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平井邸訪問ー町内婦人部の方々とともにー

  9月26日この町内の女性部のバス遠足に参加し、紫波町日詰の平井邸を訪れる機会を得た。
 これは平井六右衛門の屋敷。ガイドを務められたのは、平井氏14代当主の従兄弟にあたる方でした。14代、15代が盛岡で「菊の司酒造(株)」を営んでいるため、普段は分家にあたるこの方が管理しているという。

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 もともと平井家は1615~20年頃に伊勢松阪(三重県)からやってきた。1662年頃から江戸末期まで南部藩のお蔵宿を仰せつかる。1772年頃に6代目が酒造りを始める。明治初め、10代目が長男を盛岡の油町に出し、平金が営んでいた酒造業を譲り受け、ここで酒造りを開始し大正末期まで続く。明治には鉱山、金山経営。明治38年頃北上川に平井橋という橋をかけ、大人一人1銭、子ども5厘といった通行料を得ていたが明治40年の大洪水で橋は流出。昭和の初めに「菊一輪世界の花の司かな」と俳句を詠んだ方があり、これから「菊の司」と命名し、菊の司酒造を鍛冶町(現紺屋町)で開始。昭和50年石鳥谷の七福神と合併し今に至る。
 平井六右衛門大正4年衆議院議員(政友会)となる。大正8年貴族院議員。2度目の出馬は原敬の説得で断念。原敬の来駕を仰ぎたく大正7~10年の3年がかりでいまの平井邸を建築。一階140坪、2階130坪合わせて270坪。その頃、横川目の綱取に銅山経営。その銅山から貨車2両で大木を切り出し建材とする。設計者は宮城の人物。大工棟梁は郡山日詰町の鈴木平治。
 大正10年8月14日、時の内閣総理大臣原敬を新宅祝いに招いたことは有名。列車で赤石駅に降り、来訪、夜は盛岡市長との会議のため自動車で帰る。それからことしで丁度90年にあたる。原はこの82日後に東京駅で暗殺される。
 前半はだいたいこういったお話しを伺いました。

 見学で特に興味を惹かれたのは、この屋敷に使われている建材、製材されるまえには、恐らく30メートル高さの樹木から切り出されている建材の見事さと、ピアノでした。

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ピアノの説明はあすにつづく。

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