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きょうのことばー『私の耳を開かれる主』

日曜日には、日々の暮しの中で心の支えとなる、或いは物事を考えるうえで、ちょっとしたヒントともなればと願い、キリスト教会で毎週日曜日に行われる礼拝の説教を書かせていただいております。

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では、201110月2日のインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光ひろ子牧師のメッセージです。

説教題『私の耳を開かれる主』

聖書箇所 詩篇40篇1~6(以下太文字は聖書からの引証です)

1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2
私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
4
幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5
わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6
あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

〈説教〉

きょうは主任牧師が十和田教会に行っておりますので、代って私が講壇に立たせていただいております。主牧の他出を、今回はいつもよりも差し迫ってから知りましたので、私が代理を務めることには戸惑いもございました。しかし、お祈りするうちに、神さまは私に一つの恵みを下さいましたので、それをお分かちしたく願っております。私は説教題を『私の耳を開いてください』としていたのですが、週報には、『私の耳を開かれる主』となっておりました。説教題として相応しいのは果たしてどちらでしょうか。  

題のことはさておき、「私の耳を開いてください」という御聖言(みことば)に相応しい聖書箇所を2つ与えられております。今日はどちらをと思い巡らしましたところ詩篇40篇にという示唆を受けました。詩篇408節は、今年、この教会に掲げられている御聖言でもあり、それだけにこの章は皆様により親しまれている筈です。

詩篇406節には「あなたは私の耳を開いてくださいました」とあります。「私の耳を開いてください」というお祈りの中でこの箇所を示され、神さまから一つの回答をいただいたように思いました。ならば、もう一つの御聖言は、と興味をお持ちの方があるかもしれません。それはイザヤ書5045節です。

4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、

というこの箇所です。最初はこちらの方をと思っておりましたが、解りにくいところですし、それほど親しまれている箇所でもないので、詩篇40篇の方に致しました。

なぜ「私の耳を開いてください」という御聖言が与えられたかを証しとともに語らせていただきます。

最近、『後ろから語られることば』というメッセージを聞く機会がありました。これはいったいどういう事なのだろうという思いの中に、先ほどお読みしたイザヤ書5045節が思い出されたわけです。そのメッセージでは、私たちは厳しい試練に直面し、そのまっただ中を通ることがある。目の前にある状況にばかり気を取られているようなときに、神さまは後ろから声をかけ導いてくださると語られました。神の世界は私たちには見えない、私たちの後ろにあるとそのメッセンジャーは仰いました。たしかに神の世界は私たちには見えない。それと同じように私たちには後ろのことは分からない。後ろに対して如何に無防備であることか。私たちは往々にして、目の前にある状況に左右され、困ったり混乱したり慌てたりする。どうして良いか分からなくなる。けれども、そんなときにこそ神さまのお声を後ろに聞くことができる。神さまは後ろから語りかけて下さるお方であるというメッセージでした。そして、その時にイザヤ書3021節の

21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く

この御聖言が開かれたのです。私はこの時、その後ろから聞こえることばを捉える者、それに気づく者、それを聞くことができる者にならせていただきたいと切に願ったことでした。またそのときに、神さまの導きというのは、時には後ろからではなく真っ正面から、もう誰にでも分かるようにどんどん導かれることがあることにも思い当たりました。エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を彷徨っているときには、いつも、昼は雲の柱が、そして夜は火の柱が彼らの前を進んだと出エジプト記13章に書かれております。イスラエルの民たちは旅にあるあいだ、いつも、雲が幕屋から上がったときに旅立った。雲が上がらないと上がるまで旅立たなかった。出発すべきときが一目瞭然だったわけです。そしてイスラエルの民たちは、それに忠実に従って進んでいきました。

私たちも、このように導かれたならどんなにいいでしょう。これは進めなのだ。これは留まれだな、これはこっちの道を行けということ。このように誰にでも分かったならどんなにいいだろうかと思いました。しかし、このように神さまがお導きになったのは、聖書でもこの部分にしかありません。また神さまは、イスラエルの民をいつまでもそのようにお導きになったわけではない。いつから雲の柱、火の柱が見えなくなったかは書いていませんが、イスラエルの民が旅を終えてカナンの地に入ったときには、もうありませんでした。その代わりに、預言者が立てられ、王様が立てられ指導がなされていきました。雲の柱、火の柱に導かれるような導かれ方に与りたいと思うのですが、いまの私たちにそれは当てはまらないと思っておりましたときに、イエスさまのあるたとえ話を思い起こしました。有名なヨハネ伝10章の羊のたとえ話です。

3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

ここには声での神さまの導きが書かれています。羊は羊飼の声を聞き分ける。羊は他の人が声を掛けてもついて行きません。でも自分の主人である羊飼の声がするときには、そちらの方向にその跡をついていく。自分の牧者にだけついていくのです。そして、その羊がその羊の羊飼について行くならば、その先は必ず命、祝福につながっている。羊は羊飼の声を知っており、いつも関心をもって、すこしでも声がしたら、そちらの方に首尾を向ける。耳を傍立てて聞く。羊飼の側でも、その羊をよく知っていて、その羊がいちばんいいように導く。イエスさまはそのように仰っている。そのイエスさまのお声を、羊のように聞き分けることができたならどんなに幸いでしょうか。またここで注意すべきことは、声が聞こえるといって神秘的になることは、私たちは警戒しなければなりません。

声を聞き分けるということで、私は、いま一人の聖書中の人物を思い起こしました。それはパウロです。パウロは近くからステパノの凄惨な殉教を目撃しながら、その後も狂気のようにクリスチャンを迫害しますが、ダマスコに行く途中でイエスさまの声を聞いたことが使徒の働きの中の二箇所に書かれています。

一つは使徒の働き917

1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。4 彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。5 彼が、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、お答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。6 立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。』7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

サウロとはパウロのことです。これは、パウロが初めてイエスさまの声を聞いたときの事です。しかし同行していた人たちには声は聞こえたが姿は見えなかったとあります。

もう一箇所は、同じ出来事でパウロ自身の言葉で書かれています。それは使徒の働きの22章6~9節。

6 ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。7 私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞きました。8 そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』と言われました。
9
私といっしょにいた者たちは、その光は見たのですが、私に語っている方の声は聞き分けられませんでした

一つめには、まわりの人たちには声は聞こえたが、見えなかったと書かれています。一方、22章には、一緒にいたものたちは光を見たが声は聞き分けられなかったと書いてあります。微妙に違っています。

この二箇所を読みながら、何れ声はみんなに聞こえている。ここで神さまの導き、御意を知るためには、聞き分けられるかどうかなのです。羊が羊飼の声を聞き分けたように。

ただの音声としか聞こえなかった人たちの中で、なぜパウロだけが聞き分けることが出来たのでしょう。それはたぶん、イエスさまがパウロにどうしても伝えたいことがあられたから耳を開いて下さったのだと思います。また、パウロはステパノの殉教のすがたにイエスさまのすがたを見たのではないかと私は思っています。そうでなければ、果たして、イエスさまの言葉を聞き分けることが出来たでしょうか。

パウロはイエスさまの声を聞き分けることが出来た。それはたぶん大きな声ではなかったと思います。先ほど、「21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」と読ませていただきました。このうしろから聞こえる声というのは、どんな声なのでしょうか。大きな声であるとは思えません。私も後ろから子どもに声をかけたことがあります。たとえば子どもがご挨拶するときに、腰を折ってお辞儀しなさい、もっと丁寧に言いなさいなどと言うときに、大声では言いません。本人にだけ聞こえるように少なくとも大きくはない声で言います。後ろから言うときには、たぶんそうだろうなと思うのです。静かな小さな声、それはその人にだけ聞こえればいいことで、他の人にはただの音声であって構わないわけです。そして、本人に後ろから言うというときには、どうしても伝えなければならない大事な内容なのではないかと思います。

最近よく主牧が、震災の後の片付けで見つかったものを皆さんに紹介しているようですけれども、ついでに私の物も見つけてくれました。それは神学院の時に書いたメモです。3年間、聞いたメッセージを、新約と旧約に分けて聖書の順番に並べておいたのでした。その中に、もしやこのメッセージに参考になることはないかと見てみました。詩篇の40篇に関してはありませんでした。しかし、イザヤ書50章の「朝毎にわたしを呼び覚まし私の耳を開かせて私が弟子のように聞くようにされる。神である主は私の耳を開かれた」というこの箇所のメモはありました。それには、開かれた耳を持つために必要なことが5つ書かれてありました。

1、 徹底した献身。

2、 常に絶えず聖書に学ぶ。聖書に聞く。聖書を黙想する。神は御聖言を通して語りなさるから。黙想は霊的生活を深める。

3、 聖霊を期待する事。聖霊を待ち望む事。聖霊を信頼する事。聖霊によって御聖言は与えられるから。御聖言によって神さまは語られるから。

4、 日常の出来事に無関心でいない事。現実的な出来事を通して神は語られることがあるから。

5、 人の意見に対して謙遜に聞き、人の意見を謙遜に聞かせていただく事。人の言葉を通して神は語られることがあるから。

これは神学生向けのメッセージではありますが、私たちは静かな心で歩まなければならない、物事に無関心でいたり、ぼんやりしていてはいけないのだと思いました。徹底した献身も、聖書を学ぶことも、聖霊を期待することも、また目の前に起こり来る出来事に対して無関心でいないことも、人の言葉を聞かせていただく謙遜なこころを持つことも、開かれた耳を持つためには大事なことなのだと改めて教えられました。そして更に、あるチャペルの一ときを思い出しました。神学校では、毎日、授業と授業の合間にチャペルといって先生方が次ぎつぎに立って、1520分程度のメッセージをしてくださるのですが、あるとき、宣教師だったか海外からのお客様だったか、その方の奥様がチャペルに立たれました。そしてイザヤ書504節を語られました。
4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる

お話しの内容は覚えていませんが、その時に蔦田二雄院長が、そのご婦人がイザヤ504節を語ったことに、「この不思議な御聖言を開いた」といって大いに感じ入っておられた姿を思い出すのです。

ほんとうに私たちは、耳を開かれなければ神さまのお声を聞くことができない。

先ほど、そんなときの神さまのお声は恐らく大きな声ではないと申しました。それは、エリヤがカルメル山でバールの神と戦ったあと、精神的にひどく落ち込んでしまって、洞穴の中に逃げ込み、もう私を殺してくださいと神さまに訴えたことがありました。そのときに神さまの声が聞こえた。嵐の中からも雷の中からも、風の中からも神さまの声はなく、しかし、そのあとに、静かな細い声があったと書かれています。ここから、大切なときにかけてくださる神さまのお声は細くて小さいのだという印象を持ったのでした。その細い声をよく聞き分ける者でありたい。チャペルに於いて蔦田先生が、「この不思議な御聖言を開いた」と言ってしきりに感心しておられたとき、私はまだ、先生がそれほどまでに感じ入ったのだからこれは大切なのだと気づくといった段階の者でありました。しかしこれからの日毎の私の祈りが、「神の御声、神の導きの声を聞くために私の耳を開いてください」という祈りであることを切に願い、また皆さんにもその恵みをともに味わっていただけたならほんとうに感謝だと思います。 

 語られた説教を文章に起こし編集してございます。

文責:中ぶんな

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