グラツィア~絆コンサート~第5回ミュージックフェスティバルー2011年12月18日(日)15:00開演 陸中ビル3階 大会議室
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梅村真美先生が、CDを出しておられること、検索してみて知りました。
東日本大震災を通った宮古市で、8月に『音楽の夕べ』があったときに、お弟子さんを連れて応援に来られ、『音楽の夕べ』の司会をなさいました。
CD「川の流れのように」 梅村真美 1st ー梅村真美 & 榎本裕之ー
千曲川/愛燦々/花/大きな古時計/波浮の港/かえり舟/抱擁/おまえと二人/恋の街札幌/夜霧よ今夜もありがとう/百万本のバラ/川の流れのように
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日曜日にはキリスト教会で語られる説教をお伝えしております。
教会の暦で申しますと、きょう11月27日はイエスさまの御降誕を待ち望む弟一アドベントですが、このブログでは、説教の当日から1週間のお時間を頂戴して書かせていただいております。
きょうは2011年11月20日にインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師によって語られたメッセージをお届けします。20日のこの日は世界宣教強調聖日となっており、インマヌエル綜合伝道団制作のDVDで、この教団から派遣されている宣教師と宣教地のようすを30分間視聴しました。その後に残された時間でメッセージが取りつがれました。
インマヌエル綜合伝道団からは、ボリビア、ケニア、ザンビア、フィリピン、カンボジア、台湾、香港に宣教師が派遣されています。そして在日ディアスポラ宣教としての宣教師の働きがあります。
説教題 『イエスの御手に預けよう』―世界宣教強調聖日―
【聖書箇所】マタイによる福音書14章13~21節(太字は聖書からの引証です)
13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群集がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
14 イエスは舟から上がると、多くの群集を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。
15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群集を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
19 そしてイエスは、群集に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群集に配った。
20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
【説教】
既にご案内の通り、きょうはインマヌエルのすべての諸教会で世界宣教強調聖日ということで、DVDを観ながら祈る時となっております。
短くきょうの御聖言(みことば)をお開きし、世界宣教のために私たちに何ができるのかを共に心に留めてみたいと思います。この聖書の箇所は、ご存じの通り、イエスさまの5000人の施食で有名です。当時は女性は数えませんでしたから、実際には1万人を超える人たちが、イエスさまのお話しを聴きに集まってきている。時がすでに食事どきとなっているのですが、この人々に食べるものが無い。お弟子さんたちは、イエスさまと自分たちの食事は心配したのですけれども、集まっている多くの人たちに食事を整えるというところまでは大凡考えつきませんでした。しかし、そのときにイエスさまは何と仰ったのか、これに心を向けたいと思うのです。
ここに、少年が5つのパンと2匹の魚を持って来ておりました。先ほどお読みしたのはマタイの福音書ですが、同じ場面がヨハネの福音書にも出ています。両方読むと、この場面を総合的に理解できます。イエスさまが、「それもここに持ってきなさい」と仰った。少年の持っていたおべんとうです。少年は、イエスさまにお預けすればお役に立つかもしれない、そのつもりでおべんとうを差しだしたわけです。
私たちは今日、ここに皆さまが1年のあいだコインを貯めた献金が入った缶に海外の宣教地の人々の写真が入ったシールを貼って、このように持ち寄り、講壇の横のテーブルに載せお捧げしております。小さな小さなコイン献金です。これが果たして世界宣教に役立つのでしょうか。
イエスさま仰います。「それをここに持ってきなさい」と。これはちょうど少年のおべんとうです。イエスさまは、それを私にもってきなさいと仰る。
また、10月には、この教会で、テヌウェック病院の支援ためのバザーをさせていただきました。53、575円の収益が与えられました。膨大な必要に対して、これがいったい何になるのかと思われるかもしれません。しかしイエスさまは仰います。「それをここに持ってきなさい」。
また私たちは毎月教会を通して国外宣教、国内宣教の為に、神学院の維持運営のために、そして去年からは厚生資金献金をしております。私たちは、4つの支援献金を、教会を窓口として本部の方に献金をしている。一つ一つは小さい働きかもしれません。しかしイエスさまは仰る。「それをここに持ってきなさい」。
それから、御聖言をお読みしてお気づきかと思いますが、これだけの奇蹟を行う力のあるイエスさまですから、考えようでは、一人一人の必要のために奇蹟を行うこともできたはずです。しかし、心したいのは、増えたパンや魚を弟子たちが人々に配ったということです。配ったのはお弟子さんでした。ここに私たちのなし得る奉仕というものを見ることができます。イエスさまは全能の奇跡的な御業を通して直ぐにでも、一人一人に宣教の業、救いの業を届けることがおできになるはずです。イエスさまそれをなし得るお方だということを私たちは信じています。しかし、イエスさま世界の人たちの救いのために、私たちを用いる。宣教師たちを用いるのです。或いは国内でいうのなら、私たち教会を用いてくださるのです。あなたたちが配りなさい、こう示しておられるのです。
きょうは世界宣教強調聖日ということで、私たちは宣教に心を向けております。ここで二つのことを覚えましょう。一つは少年がイエスさまのところに持っていったように、コイン献金をお捧げしたいと思います。また私たちの為した小さなバザーのような働きであっても、そのような働きを主のもとに持って行こうじゃありませんか。月々お捧げする支援献金、これもイエスさまのもとに持っていきたく思います。
イエスさまは、私たちが働くことを期待しておられます。
教会では、今年のクリスマスの案内のチラシを、できるなら12月の弟一の聖日に皆さま方にお配りできると思います。それを用いていただきたい。それを、あの人に、この人に、お届けするお仕事、それを主は私たちに期待をしておられることを覚えたいと思います。
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これは9月の婦人会のバスハイク、そうこの言葉はaostaさんがバス遠足をこう仰ったので、バスハイクとしたのだが、何かとても軽快で楽しい語感。それはともかく、この樹木、平井邸にあったもの。あとで樹木の図鑑で調べようと一応写真だけは撮り置いたのだが。
この他に調べようと思って撮り置いたものには黒い幼虫、先っぽにアンテナをのっけたような少々不気味なのだが、アンテナのような触角かなにかは調べてみないとわからないけれども、とにかくそんないもむしが課題として残ってしまっている。課題は他にも多々あるけれども。
この樹木、いまざっと図鑑を捲ってみた。どうもヒノキの園芸種でチャボヒバというもののようだ。やはり庭木や盆栽として最も人気があるらしい。
いま歌詞♪に出てくる樹木が浮かんだ。
樅の木。菩提樹。アカシア。ポプラ。桜。山茶花。モミジ。薔薇。コブシ。ニレ。カラタチ。また高知商業高校の校歌にはレバノン杉が歌われているという。まだまだあるだろうが、今はこれ以上は浮かばない。
12月に入ると樅の木の活躍どき。ところが最近は緑色も飽きられてしまったのか、銀色や青い“樅の木”も登場。緑は平和の色と思っているが、緑が平凡に見える昨今であるようだ。
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舅は宝くじが発売になると、必ず10枚買っていた。高齢になり自分で行くことが大変になったときには、私がその役目を仰せつかった。私が代わって買った宝くじが当たったことはない。しかし舅が買ったもので一度だけ10万円が当たったことがある。まとまった金額が当たったのはそれが最初で最後だったように思う。年末ジャンボが発売になった。舅は5月に他界。いま我家に宝くじを買うものはいない。
息子は中華料理系と思い、ずっと麻婆豆腐他4品の中華をローテーションでやってきた。ところが近頃になって、「鯖の味噌煮が食べたい」。いつも圧力鍋で作っていたが、「これはカンロ煮の味だね」。というわけでレシピを検索。するとこれぞ定番らしきレシピがあった。鯖を3枚におろし、しっかりと熱湯をかけて臭みを抜く。ここがコツ。酒、みりん、砂糖、醤油、しょうがを適量の水で煮立てて、そこに熱湯をかけた鯖を入れ、10分ほど煮つめてたれにとろみがついたところで出来上がり。この方法で作ったものがいちばん美味しい。息子がしだいに魚系に傾いていることを私は嬉しく思っている。この秋は秋刀魚もずいぶんと食べた。塩焼きにして大根おろしをたっぷりとのせる。2、3日おきに続けて出しても美味しそうに食べていた。こんな嗜好の変化で家計も救われている。
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文章がめっきりと減ったこのブログ。あれを書かなきゃ、こう書かなきゃ、そんなことを考えると書きあぐねる。と書きつつ、こういう言い方はあったかしら、間違ってはいないかと思い巡らすが、頭のほうも目に劣らずなにやら疲れ気味で、回転が停滞。
音楽じゃなくちゃ、宗教じゃなくちゃ、そう思わずに、きょう自分に与えられた一日を振り返ってみると、
先ずは朝食、お弁当づくり。メインは鶏肉に味付けをしておいたものをフライパンで焼く。青菜の芥子醤油和え。ニラのみじん切り入り卵焼き。洗濯は当たり前。外回りの落葉掃き。祭日だけれども、やっておかないと忘れる支払いのための入金のために銀行へ。出て行く一方のお財布の中身。コンビニのファックスで発送用のリンゴ注文。
ここまででかなりの疲労感に見舞われている。サッシの鍵をきちっと閉めていないので、風がふきこんでいるらしく、障子紙が音をたてているが、どうもファラソ♪と鳴っているようでもあり、ドソミ♪と鳴っているようでもある。たまに外に低音のシ♪をどこまでも曳いて車が駆け抜けていく。何かみな音になりそうな、そんな空気が満ちている気配。いま風が吹いたようだ。クラリネットの風に近いかも知れない。一旦クラリネットが登場してみると、こんどはなぜがピッコロが思い出され、ぴっぴき、ぴっぴき鳴り出す。そうこうするうちに雨が本降り。これはマラカスの雨じゃない。たしかこんな楽器があったはず。それはともかく、この雨、沿岸部を避けて降ってはくれないものか。
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トリオといえば、私などは、大正時代に東京から太田村に来ていた榊原トリオを思い出すのだが、きょうのトリオは間違いなく平成に現在進行形の音楽家の方々。近年トリオを聴いたのは初めてのことです。とても力のこもった聴き応えのあるコンサートに感謝。いま木管楽器に興味を持っていたので、大向佐保さんのクラリネットは興味深く聴きました。バルトークはこちら側の体力もないと、がっしと曲想といったものをつかみ取りかねる感じを持ちました。作曲者のパワフルな、或いは、逆に破壊的な一歩手前のアクティブで尖った感性の表現と私には思われたのですが、これが当たっているか外れているかは分かりません。何れそんなあたりから、もういちどバルトークを聴いてご覧なさいと挑戦状を受け取ったような気分でもあります。有難うございました。
Cl.大向佐保/Vn.片桐薫/Vc.石原博史/Pf.三神樹美
♯ブラームス:ピアノ三重奏曲弟2番 ハ長調Op.87 ♯バラキレフ:東洋風幻想曲「イスラメイ」 ♯サン=サーンス:クラリネットとピアノのためのソナタホ長調Op.167 ♯バルトーク:ヴァイオリンとクラリネットとピアノのためのコントラスツ
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※前ページからのつづきとなっております。
イエスさまから目を離してしまう理由は何か。それは、人を見てしまうからです。私たちは人を見てしまうとき、イエスさまから目を離してしまいます。たとえば、信仰を持とうとするとき、イエスさまを信じていない人から、「クリスチャンになるの?」「クリスチャンに?」と言われ、ためらってしまう事がある。自分の決断が人と違っていることで躊躇する。たしかに、多くの人々と同じ事をやっている方がよほど楽なのです。ヘブルの記者が言うのです。人はどんなときにだって言うときは言う。何をしたといっては人は言う。何をしなかったと言っては人は言う。世の中の人の評価、そんなことに、大切な自分の信仰の決断を左右されることほど残念なことはない。
人を見るときに、私たちはイエスさまから目を離すということがあり得る。或いは皆さん方もきっとそういうところをお通りになったかもしれません。そうなのです。
また同じ人を見てしまう場合でも、また違うケースがあります。何かというと、イエスさまの仲間がどうかを見てしまうことです。
ペテロは、イエスさまが、いつもヨハネを依怙贔屓しているように見えていた。自分はこれほど一生懸命仕えているのに、どうもイエスさまの目はいつもヨハネに注がれている。ペテロがイエスさまに、「主よこの人はどうですか」と質問をしているように、いつも他の弟子たちを気にしてしまう。そんなときにイエスさまは仰るのです。
「あなたは私に従いなさい」
そうなのです。私たちは人に目を向けやすい傾向性、弱さを持っています。今日憐れみのゆえに自分が斯くあらせていただいているのは、イエスさまから目を離さなかったから。きっと皆さま、アーメンと頷いてくださるでしょう。
そして、イエスさまから目を離してしまう状況がもう一つあります。それは自分を見るときです。自分自身の欠点、或いは足りなさ弱さ、これを知るときに落ち込んでしまう。そして、そこにばかり目が行って失望落胆し、いつのまにかイエスさまを見上げることができなくなってしまう。ヘブルの記者は私たちに「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と言っています。私たちはほんとうに自分自身の足りなさ、弱さを知り尽くしているでしょうか。思い切って申し上げますが、私たちが自分の足りなさを知る以上に、実は、神さまは私たちの足りなさをもっともっとよくご存じなのです。その上で私たちを愛して救いの中に導いてくださっているのです。そのお方に目をあげることが信仰です。ダビデもそうでした。偉大な王であるダビデにしても、弱さ足りなさ、欠点をたくさん持っていたのです。けれども神さまは、足りなさ、弱さ、失敗をも受けとめて、信仰の器としてくださった。ですから、私たちは、そんな自分に落ち込んでいる暇など無いのです。イエスさまを見上げる。イエスさまから目を離さない。これが信仰生活を全うする大きな秘訣であるとこう総括して間違いでしょうか。
ヘブル人への手紙を書いた記者が、ストレスの多い、困難の多い、厳しい社会の中にあって、苦しく辛く、もう信仰なんか分からなくなった、やめたいという人たちに、さあ、アブラハムを見てごらん、ノアを見てごらん、ダビデを見てごらん。みんな彼らは、信仰を持って進んでいった殉教者なのです。私たちはこのような殉教者に雲のように取り巻かれ見守られながら、今大切な競技をしている。遊び半分の競技じゃない。命がけの競技をしているのです。失敗などではない。ですからイエスさまから目を離さないで、イエスさまにしっかりと目を留めて走り続けさせていただきたいのです。
ヘブル12章2節の「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」を別の聖書の日本語訳を見ますと、「信仰の導き手、またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし」とあります。信仰の導き手。またこれを全うする者なる完成者。色々な訳を比べてみました。「創始者」の意味を探していたとき、その一つに、「列のいちばん先頭」という訳があったのです。急に、イエスさまがレジに並んでおられるような気がしました。そうだ、このお方の後ろに並んでいればいいのだ。先ほど申し上げたヘブル11章に出てくる信仰の偉人たちが並び、私たちも並んでいる。列の先頭はイエスさま。そう、このお方のように並べばいい。そして「完成者であるイエス」というおことばからして、この列の最後尾にもイエスさまがいてくださる。そう想像して間違いではないことばが使われています。イエスさまが父なる神さまにお持ちだった信仰の在り方、それに倣いましょう。他の人たちもそのように倣って歩みました。私もそれに倣いましょう。
そしてもう一つ。こんどは例話です。
NHKで昨年から「世界の名峰グレートサミッツへの招待」をシリーズで放送しておりますが、「アイガー」を録画しておき、やっと昨日観ることができました。
ヘルメットにカメラを着けたNHKの女性ディレクター、彼女も登山家なのですが、アイガーに日本人で初めて登ったのが槇有恒という人だったといったエピソードも加え実況を伝えながら、ガイドの助けを得て登っていくのですが、ついに最後の尾根道を登っていかなければならない。そのときに思わず発した「ああ、怖い」という声も入っていましたが、ほんとうに剣のような狭い最後の尾根道に風がびゅーびゅー吹いているところを行かなければならない。そのときに万一雪庇を踏み抜こうものなら転落死しかねません。ガイドはプロですから、そこを慎重に慎重に歩いていく。女性ディレクターは雪庇を踏み抜かないようにガイドの足跡をそのまま踏んで漸くアイガーの登頂に成功。「よくやったー」と抱き合って喜んでいました。思わずこちらも拍手したくなる場面でありました。私はそれを見ましたときに、「我は道なり」と仰るお方、その道に私たちは歩んでいることを思いました。登山ガイドではありませんけれども、イエスさまが、ちゃんと足跡をつけていてくださる。「この足跡の通りについていけば大丈夫だよ」。そして無事に、アイガーの頂上ではありませんけれども、その御国に入ったときに、イエスさまが、「よくやった、よく頑張ったね」といって抱き留めて下さる、そのテレビ画面を観ながら、私はこのように思い、、じんとくるものを感じました。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」
どうぞイエスさまだけを見上げて足跡をともに踏み、天国に行って、あなたのためにと備えてくださったお方と思いっきり抱擁して主の救いをほめたたえる歩みをさせていただきたい。心からそう願うことであります。
※例話の内容を若干割愛してございます。誤字、脱字、誤記お気づきの際はご指摘ください。文責:中ぶんな
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日曜日には、キリスト教会の礼拝の説教をお伝えしています。
きょうは、2011年11月13日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教です。
説教題 『イエスから目を離さないで』
聖書箇所 ヘブル12章1~2節
教会のこれからの予定を申し上げますと、この次の日曜日(11月20日)は世界宣教の講壇です。インマヌエル綜合伝道団世界宣教局制作のDVDを視聴し、全国のインマヌエルの教会が世界宣教について心を一つにして祈る聖日です。毎年このためにコイン献金を実施しておりますが、ご協力頂ければと願っております。
そして、その次の日曜日(11月27日)は、教会の暦で言いますと、弟一アドベントです。イエスさまが天から降りてくださるのを待つという意味で待降節、またはアドベントと呼んでおります。いよいよクリスマスに向かってのギヤチェンジということで、これからの日曜日を改めて確認をいたしました。
この時期には、各メディアが今年を締め括る特集を組みます。まして私たち主を信じる者たちが、この年を受け止め総括し、来るべき年に備えることは、とても大切であろうと思うことです。
個人的ではありますが、3・11で、教会の屋根裏の書籍、書類が見るも無惨に散乱し、何とか片付けておりました9月頃のことですが、私に取っては記念すべきチラシを発見しました。勿論スクラップに取ってあるのは分かっていたのですが、それを改めて見たわけです。それは、自分が初めて教会に行くきっかけとなったチラシです。そして同じスクラップの中には、牧師となる導きを決定づけた一つのお手紙もありました。原点に立ち帰る大切なときでありました。43年前の11月16日に私は信仰を決断しております。その数日前から集会に出席していたことを思いながらそのチラシを見ると11月13日、ちょうど今日の日にちがその連続の集会の中にあったこと。改めて11月の聖日を迎えるときに、個人としても、この1年を振り返りながら、何か深く思うところがございました。そして、このような者があの1968年の11月16日、昭和43年11月16日にイエスさまを信じ、献身し、今日に至るまでの歩みを振り返るとき、一体どのような言葉でこれを総括できるのかと思いましたときに、やはり私はヘブル人への手紙12章2節が浮かびました、
2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
きょうの説教題『イエスから目を離さないで』。いまこのような者が講壇に立っておりますのは、色々なところを通りましたけれども、イエスから目を離さなかった、このことにあると思っております。
ヘブルの手紙を誰が書いたかには諸説あり特定されておりません。パウロが書いたという説もあります。しかし、誰が書いたにせよ肝要なのはその意味です。
当時ユダヤの人たちは一般的にユダヤ教を信じていました。旧約聖書の厳しい律法、戒律の中にありました。そのような宗教的土壌のなかにあって、イエス・キリストの十字架による贖いを信じた多くの人々があった。このようなクルスチャン信仰を持ったものの、彼らの置かれている社会はユダヤ教社会であるために、多くの試練、困難と直面しました。せっかく信仰を持ったにも係わらず、多くの壁が立ちはだかるとき、私の信じている信仰はこれでいいのだろうか、あの選択は間違いだったのではないか、このようなジレンマに陥ってしまったヘブルの方々があったのでしょう。恐らく皆さん方も、この人たちと同じ思いになられた事があるのではないでしょうか。
このヘブルの手紙には、イエス・キリストへの信仰は間違いのないものであることが縷縷述べられています。ユダヤ教では、大祭司が動物の血を携えてその年々に神様の前に罪の贖いをする。しかし実はイエスさまこそが、この大祭司にまさる大祭司、あのゴルゴダでご自分を生贄として血潮を流し、私たちの罪を贖ってくださったまことの大祭司である。ですから、あなた方の持っている信仰をしっかりと保ち続けてください、こう言っているのです。ヘブル人への手紙11章1節からには、私たちはいまこのように辛いところを通っているけれども、ということを認めたうえで、
1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
そして、
2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
昔の人たちは皆、まだ見ない天国を、神の国をまち望み、それをかたく信じて、その信仰を全うして来た人たちであると、アベル、エノク、ノア、アブラハムと次つぎに偉大な信仰者の名前を出して、彼らは皆、あなたがたと同じ信仰を持って、まだ目に見ないものを信じて確信していた。モーセも、ダビデもそうだった。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者達も皆命を賭して信仰を全うしている。そして36節などを見ると、
36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖でつながれ、牢にいれられるめに会い、
37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、試みをうけた
けれども彼らは、皆その信仰を貫いている。全うした人たちではないか。あの人たちに約束されたものを、今あなた方も同じように信じているのです。そして、それらを承けて、きょうの聖書箇所であるヘブル12章1、2節
1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
となるわけです。ヘブルの記者は、このような信仰の歩みを「競争」だと言っています。この「競争」を、忍耐をもって走りつづけようじゃないか、こういっているのであります。
この「競争」の意味には、オリンピックの競技のようなもの、というものもありました。正にその通りなのですが、これは命がけの競技のことです。勝ち負けで終わるのではなく、もっと切実な意味を含んでいる。ヘブルの記者が11章において、私たちは、このように既に命を賭けて競技を見事に走り抜いた人たちにによって見守られている、これを証しする者、それが12章の1節の「証人」という言葉なのです。これは使徒の働きの中にある、「聖霊があなたがたに臨むときあなたがたは力を受けます。そして…地の果てにまでわたしの証人となります」という「証人」と同じ言葉が使われており、これには、「殉教者」という意味があります。つまり彼らはその命を賭けて殉教者として、「さあ頑張るんだよ」と励ましている。そしてヘブルの記者が2節、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」、と私たちの今の信仰を励まし、或いは調整してくださっている。このように受け取ることができるのでございます。
2節の「イエスから目を離さないでいなさい」。どうぞ私たちの信仰生涯を振り返って、わたしはイエスさまだけを見、目を離さないでいたかどうかを吟味したいものです。
ー次ページにつづくー
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きのうの朝、近所のT子さん、K子さんが、「今から散歩に行くから一緒に行きましょう」と玄関口に誘いに来てくださった。屋根を修理してくださる方々がいらしていた。主人がいてくれるからと出かけようとしたところに、この修理のために業者さんを見つけてくれた主人の従兄が現われ、やはりこれは主婦が抜け出す場合ではないと次回にまた誘ってくださいとお願いして家に留まったのだった。
3・11からきょうで8ヶ月と1週間過ぎた。きょうは快晴。すこし寒かったが、これは紅葉を見る最後のチャンスかと思い、これまた近所の方をお誘いして2時間の散歩、あとでこの方が測ったところによると、8000歩の散歩となったようだ。岩手公園はところどころに辛うじて紅葉が残っていた。
中央通り。
そして岩手県民会館近くの銀杏の樹。きれいな銀杏の葉っぱが路上に分厚い。
「滑るから気をつけて」彼女が言った。
真っ青な空。歩くにはほどよい空気の冷たさ。
じっくりとこの秋の黄葉を楽しむことができた。
この青空に心が癒されんことを祈った。
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きょう姉に電話をしてみた。500キロ遠方に住んでいる。
ペットの犬のはなしになった。吠える声が止まないので行ってみると、二羽のカラスが犬の間近に飛んで何か間隙を窺っているようだったという。それだけなら取り立てて言うこともないのだが、これも最近のこと、近所の方の子猫がカラスに襲われ、毛皮だけが残されて置き石に捨てられていたらしい。流石に正視できず、たまたま来ていた職人さんに始末をお願いしたという。また知人が赤ちゃんをベビーカーに乗せて歩いていると、4、5羽のカラスがまとわりつくように頭上に飛び交ったらしい。 近頃この地区でもゴミ集積所にタウンネットが設置され、カラスを完全にシャットアウトした。
エサ場を無くした都会のカラスたちが、次はどのような暴挙、それは人の側からいえばだが、どんな暴挙に出るだろうか。それを思うと一抹の気掛かりが消えない。
けがわ
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ふとPCの時刻に目を凝らすと22時22分。「2」が4つも並んでいた。そろそろ切り上げの時間だ。
唐突だが、いま心に話しかける声をきいた。それは「利口になる、必ず」ということばだ。これはどうも精進していまよりはまともになるだろうという意味では無さそう。普通に真面目にやったってたかが知れてる。だから“目覚めて”世の常に妥協するだろう、そういう意味に近い響きだった。これは幻聴ではない。
しかししかし轆轤さん、サタンさん、サタンにこんなに近しく呼びかけてはいけないのだろうが、私はね、もともと利口なんかじゃありゃしない。だからね、今更“利口になろう”なんて思わない。利口になろうと思ったことも無いではない。正直に言うとね。だけどなれなかった。もしそれをおバカさんというなら、私は一生真面目にお馬鹿さんをやろうかな。お墨付きのおバカさんにね。今更お利口さんになって、すこしばかりのものを手に入れたとしても、それは何だか悲しい感じ。おバカさんやってたほうが心が軽い。いまがいちばんいいのかな。喜怒哀楽もほどほどにある。つましくすれば3食が。昨年度の年末年始の大雪でそれが溶けて固まって二階の屋根からドカンと落ちて轟音がして、一階の屋根に窪みができて、資財や人手不足のために修理は遅れているけれど、それでもまだ雨漏りはしていない。眠っているあいだに顔に雨粒が落ちてくることも無いわけだ。こんなに有り難いことはない。
だいぶ眠くはあるけれど、こうして写真の一枚、いえ二枚を引っ張り出して、ブログだって書かせていただける。わたしはね、こんなおバカさんで十分。たまに誤字ですよ~、脱字ですよ~、これちょと違いませんか~などという善意のお声もききながら、ともかくもこうして、文字を連ねることもできるのです。
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毎週日曜日には、教会の礼拝の説教をお伝えしています。きょうは2011年11月6日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージです。
説教題 『信仰と希望の基礎』ー召天者記念礼拝
聖書箇所 ペテロの手紙第一1章13~25節
教会では11月の弟一聖日は主にある兄弟姉妹方とともに、先に天に帰られた方々を偲ぶときを持つことが恒例となっております。昨年までは、講壇の横の壁面に御遺影の額を掲げさせていただきましたが、今回からはプロジェクターを用い、パソコンからスクリーンに御遺影を映し出して、ご一緒に召天者の方々を偲びたいと願っております。(つづいて、15分間、御遺影と墓地、墓碑銘が映し出されました)
スクリーンの背景に流れました讃美歌は、インマヌエル讃美歌454番『なつかしくも浮かぶ思い』です。皆さんで歌いましょう。
1、なつかしくも うかぶおもい
あまつふるさとは ややにちかし
※ふるさと ふるさと
こいしきふるさと ややにちかし
2、父のかみの そなえたもう
住まいぞおおかる あまつやには
※
3、おいなやめる わが十字架の
かむりとなるべき 日ぞまたるる
※
4、あさ日またぬ つゆのいのちおもわぬ
あらしにいまもや散らん
※
短く召天者記念礼拝の御聖言の御用をさせていただきます。
きょう心に留めさせていただきたい御聖言は、ペテロの手紙第一の1章21節でございます。
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
ペテロの手紙には第一と弟二がありますが、それぞれに異なった意味、目的がございます。ペテロはおよそ紀元後60年過ぎ、ローマ皇帝ネロの時代の使徒です。実は彼は、このネロの暴虐により捕えられ殉教しております。言い伝えによりますと、主イエスさまと同じ十字架では申し訳ないと、自ら逆さ磔を望み殉教しております。
そのペテロが、殉教を目前としたとき、自分の持っている信仰を是非わかって継承してもらいたいと燃えるような思いをもって書いたのがペテロ弟一であり、ペテロの第二であります。弟一の主な対象は、幅広く一般の方々向けに、第二の方は、仲間内のクリスチャンたちに、終末に於ける教理を正しく理解して貰うために書かれたようです。
またペテロの手紙第一の1章3節には
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
ここに書かれておりますように、殉教を前にしたペテロが何としても伝えたかったのは、「どうか私が持っているような生ける希望をあなた方にも持ってもらいたい」というこの事でございました。また、ペテロの手紙第二の1章13、
13 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
ここに「地上の幕屋」という表現があります。これに続きまして14節、
14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っています。
これが婉曲に何を意味しているのか。このときのペテロでいうなら、「幕屋」は、自分の纏っている、魂の纏っている肉体、体のことです。地上にいるあいだの幕屋を脱ぎ去って天に帰るときが近づいている。私はそれを知っている。だから今あなた方にも、私の持っているような「生ける希望」を持ってもらいたい。これがペテロの手紙弟一、或いはペテロの手紙第二の非常に大切な鍵となることばです。この召天者記念礼拝で、ここにおられるお一人お一人に、ペテロが伝えたく願っている「生ける希望」を確信していただきたい。
ペテロの手紙弟一の1章21節にはこうございます。
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
そして、ペテロの手紙弟一の1章18節には、
18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
ここに、むなしい生き方から贖い出されたとあります。「むなしい」という言葉を、原典はギリシャ語で書かれていますが、これに即して調べますと、「空虚な」、或いは「つまらない」、或いは「役に立たない」といった意味です。以前はそのような生き方であったあなた方が、キリストによって贖い出された。傷もなく汚れのないキリストの貴い血によって私たちは贖い出されたのです。
私たちがもし沙漠で迷い、或いは大海原で漂流したとして、どちらに向かって一歩を踏み出すべきなのか、これを持っている人と持っていない人では、人生がまったく違うものになるでしょう。沙漠のようなところに、ぽつんと置かれてしまい、さあこれから目的地に行かねばならない、こっちかなと踏み出した瞬間に、もしかすれば遠ざかっているのかもしれない。待てよ、目的地は寧ろこっちかな。いや右の方かも知れない。いや左の方かもしれない。どちらに踏み出したらよいか分からない状態、それが「虚しい生き方」、「つまらない生き方」、「役に立たない生き方」です。
しかし私たちには、イエス・キリストというお方、「わたしが、道であり、真理であり、命なのです」と仰るこのお方がいらっしゃる。「わたしが道である」。私たちの行くべき目標に私たちを繋いでくれるのが道なんです。目的の所に私たちを導いてくださる、それを道というのです。それがなければ道ではありません。お弟子さんたちが、「主よ、私に父を(神さまを)示してください、そうすれば十分です」と言ったとき、イエスさまは、「私が道なんだ」、このように語ってくださいました。
そうです。それまで行く方向を知らずして虚しい生き方をしていたものがイエス・キリストというお方と出会ったとき、イエスさまは、「わたしはあなたを愛しているよ、さあ、あなたの歩むべき方向はここですよ、歩むべき道はここですよ」と示してくださった。私たちはイエス・キリストによって救われたのです。そして、「わたしが道であり真理であり、命である」とイエスさまが仰るこのことには、実は大切な恵みが秘められております。それは、イエスさまは私たちのために、私たちに永遠の命を与えてくださるために、身代わりとして死んで下さったのだということ。そして、「わたしを信じるのならば、あなた方も永遠の命を持つことができる」と主はお約束をしてくださった、そして、そのお約束がほんとうに確かなものであるというしるしに、主イエスさまは、よみがえって下さったのです。「わたしが生きているからあなたがたも生きるのです」。
ペテロの手紙第一の1章21節に、
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
そして次に、ペテロの手紙第二の1章13~16節を、すこし重複するかもしれませんが大切なところですのでお読みします。
13 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
14 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っています。
15 また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。
つまりペテロは、「私はもう近々この世を去っていくけれども、その後に残るあなた方に、どうか今私が言うことを思い起こして貰いたい、それが私の務めなのです」と言って、更にペテロの手紙第二の1章16節でペテロはいうのです。
6 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
これを、ペテロは念を押して言いたかった。
「私は近々世を去っていくけれども、この私の持っている生ける希望をあなた方に確実に伝えたい。私が語っているイエス・キリストの復活は、巧くできた荒唐無稽な作り話に従ったのではない。私はその目撃者なのです」とペテロはここで言っています。
ペテロをご存じの方は是非思い起こしていただきたい。彼はもともと臆病者でした。イエスさまが敵の手に渡されたとき、彼は心配してこっそりとイエスさまの後についていった。ところが、敵に「お前もあのイエスの仲間だろう」と言われたとき、「違う違う、誓っていうが俺はあんな男の仲間じゃない、神に呪われたっていい、俺はあんな男を知らない」と三度もイエスさまを否定してしまったのでした。イエスさまが十字架につけられた後も、いつ敵が自分たちを捕まえに来るかとびくびくしていた。弱虫だったのです。私たちと同じ弱さを持っていた。ところが、そのペテロが、ここでは堂々と、「あなた方が十字架につけたこの男を神はよみがえらせてくださった。私たちはその証人です」と命を賭けてその証しをしていった。ペテロは変えられていたのです。
いま私たちは、既に天に帰っておられる方々を、偲んでばかりいるときではございません。虚しい生き方から救い出され贖い出され、イエス・キリストという天に通じる道を歩まれ、今そのお方のもとに安らぎの中にある兄弟姉妹方のことを心に留めながら、願わくは私たちも、その歩みに倣わせていただきたい。天に向かうところの望みをしっかりと持って地上生涯を歩ませていただきたいと心から願っているところでございます。
※讃美歌の5、6番を省略。また編集上、割愛した部分がございます。誤字、脱字などはご指摘ください。文責:中ぶんな
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ほんとうに聴きたかったが、松見ヴァイオリン教室の発表会に行きかねた。来年を楽しみにするより他はない。
民謡を書くことはあまりなかった。岩手にも『南部牛追い歌』『外山節』といった私の好きな民謡がある。しかし、きょうは唐突だけれども、福島県民謡である『相馬盆歌』を歌いたくなった。
豊作を確信し喜び歌い踊る。現実がどのように厳しくても、人の願いである、喜びであるこの歌が廃れることはないと信じる。
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手元にチラシはないけれども、明日、松見ヴァイオリン教室の発表会がある。岩手県民会館中ホール。午後2時開演。近いことでもあるし、時間的に厳しくはあるけれども、30分でものぞきに行きたい。聴きたい子ども達が出るのがプログラムの最初の方で、先生方の演奏は最後の方。聴きたいのはこの両極。何としたものか。
近いうちに梅村保が所有していたヴァイオリンの修理の見積りをしていただこうかと思う。私の『きらきら星』用のヴァイオリンももう随分と鳴らしてはいない。調整が必要かと思う。
うかうかしているとこのまま眠ってしまいそうだ。夜9時、10時、遅くとも11時にはできるだけ休もうと決めていた。はや11時すぎた。きょうはここまで。
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きょうは終日飽きもせずにパッヘルベルの『カノン』を聴きながら作業をしていた。
いつかもこのブログに書いたが、故梅村功二先生のお葬儀のときの追悼演奏がこの曲であった。
パッヘルベルはバロック中期の重要な作曲家。優れたオルガニストでもあったらしい。この『カノン』は、彼が作曲した曲の中では最も有名、というよりはこの曲だけが有名。単純で明るい旋律。作業をしているこちら側をぐいと曲の中に引込むというのではない。自分の体の中にある静かな波長によく共鳴してくれる。曲にかしずかせるということもなく、感性から何らかのエッセンスをわき出させ、それを汲み上げてくれる。よくセレモニーなどで使われるのもそんな理由からだろうか。
いまこうして聴きながら連想されるものとすれば、
温められてまだ紅茶が注がれてはいないティーカップ。産着に包まれて安心しきって眠るにぎられた赤子の小さな手。おだやかな風を受け止めようとするかにさわさわと予感に鳴る樹上の葉叢。永遠に弛まず、永遠に途切れず、永遠に澄明に鳴る銀線。白いレースのカーテンに遠慮がちに落ちる春の日差し。鳴った気がして扉を開けるとそこにあるのはただ爽やかな雨上がりの大気。夜空に霊妙な距離を保ちながら、こぼれ落ちそうでこぼれず互いの存在をたしかめあうように静かにまたたきあう天空の星々。
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きょうは久しぶりに盛岡市立図書館に行った。11時頃だったと思う。岩手山がとてもすっきりと見えていたので、写真の一枚も撮ろうと高松の池に出た。シャッターを2度押したところで電池切れ。充電した電池をカバンの中に持ってはいたが、撮り続けるとまた際限もなくなり、被写体を追いかけてしまう。電池切れは丁度良い、ここで大人しく図書館に入ろうと踵を返した。
今日県立ではなく上田にある市立図書館にしたのは、都南図書館で借りた本をここで返すことができるからだ。ほんとうに親切だと思う。
11時に入って、そろそろ2時頃かと時計を見ると3時を過ぎていた。ちょっとした調べ物をしようとすればこんな具合だ。それでも久しぶりに静かで落ち着いた、これは自分なりにではあるが、充実した時間が持てたように思う。以前ならば隣に人が座ったりすると居にくい気分になったり、或いは分厚い書物などを捲っていたりすると一体何を調べているのだろうかと気になるなどしたものだが、いつの間にか誰が隣で何をしていようが気にならなくなっていた。
こんな過ごし方がこれから穏やかに暮していくにはよいと思われるが、しかしそう度々来てもいられない。
同窓会の先輩が県立図書館の隣のビルの一角を住まいとしている。図書館を手に入れたようなものだ。通るたびに羨望の目で見上げている。
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先頃亡くなられた姉妹を偲んで、教会の皆さまがそれぞれにこの姉妹との思い出を語られた。そのときに、この姉妹が「私の告別式には是非『わが魂を愛するイエスよ』を歌ってほしい」と國光ひろ子先生に仰っていたことを初めて知った。
この賛美歌はメソジスト運動の指導者であるチャールズ・ウェスレー(Charles Wesley, 1707年12月18日 - 1788年3月29日)によって作詞され、この詞を、4人の方々が作曲している。
インマヌエル讃美歌では60、61、62、63番として親しまれている。60番は、オルガンを弾けない私が真っ先に覚えた後にも先にもただ一つの曲である。それほどに何とかしてこの曲を弾きたかった。亡くなられた姉妹も、この曲にしばしば慰められ励まされて過ごされたのであろう。
♪わが魂を愛するイエスよ♪
我が魂を 愛するイェスよ
波は逆巻き 風吹き荒れて
沈むばかりの この身を守り
天(あめ)の港に 導き給え
我には外(ほか)の 隠れ家あらず
頼る方なき この魂を
委(ゆだ)ねまつれば 御慈(みいつく)しみの
翼の蔭(かげ)に 守らせ給え
我が身は全(また)く 汚れに染めど
君はまことと 恵みに満ちて
我の内外(うちと)を ことごと潔(きよ)め
疲れし霊(たま)を 慰め給わん
君は生命(いのち)の 源なれば
絶えず湧き出(い)で 心に溢(あふ)れ
我を潤し 渇きをとどめ
永久(とこしえ)までも 安きを給え
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日曜日には、教会の講壇で語られたメッセージをお届けしています。10月30日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教です。
説教題 『ここに愛がある』ー伝道礼拝ー
聖書箇所 ヨハネ弟一の手紙4章8~10節
きょうの週報で、大きな悲しみとともにM姉妹の写真をご覧になったと思います。教会とともに真実に歩んでこられ、91歳で地上生涯を終えられたM姉妹。きょうの役員会では、姉妹をどのような形で偲びお送り申し上げるべきかを諮りたいと思っております。また毎年11月の第一日曜日が召天者記念礼拝ですので、11月6日に、先頃納骨を終えましたT兄弟と新たにM姉妹の写真を加えまして、召天者記念礼拝を持ちたいと願っております。
先週(10月23日)は相原雄二先生が、「聖書の教える幸福」という題で、実に明快にお話しくださいました。きょうは特に伝道礼拝ですから、むずかしいお話しではなく、ああ、福音とはこういうものなのかと解っていただく一つの機会となればと思います。
きょうは、『ここに愛がある』という説教題で統一をいたしました。先ほどヨハネ弟一の手紙を読ませていただきました。先ず第一に、愛の定義、愛の意義について考えたいと思います。そして第二として、愛の現われについて見て行きたいと思います。愛とは何なのか。そして愛は私たちにどのように現れたのか。そしてその結果は何であるのか。
いつも教会に出席しておられる方々は、愛というのはアガペーに由来しているとお聞きになっているでしょう。世の中で言うところのもう一つの愛には、エロスもあります。何れも「愛」と訳されている。エロス、これは情欲的な愛も表しています、もう一つ、フィリアという愛、これは友情、友愛と訳されている。ヨハネの福音書21章で、イエスさまがシモン・ペテロに「あなたは、この人たち以上にわたしを愛しますか」と訊いておられます。ここで使われている「愛」はアガペーであり、エロスやフィリアではありません。
戦後、東京駅の丸の内側の正面広場に「愛」(アガペー)の像と呼ばれる銅像が建てられました。上半身裸で両手を天にさしのべている日本兵士の銅像です。その台座には漢字で「愛」と刻まれ、その下にギリシャ語で「へー・アガペー」と刻まれています。これについて資料をお読みいたします。
「そのモデルはカトリック信者。彼は無実の罪で死刑判決を受けた。日本にいた婚約者の必死の運動が実を結び、フィリピンのカトリック教会を動かし、司法当局も承認して彼は釈放されることになった」。戦争の悲しい捕虜の、所謂戦犯というような形の出来事でしょうか。「ところが彼は自分が死んでフィリピンの人々の日本への恨みを僅かでも消せるならばと釈放を拒んで処刑された」。
青年の選択した死、これを考えさせられたことです。
では次に「愛の現れ」についてですが、これもヨハネ弟一の手紙4章9節を見ますと、
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
「ひとり子を世に遣わし」というとき、これは概念ではない。私たちが神さまを捉えるときに、多くあるうちの一つの宗教概念として捉えがちですが、実はこれは現実です。この歴史の中に神さまの愛が、私たちの目の前に、そして私たちの手に触れる形で現れたのです。それがクリスマスの出来事であり、ここに神の愛が現わされている。先ず神さまはご自分の愛して止まないひとり子を、先ほどの青年の例ではありませんけれども、本来ならば死ななければならない、滅びなければならない、裁かれねばならない私たちの罪をその身に背負われ、ひとり子をこの世に降し、十字架に架けてくださった、ここに神の愛が現わされているのです。
3・11の混乱が少しずつ平常に戻りつつある6月に、被災地でボランティア活動の最中にあられたミュージシャン岩淵まことさんを、この教会にお呼びしました。そして讃美歌『父の涙』を聴き、ともに歌いました。讃美歌集「ひむなる」にも載っております。皆さんで歌ってみましょう。
心に迫る父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎていく
十字架から溢れ流れる泉
それは父の涙
十字架から溢れ流れる泉
それはイエスの愛
父が静かに見つめていたのは
愛するひとり子の傷付いた姿
人の罪をその身に背負い
「父よ彼らを赦して欲しい」と
十字架から溢れ流れる泉
それは父の涙
十字架から溢れ流れる泉
それはイエスの愛
次に「愛の結果」というところに心を向けたいと思います。もう一度ヨハネ第一の手紙4章9節をお読みしましょう。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
「私たちに命を得させてくださった」。
私たちは来週、召天者記念礼拝を持ちますが、私たちは、地上でM姉妹にお別れをいたしましたけれども、神さまはこれほどの犠牲を払って私たちに永遠の命を与えてくださるのです。ですから一時的な離別は人間ですから寂しさはあります。悲しさもあります。ほんとうに溢れる涙がございます。しかしそこに何とも言えない心の平安を与えられております。きょう此処に、北上のお母様を亡くされ、遠くから駆け付けた兄弟姉妹方がいらしています。その御連絡で、突然の出来事であったと伺っておりますけれども、しかし、亡くなられたお母様は、頷いて信仰告白をされ、天国の希望を私たちに証ししてくださいました。
これはしばしば神学生時代に指導されたことなのですが、いま召されようとする方々の耳は最後までよく聞こえている場合が多い。だから、もうそのときには神学などは問題じゃない。誰でもイエスの御名を呼び求める者は救われる、イエスさまを信じるんですよ。それだけを耳元で語るだけで十分、こっくりと頷いていただけるだけで十分であると。その時、ひとり子を与えてくださるほどのお方の御手に委ねることができるのです。それが私たちクリスチャンたちの大きな恵みであります。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
お話しを締めくくりますが、愛というものは共感するものです。皆さんたとえば色々な趣味をお持ちでしょう。音楽の好きな方は、自分の好きな曲を聴いてますと、響きあうものがありますね。また絵の好きな方は、その絵画の前に立って、心に共鳴、共感するものを感じるでしょう。それが人間であり、人間の楽しいところです。人間の人間たるところです。
それでは、心の中のもっとも深い部分で共鳴、共感、感動するものはいったい何でしょう。それは、神さまの愛に共感する、神がひとり子をくださったほどに私を愛してくださったその愛に共鳴、共感したときに深い感動となる。これは大きな祝福です。これを知らないで人生を送るか、これを知って人生を送るかでは雲泥の差があります。神様の愛、私は神からこんなにも愛されているのだと知る喜び。「わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのもの」。聖書にこう書いてあります。その御聖言が、心に強く共鳴するのです。共感するのです。こんな私のために。ありがとうございます。この喜びは喜びの中の喜び、そう思います。
そしてただ共鳴するだけではない。それに呼応するもの、それが初めて私と神さまのあいだに生きた関係として、神が愛し、そのことが分かったときにありがとうございます、といって私たちもその神の愛を受け止めるときに、深い交わりがあります。愛はそれに呼応するものです。ある方は、聖書にそう書いてあったって僕には関係ない。あなたにはそうでも僕には関係ないと言うかも知れない。しかし、ひとたび神の愛が分かれば呼応せざるを得ない。ああそうなのだ、ありがとうございますとそれに呼応せざるを得なくなるのがクリスチャンです。神の愛に対する私たちの応答です。それを信仰という言葉で言い表すなら、神さまの愛を受け止めて、主よありがとうございますと感謝し、このお方に依り頼む。これからの永遠のすべて、あなたを信じ、あなたに依り頼んで進んでまいります。
どうですか。これは変なことでしょうか。当然のことです。ですから、十字架の愛、キリストの愛、神の愛がわかったとき、信仰者はこういった思いが極めて自然に思いの発露として出てくるものであることを、私たちはみな経験しているものでございます。
ここに愛がある。
どうぞ、この神様の愛をしっかりと私たちの心の中に受けとめて、信じ進んで行きたいと思います。
※編集上、割愛したところがございます。文責:中ぶんな
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♪カルテット演奏♪
もりおか歴史文化会館
(旧県立図書館跡)
11/3(木) 14時~
♪チャリティー演奏会参加♪
キャラホール
30団体ほどのアマチュアの唄・踊・演奏・・・のチャリティー演奏があります。
こちらは10分程度の出演です。
このように小さな演奏会は随時行われておりますのでぜひどうぞ!
♪シンフォニエッタ・盛岡の弦トレーナーであり、現在オーケストラ・アンサンブル・金沢のバイオリニスト・原田智子さん(盛岡出身)率いるカルテットが11/6にマリオス大ホールに♪
<平泉シンポジウム>
平成23年11月6日(日) 午後2時~
盛岡市民文化会館(マリオス・大ホール)
入場無料・整理券もありません
第一部
映像と生演奏でめぐる世界遺産平泉(約35分)
弦楽四重奏:アンサンブル金沢のメンバー
第二部
パネルディスカッション(約40分)
音楽と共に平泉文化に触れるいい機会でありますので、お時間があったらいかがでしょうか?
(以上はシンフォニエッタ・盛岡さんから頂戴した案内を若干編集し掲載させていただいております)
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