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どこまでつづく、この道は…

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     どこまでつづくこの道は…

 唐突だが、遠藤周作がよくオナラの話しをしていたのを思い出す。デビ夫人にもオナラをしたことがあるかどうか質問したことがあったようだ。文藝春秋だったろうか、ある方が、遠藤は飲む席で猥談になったときなど、あからさまに否定するよりも、オナラのような話しで話題を転じるようにしていたのではないかといったことを書いていた。
 最近でこそ入ってはこなくなったが、卑猥な内容のコメントが立て続けに入ってきたことがある。間髪入れずに削除していた。最近友だちのブログにもそういったコメントが紛れ込んでいた。せっかく楽しくブログを書いているのに気の毒と思いメールで知らせた。ところが忙しいらしくまだ消えていない。そればかりではない。社会的に守られるべきであるよいブログにもそのようなコメントが投げ込まれていた。これはもうセクハラともいうべきもので、投げ込まれた本人が不快とする場合には、責任をもってどこかが調査に乗り出すぐらいの手だてはないものかと思う。あるのかもしれないが。
 害悪のあるものとしては、実は私も、「自殺」を検索してみたことがある。自殺の方法までが出てきたときには、ほんとうに身震いしてしまった。そのときの恐れ、それは自殺者の数を統計的に知ろうとするときにもたらされる感情とはまったく違っていた。独特な別な世界に吸い込まれ迷い込もうとしている、そんな感覚だった。一旦吸い込まれてしまうとおいそれとは這い上がれない、脳内が入れ代わる、滅びるぞという生存に関わるセキュリティー感覚が破壊されてしまう、そういう直感がある。
 ネット上にはこんな恐ろしいものが多くのクリック、訪問を待ってゴロゴロしている。
 ネットには図書館一つ個人で持ったかのすばらしい側面もあるが、ほんとうに恐ろしい側面もある。そういった害悪から個人を守るセキュリティも開発されてはいるのだろうが、ネットの怖さはそのままだ。爆弾の作り方をネットで調べ実行した例と枚挙にいとまがないだろう。
 遠藤のオナラの話しとかけ離れてしまったが、何れ、もはやオナラ程度で何らかを転換させる、転換できる古き良き時代は終わったのかもしれない。

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