私を見ている眼ざし
塀の樹木の枝が繁っているあいだに、教会の十字架が見える。わたしが所属している教会ではない。しかしわたしは自分の家の玄関に立ち、ふと見上げたときにそこに十字架が立っていることにほっとする。しばらく眺めることもある。
いま中国では少なく見積もっても6000万人のクリスチャンがいるらしい。多くは1億とも言われているようだ。それはそれとして、たとえその人口が多かろうが少なかろうが、この十字架ほど不思議なものはない。
私はいつかは十字架からは離れるのではないかと思っていた。離れかけたこともある。しかしついに離れなかった。怒ったり恨んだり嘆いたりもしたが、とうとう離れなかった。これはわたしの意志が強いわけではない。欠点も多くある。失言、やり過ぎ、逆にやるべきことを実行しないでしまったこともある。有言不実行だ。知恵、力に富んでいるわけでもない。
他に先に書くべき事は多々あるのだが、なぜか写真をみているうちに、このように書いてしまった。
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