼女も登山家なのですが、アイガーに日本人で初めて登ったのが槇有恒という人だったといったエピソードも加え実況を伝えながら、ガイドの助けを得て登っていくのですが、ついに最後の尾根道を登っていかなければならない。そのときに思わず発した「ああ、怖い」という声も入っていましたが、ほんとうに剣のような狭い最後の尾根道に風がびゅーびゅー吹いているところを行かなければならない。そのときに万一雪庇を踏み抜こうものなら転落死しかねません。ガイドはプロですから、そこを慎重に慎重に歩いていく。女性ディレクターは雪庇を踏み抜かないようにガイドの足跡をそのまま踏んで漸くアイガーの登頂に成功。「よくやったー」と抱き合って喜んでいました。思わずこちらも拍手したくなる場面でありました。私はそれを見ましたときに、「我は道なり」と仰るお方、その道に私たちは歩んでいることを思いました。登山ガイドではありませんけれども、イエスさまが、ちゃんと足跡をつけていてくださる。「この足跡の通りについていけば大丈夫だよ」。そして無事に、アイガーの頂上ではありませんけれども、その御国に入ったときに、イエスさまが、「よくやった、よく頑張ったね」といって抱き留めて下さる、そのテレビ画面を観ながら、私はこのように思い、、じんとくるものを感じました。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」
どうぞイエスさまだけを見上げて足跡をともに踏み、天国に行って、あなたのためにと備えてくださったお方と思いっきり抱擁して主の救いをほめたたえる歩みをさせていただきたい。心からそう願うことであります。
※例話の内容を若干割愛してございます。誤字、脱字、誤記お気づきの際はご指摘ください。文責:中ぶんな
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