きょうのことばー『信じて、いのちを得るため』ーヨハネ伝連講(116)ーその2
台風12号が記録的な豪雨をもたらし、19人の方々が亡くなられ、59人の方々が行方不明という悲しい事態となっております。お悔やみ申し上げますとともに、一刻もはやい救出がなされますようお祈り申し上げます。
このブログでは、日曜日には心の拠り所を見出すにすこしでもお役に立ちたく願い、キリスト教会の説教を載せております。
きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは
説教題『信じて、いのちを得るために』ーヨハネ伝連講(116)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:26~29(以下太字は聖書からの引用です)
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」
28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
きょうは先週に引き続き、よみがえりのイエスさまが、トマスに現れてくださったところを中心に取り扱ってみたく願っております。特に29節の「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」というこのおことばを心に留めたいものです。
このトマスという人物は、とてもまじめで、神の国のことについても分かったふりをすることなく納得のいくまで真剣にイエスさまに食いついていくような、そして愛すべきタイプの人物だと思って間違いはございません。このトマスが、イエスさまのよみがえりのときに、その場所にたまたま居合わせなかったことが、ヨハネ伝20章26~29節にあるような場面に至るきっかけでした。他のお弟子さんたちは、すでによみがえりのイエスさまにお会いし、喜びに沸き立っていた。ところがトマスにとっては、お弟子さんたちがこの喜びの事実を語れば語るほど、実はトマスの心境は複雑であったと想像されます。クリスチャンならば、仲間がイエスさまによって喜びを得、恵まれているなら素直にともに喜ぶはずでしょう。しかし、自分の霊的な状態が低迷し落ち込んでいたりした場合には、仲間たちの喜び、輝きは時として眩しすぎる。いよいよ自分の置かれている現状に心が屈折してしまう事があり得る。トマスも眩しい仲間たちを目の当たりにして、トマスらしい心の屈折を覚えたのでしょう。それがトマスの言った、わたしは自分の指で自分の手でさわってみなければ信じることができない、という受け答えに凝縮されている。彼は言い張ったのです。よみがえったなんて。いつも一緒にイエスさまに仕えてきた仲間たちが自分をからかったりするはずがないことは承知している。20章25節には、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言ったとありますが、この「言った」というのは「言っている」という意味ですから、何回も何回も繰り返して伝えたいことなのだとトマスはそのことも分かっているはずです。確かに本当だったろう。彼らがウソをいうはずがない。だけども僕は手を差し入れるまでは信じないぞ、と彼らしい屈折をみせている。それだけにイエスさまが現れるまでのこの1週間は、そう言い張ったトマス自身、非常な思い巡らしのときであったでしょう。申し訳ないな、つい言い過ぎてしまった、と反省し悔い改めたときであったかもしれません。
わたしは、このトマスのようすに、あのペテロがイエスさまを拒絶した場面と似ていることを教えられたような気がいたします。そのところにすこし触れてみましょう。
マタイ26章69節~ですが、ペテロは、ゲッセマネの園で捕縛され、大祭司のところに連れていかれたイエスさまのことが心配でたまらない。もしイエスさまを裏切ろうと思っていたなら、ペテロはこのようについてきたりはしないでしょう。すると火にあたっていた連中が「イエストいっしょにいましたね」と言った。ペテロはこれを打ち消す。するとまた「この人は、イエスといっしょでした」という。彼は「そんな人は知らない」。しばらくするとまた「確かにあなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言われてしまう。彼は「そんな人は知らない」といって呪いをかけて誓いはじめたのです。そしてそのときイエスさまがペテロを振り向いたとあります。この場面です。いかにもペテロらしい躓きだと思いませんか。すぐに行動せずにはいられない。そのペテロが躓くときには見事にばたーんと躓いてしまう。ペテロらしい。イエスさまが振り向かれたときに、ペテロは外に出て激しく泣きました。ペテロはそのときにもほんとうに悔い改めています。
さて、ヨハネ伝のほうに戻ります。トマスもいかにもトマスらしい躓き方だと思うのです。「そんなこと知らないね。触ってみるまでは」と言ったトマス。ペテロにしてもトマスにしても、イエスさまはようくご存じなのです。私たちの性格的な弱さ、傾向性、それらぜんぶを主イエスさまは、ようくご存じなのです。ですから26節から1週間の後にイエスさまはトマスに現れてくださり、そしてトマスに言われたのです。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」
私は、イエスさまが、ただ体の部分をさして、指をここに、腋腹に、と言っているのではない。これにはそれ以上の意味があると思うのです。これは実に十字架をさしている。贖いの十字架の御傷なのです。イエスさまは十字架の贖いの傷をお見せになった。だからこそトマスはここで「私の主。私の神。」という感動の告白をしている。あのとき主は手に釘打たれ脇腹を槍で刺されてしまったという事実以上の、実はメシヤが贖いの身代わりの小羊として屠られたお方であるとトマスはそのときにわかったのです。「私の主、私の神。」。これは、前回にもすこしふれましたが、旧約聖書におけるまことの神さまに対する信仰告白と同じ表現です。ただ「イエスさま」と呼びかけているのではない。旧約で預言しているメシヤはまさにこのお方であるという意味を知ったうえでの「私の主。私の神。」。ですから、いかにもトマスらしい。ヨハネ伝14章では、「あなたはわたしの行くところを知っていますか」「いいえわかりません」「トマスわからないのか」。そう、このやり取りでわかるように、トマスは真剣に考えていたのです。そのトマスが、「わかりました。あなたこそ私たちが待ち望んでいたほんとうのメシヤだったのですね」とわかったのです。だからこそトマスは、「我が主。我が神。」と、ある意味でいちばん進んだイエスさまに対する理解を、トマスらしい冷徹な頭脳をもって、そこに霊的な深い真理がこめられた在り方で告白したわけです。それを受けてイエスさまは仰る。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
イエスさまはより深い部分にメスを入れなさった。ここから、イエスさまが私たちに願っておられる信仰の有り様、それを私たちは今朝しっかりと捉えねばならないと思います。つまり、イエスさまが願っておられるのは、私を見たから信じるという信仰であってほしくない。見ないで信じるという信仰を、その有り様を、あなた方に持ってもらいたいということを、イエスさまはトマスに語っておられると同時に、同じく私たちに語っているわけであります。ここにイエスさま御自身が「見て信じる 」ということと「見ないで信じる」ということの違い、これには確かに違いがあるのですが。「見たから信じる」、これにもうすこしメスを入れてみますと、「見たから信じる」「見ないで信じる」、どこが違うと思いますか。「見たから信じる」ということは、判断する主体が自分の理性なのです。自分の理性で納得できたから信じるのです。つまり別の言い方をすると、自分の合理的な理性でこれを頷いたから頭でわかった、だから信じます、ということなのです。イエスさまはそれでは満足なさらなかった。
ここでニコデモを思い出します。これはニコデモに対するそれと同じことではないか。ニコデモは「神の国に入るにはどうしたらいいのでしょうか」と真剣に訊きます。イエスさまは、「人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」とお答えになりました。ニコデモは、「えー、もういちど母の胎に入って生まれることなんですか」。つまり、そのときのニコデモの信じるということの理解は、何とか自分の理性で、自分の判断で納得できるような受け方をしたい。つまりニコデモは、見て信じようとしていた。見て信じる。合理的な判断、そして裏付け。もういちど新しく生まれるとはそういうことですか?とニコデモは問い始めた。これが「見たから信じる」。ところがイエスさまは、「そうじゃない。あなた方はイスラエルの教師でありながら、こんなこともわからないのですか。聖霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」。ここでニコデモに語られたイエスさまのことばには、どうでしょうか、跳躍があるとは思いませんか。突然このような表現をしましたが、私はこの跳躍ということばがここに妥当だと思われます。これが29節のおことばを理解する鍵だと思うのです。イエスさまはあのとき、ニコデモに「跳躍してごらん。理性で理解してもう一度生まれるんじゃない。新しく生まれなければ神の国に入ることはできないんだ。跳躍なんだよ」。イエスさまはそう仰ったのではないでしょうか。
トマスに対してもそうでしょう。「あなたは私を見たから信じるのか。跳躍してごらん」。見ずして、ポーンと、ほんとうに信じる、この跳躍ということばが、新しく生まれるということだと思うんです。つまり、新しく生まれなければ福音はわからないということです。新しく生まれるというこの明らかに一つ超えているそれをしないと人は福音がわからない。ほんとうにイエスさまを信じることはできない。
ペテロの第一の手紙1章8節。ここにペテロは言っています。「8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
これが跳躍なのです。この部分に文法的に難しいことばなどが使われているわけではない。たぶん世の中の人たちには何のことかわからないでしょう。でも「8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とある。アーメン。これは、跳んでいるのです。跳躍しているのです。イエスさまはそれを願っている。「トマスよ、あなたは見たから信じるのか、見ないで信じてご覧。」
「これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからだ」。このことは繰り返すようですが、生まれ変わっていない人たちには分からない。新生する前のニコデモと同じです。
ヘブルの手紙11章1節。「1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」
「見ずして信ずるものは幸いである」というのはこのことです。私たちは誰もイエスさまを見ていない。だけれども愛している。信じて言いあらわすことのできない喜びに踊っている。それは、私たちはそれを確信しているからです。目に見えないものを確信している。跳んでいるのです。だから恐らく世の中の人たちはこれを見てつまずくのでしょう。
同じくヘブル11章27節27「 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」
同じくヘブル11章39、40節
「39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」
いにしえの人たちはみな目に見えないものを信じて、そして見えないものをあるがごときものとして進んでいった人たちです。みな跳躍した人たちなのです。
私はよく棒高跳びを例話にします。走っていって、棒をポイントに立て、棒がぎゅーっと思いきりしなったところで、ぽーんとバーを超えていく。いかにも魅力的なあのすがた。あれを私たちが信仰で跳ぶときのすがたに重ねて見てしまうのですが。ところが、今回の世界陸上で棒が折れてしまった方があった。ジャンプ失敗です。世の中のことでやはり、これは大丈夫と思っていたところが棒が折れてしまうことがある。世の中の提供している棒高跳びの棒にはそういったことがあり得る。
イエス・キリストが死んでよみがえってくださって、「わたしはほら、このように生きているよ」といって弟子たちに御自身を示してくださったお方、このお方が私たちに、信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」と仰る。おもいっきり天国に望みをかけて、この信仰のポールをしっかりと握りましょう。ぜったい折れることはない。だって神の御子がほんとうによみがえって御自身を示してくださった福音なのですから。どうかこれを思いっきり握って、これに自分の全存在をかけて跳躍しようではありませんか。この信仰によって、「信仰なくしては神に喜ばるること能わず」「神がいますことと、神を求めるものに報いたもうこととを必ず信ずるべければなり。」
ヘブル書の11章6節、そのようなものに於いて信仰をもう一度考えてみませんか。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
ヨハネの20章29節、これは世紀を超えていまわたしたち一人ひとりに主イエスさまが語られているおことばです。ご一緒にお読み致しましょう。
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
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