きょうのことばー『イエス・キリストのご生涯』ー伝道月間ー その2
※前ページからのつづきとなっております。
イエスさまは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けるためにガリラヤからヨルダンにお着きになりました。バプテスマのヨハネはそうさせまいとして、私こそあなたさまから洗礼を授けていただかねばならないものですと言ったのです。しかしイエスさまは、バプテスマのヨハネよ、あなたの使命を果たすためには、あなたは私に洗礼を授けねばならないし、私もあなたから洗礼を受けねばならないと仰った。これは、イエスさまのご生涯を私たちが理解するうえに、とても大切な鍵なのです。つまり、乙女マリアから罪のないお方としてこの地上に来られたイエスさまが、罪人が罪をきよめるために受ける洗礼を受ける意味、それはイエスさま御自身が公に罪あるものとしての立場をお取りになったということ、私たち罪人の身代わりとして立つべき大切なステップをこのときにお取りくださったということなのです。これはとても大切なことです。十字架の贖いに向かっての一歩を踏み出してくださった。イエスさまが、ヨハネから洗礼を受けられたときに天が開けたとマタイ3章16節にあります。これがどれほどに大きな意味があることかがわかります。天が開け神の御霊が鳩のようにくだって、ご自分の上に来られるのをご覧になった、また天からこう告げる声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
イエスさまがいま悪魔の業をこぼつための一歩を踏みだされたことを、悪魔は身震いするほどよくわかったのです。悪魔も引いてはおりません。このまま捨て置かじとばかりにイエスさまを荒野で誘惑しましたところが、マタイ伝弟4章になるわけです。悪魔は何とかこの十字架をイエスさまの目的から外そうとします。神の子なら、人々がいちばん願っているのは、富の平等、また貧困のない世界だろう、神の子なら今その力を発揮したらどうだ、石をパンに変えてご覧。みんながあなたを王としてくれる。人々が願うところは、巨大な支配者ローマからの解放だろう、奇蹟をみんなの前で見せてご覧。あなたはアブラハム以来の神に選ばれた民が斯く貶められているところからの見事な救い主、今のモーセとしてまさにローマのくびきから解放してくれるメシヤとしてあなたはいま立つべきなのだ。さあ、その力を使いたまえ。このように悪魔がもっとも恐れている十字架の使命からイエスさまを外そうと全力を尽くして誘惑をします。しかし、イエスさまは、御聖言には神を試すというようなことは書いていない、悪魔よ退けと撃退。しかし悪魔はそれでも手を替え品を替えてやってくる。これがイエスさまの誘惑という大きな出来事でありました。
それから後私たちは、十字架の出来事に至りますまで聖書に多くの奇蹟が書かれていることを見ます。死人のよみがえりは最たるものですし、ガリラヤの湖の嵐をしずめ、或いはその湖の上を歩きたもうところの奇蹟、それこそ5000人の施食などなど、そして何よりもマタイのところを見ますと、「幸いなるかな心のきよき人、その人は神を見る」というように、神の国の教えについて主はねんごろに、権威あるものとして語られました。つまり、それから十字架にいたるまでのあいだに奇蹟を行って、自らがまさに旧約聖書が預言しているところのメシアであることを人々の前に証しされたこと。それから人々に神の国について権威をもって語られた事、それからもう一つは後継者であるお弟子さんたちを選んで訓練されたということも、それから後のイエスさまのご生涯を見るとき、私たちは心に留めるべきことでありましょう。その奇蹟を取っても、教えを一つ取っても、弟子たちの訓練一つを取っても、それはみんな大きな意味のあるイエスさまのご生涯のできごとであるからこそ聖書の中に記されていることでございます。
イエスさまのご生涯をざっくりと捉えようとするときに、私たちが忘れてはならないこと、決して抜かしてはならないのはあの変貌山のできごとです。そしてその変貌山の大切な準備のように、ペテロの信仰告白がございます。つまりイエスさまは弟子たちを訓練しますが、ここでイエスさまは弟子の訓練としての一つの試験をします。何処まで分かっているのかな、この弟子たちは。人々は私のことを何というのか。バプテスマのヨハネが甦っただとか或いはエリヤだとか、色々言っているけれども、あなたはどういうのかと質したときに、ペテロが、「あなたはキリスト活ける神の子である」、このように告白しそしてイエスさまが、それを良しとし、そしてそれをしっかり弟子たちに捉えさせる。それから、お弟子さんたちをヘルモン山に連れて行き、そこでイエスさまは弟子たちの見ている前で姿がわりをされた。そのときに、モーセとエリヤが栄光の雲の中から現れてイエスさまと語り合った。モーセは律法を象徴する人物でありますし、エリヤというのは、旧約の預言者を代表する人物と見ることができるでしょう。つまり、モーセとエリヤが雲のうちに現れ、変貌のイエスさまをご覧になったとき、そしてこれからエルサレムで遂げようとする聖書のことについて語られたのです。つまり、旧約聖書はあげてイエスさまのご生涯の目的は十字架なのだということを意味している。弟子たちはそのとき残念ながら異常な眠気に襲われ、とんちんかんなことも言ったのですけれども、しかし、それはペテロにとっては生涯忘れることのない出来事として自分のお手紙の中に、わたしはそれを目の当たりにしたのだと書いています。それから後イエスさまは、御顔をエルサレムに向けてひたすらに十字架の道を進んでいかれました。その中に最後の晩餐があったり、ゲッセマネがあっらり、色々なことがありますけれども、ざっくりとイエスさまのご生涯を見るとき、まさにイエスさまの生涯は十字架に向かっての生涯であったということを私たちは決して忘れてはなりません。そしてその十字架の後、イエスさまはご自分がよみがえられたこと、しかもこれは、聖書が言っているとおりに三日後に主は決して罪の中に、死に征服されている方ではなく、むしろ死を征服し、「我生くれば汝等も生くべければなり」と、イエスさまはよみがえりの証しを私たちにはっきりと見せてくださった。決してこれは単なるお話しではない。まさにクリスマスとして人の世界に肉体をもっておいでくださったお方。肉体をもってよみがえってくださった。そして、イエスさまの十字架の贖いのほんとうの完成は、主は王の王、主の主として、もういちどこの世においでくださったときに、キリストにあって眠れる死人が先ずよみがえる。栄光のからだによみがえる。神の御子はこのように大きな恵みを、力を、救いを私たちにあらわしてくださるときに、私たちも信じている福音、救いというのは、そこまですべてのことが成し遂げられているのだ、これがイエスさまの福音、十字架なのだということを覚えていただきたいのです。
さきほど司会者にお読みいただいたのは使徒の働きの10章でございました。もうこれは締めくくりのときでございますが、ローマの百人隊長であるコルネリオというひとりの人物が主要な役割を果たします。彼は異邦人でありましたけれども、ユダヤの教えに深く感動し、彼なりの光の中に忠実に歩んでおりましたときに、夢の中に、「ペテロという人物を呼びなさい。そうすればあなたが聞かねばならないことを教えてくれるから」という導きを得ました。ペテロはペテロで、祈りの時にうとうとしておりました。ちょうどそのとき夢の中に、旧約聖書の中で食べると汚れるといわれている動物が出てきました。それまでペテロが口にしたことがないようなものです。神さまはそれを食べなさいと仰る。とんでもありません。神さまが禁じているものをとても食べることはできませんとペテロ。食べなさい、神がきよめた物をきよくないと言ってはならないと神さま。そんなことがあった。おかしい何の夢なのだろうと思っているときに、コルネリオの使いの者がやってきて、私の主人があなたさまのお話を是非聞くようにとわたしを遣わしましたという。ペテロは不審に思いながら出かけました。これが使徒の働きの10章1節からの概略ですが、ここで32節からをご覧ください。
「32 それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』
33 それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
34 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
35 どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
36 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
37 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
38 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
39 私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
40 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
41 しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。」
10月の伝道月間にことしも入りました。私たちは、このイエスさまのことを知っているものたちです。コルネリオのようにかつてはアブラハムの祝福に遠く離れていた輩でありましたけれども、総ての人に平等に与えられる福音の恵みを私たちは受け、このような救いの中に入れられております。いま私たちが成すべき事はなんでしょうか。それはまだこのお方を知らない方方にお伝えすることではないでしょうか。この前も、屋根裏部屋のことをお話ししました。一枚のチラシ、やはり私は捨てられない人間なのかもしれませんで、残っていました。ダビッド・マーチン先生のあのときのチラシです。ああこれによって私はキリストとの出会いをさせていただいた、このお方との出会いをさせていただいた、そう思いを新たにしたことです。どうかチラシが用いられますように、これがイエスさまとの出会いのきっかけとなりますように。
あの初代総理が、あの三本木にほんとうに夜行に乗り寒いところにというように書いてありましたが、何回も何回も行っているのです。それはいつにかかって、この福音をのべ伝える使命に押されてのことだったのです。
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