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きょうのことばー『ここに愛がある』ー伝道礼拝ー

 日曜日には、教会の講壇で語られたメッセージをお届けしています。10月30日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教です。

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説教題 『ここに愛がある』ー伝道礼拝ー
聖書箇所 ヨハネ弟一の手紙4章8~10節


 きょうの週報で、大きな悲しみとともに
M姉妹の写真をご覧になったと思います。教会とともに真実に歩んでこられ、91歳で地上生涯を終えられたM姉妹。きょうの役員会では、姉妹をどのような形で偲びお送り申し上げるべきかを諮りたいと思っております。また毎年11月の第一日曜日が召天者記念礼拝ですので、116日に、先頃納骨を終えましたT兄弟と新たにM姉妹の写真を加えまして、召天者記念礼拝を持ちたいと願っております。

 先週(1023日)は相原雄二先生が、「聖書の教える幸福」という題で、実に明快にお話しくださいました。きょうは特に伝道礼拝ですから、むずかしいお話しではなく、ああ、福音とはこういうものなのかと解っていただく一つの機会となればと思います。

きょうは、『ここに愛がある』という説教題で統一をいたしました。先ほどヨハネ弟一の手紙を読ませていただきました。先ず第一に、愛の定義、愛の意義について考えたいと思います。そして第二として、愛の現われについて見て行きたいと思います。愛とは何なのか。そして愛は私たちにどのように現れたのか。そしてその結果は何であるのか。

いつも教会に出席しておられる方々は、愛というのはアガペーに由来しているとお聞きになっているでしょう。世の中で言うところのもう一つの愛には、エロスもあります。何れも「愛」と訳されている。エロス、これは情欲的な愛も表しています、もう一つ、フィリアという愛、これは友情、友愛と訳されている。ヨハネの福音書21章で、イエスさまがシモン・ペテロに「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか」と訊いておられます。ここで使われている「愛」はアガペーであり、エロスやフィリアではありません。

戦後、東京駅の丸の内側の正面広場に「愛」(アガペー)の像と呼ばれる銅像が建てられました。上半身裸で両手を天にさしのべている日本兵士の銅像です。その台座には漢字で「愛」と刻まれ、その下にギリシャ語で「へー・アガペー」と刻まれています。これについて資料をお読みいたします。

「そのモデルはカトリック信者。彼は無実の罪で死刑判決を受けた。日本にいた婚約者の必死の運動が実を結び、フィリピンのカトリック教会を動かし、司法当局も承認して彼は釈放されることになった」。戦争の悲しい捕虜の、所謂戦犯というような形の出来事でしょうか。「ところが彼は自分が死んでフィリピンの人々の日本への恨みを僅かでも消せるならばと釈放を拒んで処刑された」。

青年の選択した死、これを考えさせられたことです。

では次に「愛の現れ」についてですが、これもヨハネ弟一の手紙4章9節を見ますと、

9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 「ひとり子を世に遣わし」というとき、これは概念ではない。私たちが神さまを捉えるときに、多くあるうちの一つの宗教概念として捉えがちですが、実はこれは現実です。この歴史の中に神さまの愛が、私たちの目の前に、そして私たちの手に触れる形で現れたのです。それがクリスマスの出来事であり、ここに神の愛が現わされている。先ず神さまはご自分の愛して止まないひとり子を、先ほどの青年の例ではありませんけれども、本来ならば死ななければならない、滅びなければならない、裁かれねばならない私たちの罪をその身に背負われ、ひとり子をこの世に降し、十字架に架けてくださった、ここに神の愛が現わされているのです。

3・11の混乱が少しずつ平常に戻りつつある6月に、被災地でボランティア活動の最中にあられたミュージシャン岩淵まことさんを、この教会にお呼びしました。そして讃美歌『父の涙』を聴き、ともに歌いました。讃美歌集「ひむなる」にも載っております。皆さんで歌ってみましょう。

心に迫る父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎていく

十字架から溢れ流れる泉
それは父の涙
十字架から溢れ流れる泉
それはイエスの愛

父が静かに見つめていたのは
愛するひとり子の傷付いた姿
人の罪をその身に背負い
「父よ彼らを赦して欲しい」と

十字架から溢れ流れる泉
それは父の涙
十字架から溢れ流れる泉
それはイエスの愛

次に「愛の結果」というところに心を向けたいと思います。もう一度ヨハネ第一の手紙49節をお読みしましょう。

9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

「私たちに命を得させてくださった」。

私たちは来週、召天者記念礼拝を持ちますが、私たちは、地上でM姉妹にお別れをいたしましたけれども、神さまはこれほどの犠牲を払って私たちに永遠の命を与えてくださるのです。ですから一時的な離別は人間ですから寂しさはあります。悲しさもあります。ほんとうに溢れる涙がございます。しかしそこに何とも言えない心の平安を与えられております。きょう此処に、北上のお母様を亡くされ、遠くから駆け付けた兄弟姉妹方がいらしています。その御連絡で、突然の出来事であったと伺っておりますけれども、しかし、亡くなられたお母様は、頷いて信仰告白をされ、天国の希望を私たちに証ししてくださいました。

これはしばしば神学生時代に指導されたことなのですが、いま召されようとする方々の耳は最後までよく聞こえている場合が多い。だから、もうそのときには神学などは問題じゃない。誰でもイエスの御名を呼び求める者は救われる、イエスさまを信じるんですよ。それだけを耳元で語るだけで十分、こっくりと頷いていただけるだけで十分であると。その時、ひとり子を与えてくださるほどのお方の御手に委ねることができるのです。それが私たちクリスチャンたちの大きな恵みであります。

9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

お話しを締めくくりますが、愛というものは共感するものです。皆さんたとえば色々な趣味をお持ちでしょう。音楽の好きな方は、自分の好きな曲を聴いてますと、響きあうものがありますね。また絵の好きな方は、その絵画の前に立って、心に共鳴、共感するものを感じるでしょう。それが人間であり、人間の楽しいところです。人間の人間たるところです。

それでは、心の中のもっとも深い部分で共鳴、共感、感動するものはいったい何でしょう。それは、神さまの愛に共感する、神がひとり子をくださったほどに私を愛してくださったその愛に共鳴、共感したときに深い感動となる。これは大きな祝福です。これを知らないで人生を送るか、これを知って人生を送るかでは雲泥の差があります。神様の愛、私は神からこんなにも愛されているのだと知る喜び。「わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのもの」。聖書にこう書いてあります。その御聖言が、心に強く共鳴するのです。共感するのです。こんな私のために。ありがとうございます。この喜びは喜びの中の喜び、そう思います。

そしてただ共鳴するだけではない。それに呼応するもの、それが初めて私と神さまのあいだに生きた関係として、神が愛し、そのことが分かったときにありがとうございます、といって私たちもその神の愛を受け止めるときに、深い交わりがあります。愛はそれに呼応するものです。ある方は、聖書にそう書いてあったって僕には関係ない。あなたにはそうでも僕には関係ないと言うかも知れない。しかし、ひとたび神の愛が分かれば呼応せざるを得ない。ああそうなのだ、ありがとうございますとそれに呼応せざるを得なくなるのがクリスチャンです。神の愛に対する私たちの応答です。それを信仰という言葉で言い表すなら、神さまの愛を受け止めて、主よありがとうございますと感謝し、このお方に依り頼む。これからの永遠のすべて、あなたを信じ、あなたに依り頼んで進んでまいります。

どうですか。これは変なことでしょうか。当然のことです。ですから、十字架の愛、キリストの愛、神の愛がわかったとき、信仰者はこういった思いが極めて自然に思いの発露として出てくるものであることを、私たちはみな経験しているものでございます。

ここに愛がある。

どうぞ、この神様の愛をしっかりと私たちの心の中に受けとめて、信じ進んで行きたいと思います。

 

※編集上、割愛したところがございます。文責:中ぶんな

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