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2011年9月

人の心を揺さぶるもの

 花の写真もいいけれども、あまりに多く載せすぎて陳腐になっているかもしれません、絵画の一枚も載せたいところですが、日詰の平井六右衛門邸で撮った写真がありますのでそれを。

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 きょう病院の待ち時間で「ロビンソン・クルーソー」や「フランダースの犬」、「ガリバー旅行記」があったので読んでみました。「ロビンソン・クルー ソー」の面白さ。いま読んでも十分に面白い。やはり科学技術満載の数万トンの船や、比較的治安が保たれ、港湾設備が整っているいまには生まれ得ないスリル と冒険に満ちている。いま読んでむしろ面白くさえある。ガリバーも忘れていた部分を補足してみるとけっこう人間の身勝手さも書かれている。フランダースの 犬は、改めて生きているあいだにこんなおはなしが書けたならと思わせられた。ネロがほんとうに見たかったルーベンスの「キリストの降架」。
 いかに貧しくとも心きよく美しく純粋に、いまはこのようなことばを用い語っただけで騙りだとさえいわれるほどに世の中は変質してしまっているけれども、しかしわたしはもういちどいう。いかに貧しくとも心きよく美しく努力を惜しまなかったものを神は尊ばれる。そしてこのすがたによって神はご自分を示し人の心を揺さぶる。そう思われたことです。

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きょうの写真掲載は財力あるがゆえの造形美であって、「フランダースの犬」が与えてくれるものとはすこし趣が違いますが、花、花、花の写真に飽きていた場合には救いとなってくれるかもしれません。花、花、花よりも、もしかすれば数十人の方々の鼻、鼻、鼻の写真を載せた方が飽きなかったかもしれませんね。

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震度5強ー福島県沖ー

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 これは23日の新庄墓園。お彼岸というのにあわせたお墓参り。よく晴れ上がっているでしょう。息子よ、あなたも一緒に来られるとよかったのにね。

 9月もあと1日で終わり。はやいものです。サルスベリはまだ咲いています。アサガオも咲いています。そして今頃になってカンナが咲いているのですが、ちょっとだけ淋しげな赤です。サルビアが咲き始めました。きょう前庭の葡萄のまえにあるモミジを剪りました。樹木のあいだの花壇の日当たりをよくするためです。ことしは出てこないと思っていたミョウガが、小屋の裏にすこしだけ顔を覗かせていました。いつもなら梅雨のあたり。すこし変です。それと来ないと思っていたアシナガバチが、いきなり甘い葡萄を察知してぶんぶんと勢いづいてやってきました。残っていた葡萄がぼろぼろになってしまいました。これでいいのです。葡萄が荒らされても、葉のあいだからは日がさしこんでルルと明るいのです。

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 いつもならこのころにはマツの陰の下や日当たりにもキノコが生えていたりするのですよね。それがまだです。植物たちも何か奇妙な自然の変化に戸惑いながらも時にはきっかりと目を見開いてこうして咲いています。

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 もう9時半。すこし風が出てきたようです。
それと地震がありましたね。震度5強、これは福島県沖。地元の方々がどんな思いであったか。

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 無事であると思っています。正月休みには元気に帰ってきてください。
 

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弟34回水曜デッサン会展 絵画小品展 №10 2011/10/1(土)~15(土)画廊喫茶ママ(盛岡市)

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平井邸の周ピアノ

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ご覧の通り、このピアノにはS.CHEWと銘が記されています。周興華洋琴専製所、エス・チューピアノ工場製です。大正11年頃の製作と平井邸を案内くださった方から伺いました。
 周興華洋琴専製所は横浜の中華街で製作され周ピアノと呼ばれているもの。音は実際に聞いておりませんが、以下に「横浜中華街その8」を写させていただきました。

 「当時、ピアノは家が一軒建つほどの高価なものでしたが、周ピアノの評判は高く、音の良さと装飾の美しさに定評があり、売れ行きは好調でした。開店当時、横浜市内には10館前後の劇場がありオペラなどの公演もしばしば。ピアノの製造だけでなく、調律や修理などでも活躍したことでしょう。店は繁盛し、5年後には、堀ノ内(現・横浜市南区)に新工場を建設。若き実業家の事業は大成功をおさめます。ちなみに、同時代の国産ピアノとしては、静岡の日本楽器(現・ヤマハ/1900年~ピアノ製造)、横浜の西川ピアノ(1886~21年ピアノ製造)がありました。」

 平井邸には当時の蓄音器(日本ビクター)、SPレコード(テイチク)も展示してありました。

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下のレコードは長唄ですが、クラッシックの音盤などもあったようです。

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平井邸訪問ー町内婦人部の方々とともにー

  9月26日この町内の女性部のバス遠足に参加し、紫波町日詰の平井邸を訪れる機会を得た。
 これは平井六右衛門の屋敷。ガイドを務められたのは、平井氏14代当主の従兄弟にあたる方でした。14代、15代が盛岡で「菊の司酒造(株)」を営んでいるため、普段は分家にあたるこの方が管理しているという。

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 もともと平井家は1615~20年頃に伊勢松阪(三重県)からやってきた。1662年頃から江戸末期まで南部藩のお蔵宿を仰せつかる。1772年頃に6代目が酒造りを始める。明治初め、10代目が長男を盛岡の油町に出し、平金が営んでいた酒造業を譲り受け、ここで酒造りを開始し大正末期まで続く。明治には鉱山、金山経営。明治38年頃北上川に平井橋という橋をかけ、大人一人1銭、子ども5厘といった通行料を得ていたが明治40年の大洪水で橋は流出。昭和の初めに「菊一輪世界の花の司かな」と俳句を詠んだ方があり、これから「菊の司」と命名し、菊の司酒造を鍛冶町(現紺屋町)で開始。昭和50年石鳥谷の七福神と合併し今に至る。
 平井六右衛門大正4年衆議院議員(政友会)となる。大正8年貴族院議員。2度目の出馬は原敬の説得で断念。原敬の来駕を仰ぎたく大正7~10年の3年がかりでいまの平井邸を建築。一階140坪、2階130坪合わせて270坪。その頃、横川目の綱取に銅山経営。その銅山から貨車2両で大木を切り出し建材とする。設計者は宮城の人物。大工棟梁は郡山日詰町の鈴木平治。
 大正10年8月14日、時の内閣総理大臣原敬を新宅祝いに招いたことは有名。列車で赤石駅に降り、来訪、夜は盛岡市長との会議のため自動車で帰る。それからことしで丁度90年にあたる。原はこの82日後に東京駅で暗殺される。
 前半はだいたいこういったお話しを伺いました。

 見学で特に興味を惹かれたのは、この屋敷に使われている建材、製材されるまえには、恐らく30メートル高さの樹木から切り出されている建材の見事さと、ピアノでした。

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ピアノの説明はあすにつづく。

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きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』2ーヨハネ伝連講(119)ーその2

※前ページの國光勝美牧師の説教のつづきとなっております。 

さて、これから語らせていただきますことは、ある意味でこの聖書の講開というのではなく、私の体験であります。

3・11の大震災がありました。教会には屋根裏部屋があります。すこし屈むと立って歩ける。ここに外の物置には置きたくない、記念誌、週報などといった教会の出版物、印刷物を保管しています。ところがあの日の地震で、二階の牧師の書斎とともに、この屋根裏部屋に置いてあるものが、まるで大男がダンボールをお手玉にして投げあったかのような悲惨な状態になってしまいました。片付けなければと思うものの、なかなかそこまで手が回らない。夏の猛暑に中はサウナ状態。ちょっと顔を入れただけでもだらだらと汗が吹き流れます。そのようなこともあり、なかなか片付けができずにおりました。やっとだいぶ涼しくなり、子どもたちの結婚式も終わって、さて片付けるのは今かと意を決して書類の整理をしておりました。さまざまな印刷物のバックナンバーを整理していくうちに、スクラップブックが出てきました。そういえばだいぶ前にこれに色々整理していたが何だったかと捲ってみました。面白い資料が貼られていました。私が牧師として献身しようと決心した頃に勤めていた会社の給与明細書でした。

私は昭和4311月、大学4年のとき、お茶の水キリスト教会館で信仰に導かれました。ちょうど大学紛争でお茶の水あたりは市街戦のような有様でした。舗道の石は学生等によって剥ぎ取られそれを機動隊に投げる、放水はされる、近くにお茶の水の駅があるわけですが、線路に敷かれている石が投石される等々。私はそのようなときに信仰に導かれましたが、それから大学がバリケードで封鎖されてしまい、何時授業が再開となるか分からない。私のような地方出身者は東京にいても授業がないというわけで、仕方なく郷里の松本に帰ることにしました。そのときは11月に信仰を持ったばかりだったので、お茶の水の先生に相談しますと、郷里の方にある教会の住所、電話番号を教えてくださいました。

こんなときに信仰の危機というのがやってきました。11月ごろには恵まれて乾ききったスポンジが水を吸うように恵みの中にあったのですが、ひとり松本に帰ると、悪い意味でふっと冷静になるのです。私はほんとうに一時的な感情で信仰の決断をしたのではなかろうか。もしほんとうに生まれ変わってクリスチャンになっているなら、きっと私は、紹介された教会に行くだろう。しかし、ここはひとつ行かないでおこうと決断をしました。ほんとうに救われているなら自分は行くだろう。その思いが来るまで待てばよい。行かない、と決めました。クリスマスが来ました。クリスチャンであるという自覚はあるのですが、そういう思いがあったものですから、クリスマスにも教会には行きませんでした。

私の実家はごく一般的な日本の家庭でしたから、年の暮れに紅白歌合戦が終わると神社に初詣というパターンです。父が「行くぞ」といったとき、流石に私はそこには行くまいと思ったのです。「留守番してるから行ってきて。僕は行かない。このまえ東京でクリスチャンになったから」というと、父は「そうか、じゃ」と自分たちだけで出かけていきました。いよいよ元旦になって、クリスチャンの良心が疼くのです。これはいけない。わたしは紹介された教会に電話し、そして教会に行きました。それからストライキが解除される2月のはじめまで、ですから1月いっぱい。聖日でいうと、その松本の教会にはたぶん、45回ほど行くことになったのでした。そこで、奇蹟のこと。復活のこと。処女降誕のことを質問しました。いよいよ信仰を明確にするためでした。行くたびに佐藤先生に質問し、指導していただきました。松本の教会にはそういった懐かしい思い出があります。

スクラップを見ていたところ、その佐藤先生から葉書が来ていたのです。宛先は、私が当時勤めていたビクターの寮です。

「あなたが献身することを聞きとても嬉しく思っております。」そのあとに、「献身の道は困難な決して容易な事ではないと思いますが、それはまた栄光に富んだ道です。祈っています。」という文面。この葉書がスクラップされておりました。私はそれまで佐藤という名前をうっすらと覚えていたのです。その程度でした。早速インターネットで、その先生のフルネームを調べました。すると、牧師とあり、1970何年かに天に召されていました。その教会のホームページから、検索すると、55歳で召されています。ああそうだったのか。

スクラップの別のところを見ました。当時、会社で昼休みのとき、私は昼食を終えていつも倉庫で祈るのが習慣となっておりました。お祈りをしているときに、本当にあなたはここでいいのか、「港町ブルース」「長崎は今日も雨だった」、これはビクターで当時最も売れていたレコードでしたが、あなたはここで残業していてもいいのか、これは自分への問いかけのほんの一部ではありますが、生涯を考えたときに、本当にこれでいいのを自問し考えているうちに、これは献身するべきではないだろうかというところにたどり着いた日がちょうど木曜日でした。丸の内教会の祈祷会は木曜日です。会社が終わってすぐに教会の集会に出、その後、先生に、「私はこのまま今の会社にいてはいけないと思うけれども、ただよくあるように、会社に入ってさしたる辛抱、忍耐もせずに、ここが合わないから辞めるというようなそういう辞め方であってはならない。辛いからやめるというのではなく、ほんとうにここでいいのかどうか私は牧師職に召されているような気がするが、救われて日も浅い。神学院の入学規定にも満たない。果たしてそれでいいのでしょうか」と先生に相談すると、先生が、「わかりました。たぶん、あなたがきょう、ビクターの寮に帰ったらたぶん私が出した葉書が届いていると思います。その葉書に何を書いたか忘れてしまいましたが、大変大切な言葉を書いたような気がしますから、帰ってそれを読んでください。」、そう言われて帰宅しました。京浜東北の新子安駅のあたりにビクターの寮があるのですが、第一清和寮。葉書では横浜市神奈川区入江町1-4-。いま検索で入江町はでませんが、清和寮はでてきました。歴史的建造物だそうです。それは兎も角、葉書がスクラップブックから出てきた。消印は昭和4572日。1218に投函したという消印が押してあります。曜日を検索すると火曜日。丸の内の祈祷会に行ったのは74日木曜日でした。その葉書を見たところ、創世記の12章の12節が書かれていました。

1 はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
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そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

神さまが一歩一歩導いておられるかにおもわれます。お祈り申しております。

このことばだ。間違いない。これはわたしにとってちょうどペテロたちお弟子さんたちが、ガリラヤに行ってイエスさまにお会いするようなものです。恐らく私は3・11というあの大きなことがなく、屋根裏がそのままだったなら、たぶんそのままスクラップブックがどこにあるかも分からなかったでしょう。しかし、今回それを見たとき、そしてちょうどヨハネ伝の連講がヨハネ伝20章、21章というところにたどりつき、テベリヤの湖畔に、もう一度彼らがイエスさまに初めて召されたときのことを思い起こさせたように、イエスさまが、私に、どうだ、とお声をかけてくださるような気がしてならないのです。

スクラップブックを通して、私自身に神さまがいまなしていてくださるお取り扱い、それをお証しすることが、きょうのおことばのお取り次ぎになりかもしれない。イエスさまは岸辺に立っておられる。イエスさまはちゃんと見て居られる。そして、おことばをもって、あのとき、あなたの父の家を出て、私の示す地に行きなさいというおことばが与えられて、ああ、これはもう決まった。そこでもしあのとき私が踏み出さなかったら、私は恐らく献身はしていなかっただろうし、いや、それどころか、クリスチャンンの信仰からも離れてしまった生活をしただろうな。そう思いました。神さまのおことば、ですので、前回と同じ結論をきょうもう一度私はさせていただくかもしれません。どうぞ皆さん方を召してくださったお方、信仰の原点に一人ひとりもういちど帰ろうじゃありませんか。そして、ペテロたちが俄にはイエスさまだとは気づかなかった、しかしイエスさまは立っておられた。イエスさまはいまの私たちの信仰生活の日々の中に岸辺に立っておられる。要は私たちがそれを認めることができるかどうかなのです。私たちがそれを認めて、そしてあのお方は主だ、この217節に
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そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」

とある。このところは、3年前網張の東北聖会で、黒木先生と仰る方が講開してくださいましたが、この、主です、という告白はまさに信仰告白のことばとして受け取ることができる。どうか私たちがイエスさまを見まつることができなかったお弟子さんたちのようではなくして、獲物がありませんね。はい、ありません。舟の右側に網を下ろしてご覧。はい。と、そのようにそのお方の或いは聖書のおことばに素直に従って行ったとき、私たちは、主です。ああ、イエスさまだ、ということをはっきり見まつることができるはずです。そしてそのお方は、朝餉を備えていてくださるお方。一晩労したけれども、徒労に報いてくださる。人生が終わった、疲れている、そういう人に対しても、豊かな備えをもって迎えてくださるお方が主であるということ、これをこんどもういちど心に留めながら進んでいきたいと思います。

この小さき者が、あのガリラヤに帰ったお弟子さんたちのような経験をさせていただきましたことを多くの時間を割いて語らせていただきました。これが、みなさんがたにとっても、同じ扱いをしてくださるお方であることを信じ祈るものです。

文責:中ぶんな

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きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』2ーヨハネ伝連講(119)ーその1

 日曜日には心に一点の灯をと願い、キリスト教の説教を書かせていただいております。事情により2回に分けて月曜掲載となる場合もございます。きょうは事情により教会を欠席いたしましたが、録音をお願いし起こしてみました。

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 さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは、
説教題 『岸辺に立たれる復活の主』2ーヨハネ伝連講(119)
聖書箇所 ヨハネ伝21:1~14

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。


〈説教〉

盛岡も秋の気配が押し迫っております。けさは7度とニュースで聞きました。日中は22度になるとか。いよいよ短い秋を飛び越えて冬になるのではと思っております。くれぐれも健康に留意され、御守りの中にお過ごしいただきたいと願っております。

 前回、ヨハネの福音書即ちヨハネ伝21章に入りました。テベリヤの湖畔といわれるのはガリラヤの湖のことであり、此処がお弟子さんたちのホームグラウンドであったことを確認させていただきました。イエスさまが十字架にお架かりになり、天にお帰りになるという復活の後の舞台、大きな出来事の舞台は勿論エルサレムです。しかし、彼らの出身地であるガリラヤの湖もその舞台となっている。ヨハネ伝を書いたヨハネが何としても書き足したかった21章。この章に出てくるガリラヤ湖畔の出来事には特別な意味があったのです。なぜガリラヤがその特別な舞台となったのか。それは、よみがえられた主が、また御使いたちが、「イエスさまはあなた方より先にガリラヤに行って、そこであなたがたに会う」と予め告げていたからです。そこで彼らは、あの惨たらしい十字架、驚くべき復活のあった過ぎ越しの祭の後に、追っ手が来るのではないかと恐れながらも、トマスとイエスさまのやり取りなどによっても、状況を乗り越えて、彼らはガリラヤに旅だっただろうことは十分に頷くことができるのでございます。

イエスさまは、なぜガリラヤの湖でお弟子さんたちを扱われたのでしょう。彼らがガリラヤに帰ったのは、決して錦の旗を翻させるためではなかった。むしろ、彼らは挫折感、落胆の最中での帰省であったといえます。勿論彼らはよみがえりのイエスさまとお会いしてはいるわけですから、まったくは落ち込んでもいなかったかもしれない。だとしても、ペテロの場合には3度もイエスさまを否んでしまった負い目を持ちながらガリラヤへの道を辿っていたに違いありません。他のお弟子さんたちにしても、皆それぞれに心に深い痛み、挫折感を抱きながら、さりとて打ちのめされるのでもなく、ただ一途に「そこでわたしはあなたに会います」と仰ったそのことばに望みを託してガリラヤに帰っていったでしょう。そして、ヨハネ伝21章の3節、
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シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」

ただこれだけの3節のことばですが、私はこのところの意味の深さを推察しました。それはルカ伝5章、

イエスさまが「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」

と仰ったとおりにしてみると、一匹も捕れなかった彼らが、大いなる漁を得た。そしてそのときペテロたちは、イエスさまに従っていった初発があった。つまり、ペテロをはじめ、他のお弟子さんたちにとって、ガリラヤで漁をするということは、特にこのような背景をもって帰ってきた彼らは、ただ生業のために漁に出るという以上の期待をしていたのかもしれない。

ルカのあの5章つまり、はじめにイエスさまに従っていったあのときのことを思い出そうじゃないか。だって僕たちの原点はここにあったのだからという思いだったのではないか。弟子たちは、我らは漁にでよう、こういって舟に乗り込んだ。そして、それはまさにイエスさまが彼らを扱われるのに相応しい出来事でした。彼らはひと晩中漁をしました。少なくとも漁師であった彼らが、1匹も魚が獲れないなどということは考え難い。しかし、1匹も獲れなかったことは、イエスさまに最初に従っていき、深みに乗り出して初めて獲ることができたあのときを思い起こすには十分であった。つまり前回お話ししましたように、このガリラヤに行くということは、彼らにとってもう一度信仰の原点に立ち返るとき、仕切り直しをするときなのです。そしてイエスさまはそこで私たちを扱ってくださる。前回はそのところまでのお話しをいたしました。

             ―次ページにつづくー


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たからの箱

きょうはすばらしいものを観ました。
この写真だけではそのすばらしさが正確にお伝えできないことが残念ではありますが。
前蛹から茶色の蛹になるまでのようすを観ることができました。ほんとうに感動です。こんな小さな生き物がこんなすごい変化を遂げている。

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前蛹から脱皮したばかりの蛹です。翡翠に似た色です。

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左が前蛹。右が蛹になってすでにからだが茶色になった蛹。くっきり映っていないのが残念。

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真上から観た前蛹。

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真上から観た前蛹が脱皮したばかりの蛹。この見事な糸かけ。拡大して見てください。

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これも真上から。緑の蛹が時間の経過とともに茶色に変身。この写真ではこの蛹のもつ精悍な表情が見えません。それも残念ですが。箱が小さいのと大きく傾けることが憚られたために、無理できませんでした。やはり透明なガラスの飼育箱にすればよかったのかも。しかし当初の目的は、ただ蝶になってくれればというだけでした。まさかこんな変化がみられるとは!!


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これが、この単なるダンボールが、たからの箱となった理由。
どうです。左の前蛹、茶色の蛹、緑色の蛹が箱の内側のまったく同じ高さの位置に並んでいるのです。これは私にとっては奇蹟です。ある近所の方の飼育箱で数匹の蛹を見たことがありますが、、このように並んではおらず、あるものは蓋の上、あるものは側面とさまざまでした。こちらがよいという意味ではなく、このきれいに一列に並んだ虫のすがたに、まるで「ほら観てご覧。どうだい、すばらしいだろう」と神さまが仰っている、そんな気がしたのです。

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これは前蛹が脱皮したときに脱いだもの。

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これは飼育箱の底。糞もたくさんありますが。三つの大きな黄色の丸い染みが見えます。この染みのやや上にグレープフルーツの枝を挿したペットボトルを置き、3頭はこの枝のうえで育っていたわけです。そして、さあ、そろそろ蛹になるぞ、というときにべっとりとしたいつもと比べるとたくさんの水分の混じった糞をだす。染みが三つ、3頭のです。これを見て飼育する方もそろそろ蛹になる、もう葉っぱを貰いに走らなくてもよくなると胸をなで下ろしたわけです。

卵からこんなに成長過程を観たのは初めてです。つきについて個体別に細かな記録をつければ、もっと多くのことがわかるかもしれません。糞を計量してみようかななとも思いましたが…。丸い“顔”が、脱皮で二つの突起のような形を持った“顔”となる。知ってはいても実際に目で観ると、そしてもしこれをヒトの大きさにまで拡大して想像してみるなら、その奇想天外さは驚くばかりです。しかもこれがさらに蝶という形となって出現することになる。もしそれがどんな形になるのか全く予備知識を持たずに観たなら、その不思議さは如何ばかりであることか。

このような時代ですから、既に蝶の生育の全過程を追った画像もあるかと思います。ですからこれは、ほんの断片に過ぎません。しかし、小さな虫たちから驚きと感動を貰うには十分でした。

このたからの箱、すばらしい可能性を宿す虫たち、蝶になるために命を秘めて凝っとしている虫たちの箱をいったいどこに置いておくべきかを今から考える事とします。

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フォト日記

こんどの日曜日は地区行事のため教会を休むので、立ち寄る。

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渋滞を避け太田経由で帰ろうとしたところ、広々とした田圃に稲は熟れて。

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バックミラーが映し出す雲。きょうの空には天才があらわれているらしい。器用にさまざまな雲を創造してくれている。

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明治橋上から。
赤信号のうちに急いでシャッターを。
この下には茶色く濁った川が決壊のための綻びを血眼でさがしながら流れ下っていた。


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心のどこからか「おやめ」とのたもう声が。その声には逆らわずに、きょうはここまでに。いま必要なのは休息。


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廃墟を建て直し

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         彼らは昔の廃墟を建て直し、
           先の荒れ跡を復興し、
      廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。
            イザヤ 61:4

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生きている

       

     いのちあることのふしぎ
         たてつづく災害のなかで
         さまざまな事故があるなかで
         いろいろな病があるなかで
         いまこうして生きている
         なぜだろう

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私製の虫のおうちの中でも

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こんなにかわいいクロアゲハの幼虫が2頭。寒くなりました。グレープフルーツの枝に身を寄せ合っています。

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昨日、前蛹になった1頭。ちょっと写真がぼやけてるけど。話しかけるとほんのちょっぴり動いたり。だけどほとんどじっとしている。けれどもたしかに生きている。外はがたごと雨がふり、風もふゅんふゅんふいている。寒い、寒い夜だけど。

 たしかにたしかに生きている。

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この命もたいせつ

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 きょうの目標はただ一つ。休養。はやいめに休むこと。何がどう気になろうと、とにかくいまするべきことは休養。
 台風でまた多くの犠牲や被害が。この命もたいせつに生かしていこう。

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きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』ーヨハネ伝連講(118)ーその3

※前ページのつづきです。

グノーシスがいう麗しいその時代の思想界の「イエスさまが人のように見えたんだが、実は人ではなかった」というような人間の合理的な考え方に受け入れられるようなものに対して、ヨハネが、違う、それは違うと一歩も譲らなかった、私はその意味に於いて、この21章は理解されるべきと思うのです。

 「この後」ということばに意識を向けてみましょう。ついこのあいだまでは弟子たちは、エルサレムにいたわけです。ところが「この後」、このときには、ガリラヤの湖畔に弟子たち、いまおおざっぱに弟子たちと言いましたが、2節を見るとその内容がもうすこしわかってまいります。誰がいたかというと、シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、これは12使徒の中に出てくる人物です。それからゼベダイの子たちとありますが、さきほどルカのところにも出ていました。5章10節「
ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった」とありますから、ゼベダイの子たちというのはヤコブとヨハネ。このヨハネはヨハネ伝を書いたヨハネです。そしてほかの2人の弟子たちがいたとありますが、これが果たして12使徒たちの数名なのか、或いはもしそうだとすれば名前を書きこんだかも知れないと思うと他の弟子たち、弟子たちは決して12使徒とだけ限られてはいませんでしたから他の仲間の2人がいたというふうに、むしろそちらの方であるかもしれない。わかっているのは、とにかくペテロ、ヤコブ、ヨハネ、トマスが、ナタナエルがいました。そしてその他の2人。どこにいたかというと、ガリラヤにいたのです。なぜガリラヤにいたのか。過越の祭のときに十字架がある。そしてその日曜日に復活がある。ですからエルサレムに於ける大きな出来事が終わって、そしてそれまで主と仰いでいたお方が弟子たちの前からは消えていますから、彼らはガリラヤ、つまり生まれ故郷に帰っていくということは、これは極めて自然な成り行きであろうと思いますが、それと共に忘れたくないのはマタイ伝28章、イエスさまの復活のできごとです。女たちが、よみがえりの朝、イエスさまのお墓に行きましたときに、そこにイエスさまがおられずに御使いたちがいたとあります。女たちに何といったかといいますと28章「5 すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません…6ここにはおられません…7ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました』」と念を押して御使いは女たちから離れた。ですから女たちは、「お弟子さんたち、イエスさまがよみがえられて後ガリラヤでお会いすると仰っています」と、このように御使いからのかたい伝言を私たちは受けている。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです』
 ですからもうこのインフォメーションがよみがえりの朝からお弟子さんたちにありましたから、違うこのような形で自分たちの前からいなくなり、過越の祭が終わって、1週間たって、彼らは行くところといえばやはり自分たちの故郷、ホームグラウンド、ここに帰ってきた。

 なぜイエスさまがガリラヤでお弟子さんたちに会おうとされたのか、これはおもしろいテーマだと思うのです。なぜずっとエルサレムで御自身のことをなさろうとなさらなかったのか。それから後50日イエスさまは、40日目に昇天されてそしてオリーブ山から帰ってゆかれる、あれは明らかにエルサレムでです。ですからものの小一ヶ月のあいだにお弟子さんたちは一旦ガリラヤに行き、そしてイエスさまとお会いし、このようなあとまた彼らはエルサレムを離れずにお約束の聖霊がくだるまで待ちなさいという。お弟子さんたちは、イエスさまがガリラヤで自分たちに会うと知り、ガリラヤに行きましたが、しかし、またエルサレムで聖霊のバプテスマを受けるとイエスさまから知り、またお互いに帰っていく。それならばなぜわざわざガリラヤに、という感じがいたします。そこに私は大きな意味があるような気がしてなりません。それは、ガリラヤは、彼らがイエスさまにお会いし、自分の生涯をイエスさまにかけて従っていったその原点だったのです。そこでもういちどイエスさま御自身を現わしてくださった。しかもルカの15章を見ますと、一晩中労したけれども魚が捕れなかったと。そしてこのヨハネの21章を見てもひと晩中労したけれども一つも魚が獲れなかった。これ否が応でもお弟子さんんたちにとってみたならば、あのルカの5章、あの出来事をもう不可分、あのときのことを思い出さざるを得ない、そういうことであったと思うのです。私はこの中に非常なお取り扱いを感ずるのです。私たちがクリスチャン信仰を送っております中にこのお弟子さん達がそうであったように、またトマスがそうであったように、そして彼らが他の人たちの迫害を受けるなどしてとにかく絶望的な出来事に直面、落胆しているわけです。そのことにもイエスさまは、「ほら、あなたが初めてわたしに出会ったときのことを思い出してご覧」と一人ひとりに語っておられるような気がするのです。イエスさまは、そのようなお取り扱いをなさるんじゃないでしょうか。いま、もし不本意な状態、いまもし置かれている環境の中に苦しんでいる方々があったなら、イエスさまは、「ガリラヤに行ってご覧なさい、そこでわたしに会えますよ」と仰る。あなたが初めてイエスさまにお会いし、イエスさまに従っていこうとした、そのときのことを私たちに思い起こさせる、そこに帰るように扱ってくださる、つまり仕切り直しの時、弟子達にとってそれはまさに仕切り直しのときでした。彼らは故郷のガリラヤ湖に帰ってきたとき、決して彼らは凱旋の帰還ではありませんでした。彼らは、くどいようですけれども、彼らはこのお方こそメシヤであると思ってこのお方が王の王になられたのなら、私はその第一の弟子、弟二の弟子と誇らしく、故郷に錦をかざる以上の大きな夢をもって彼らはいたのですが、いまは彼らは失意であったのか落胆であったのか、そういう要素もないではない。だけれども、やはり彼らはよみがえりのイエスさまにお会いしているわけですから、ただ、希望のない絶望でもない。もう一度此処でもう一度此処で信仰の刷新を。ガリラヤにおいてもう一度信仰の刷新をしようという渇きが彼らの心に湧いてきたのではないか。そのときに、ペテロが私は漁に行く。これを生活のためと捉えていたのですが、しかし、わたしはペテロの言葉の中に、そこに於いて、あのルカの5章に於いて経験したようなあのお扱いをしていただきたい。あの時が僕たちの原点だった。だからもういちどガリラヤ湖に行って漁をしようという意味合いがあったのでは。彼らは出ていきました。そしてそのように、一匹も魚が獲れなかった。夜が明け初めたとき、イエスさまは岸辺に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだということに気づかなかった。つまり、これは、聖霊によって、ちょどあのエマオ途上のお弟子さんたちが、夕食の時に目が開かれ、イエス様が食事のお祈りをするときまでわからなかったように、やはり不思議ですが、聖霊によって目が開かれていない、目が閉じられているといいったらいいのか、そういう世界があるのだということは否定できません。弟子たちにはわからなかった。ただ不思議なお方が立っていてそして5節イエスは彼らに言われた。「子ども達よ、たべるものがありませんね」。そうしたらその不思議なお方は「舟の右側に網を下ろしなさい。そうすれば捕れます」と仰る。このあたりからあの直感力のある霊的にするどいヨハネは「主だ」。このあたりから複線はもうあるのだろうと思います。一匹も獲れなかった。うん、ルカのあの5章、あのできごとに似ているなと思っているに違いないのです。「子ども達食べる物がありませんね」。「ありますか?」ではなく、「ありませんね」。「はい。ありません」。このやり取り。わたしはこれを正直に自分自身が扱われたことをお話しします。自分自身をこの場面に投影してみたのです。イエスさまが食べ物がありませんねと語りかけています。時代は変わるんです。今はなかなかそういう時代じゃないんです。このように色々な言い訳があり得るのです。けれどもイエスさまはご存じなのです。
 イエスさまは、優しいことばを、「子ども達」、わたしたちの教会に、そしてお一人おひとり語りかけてくださる。そのとき、「はい。ありません」。ただ、もしプロの漁師のプライドがあったらこれほど辛いことはありませんね。
 「たべものがありますか」。ほんとうにこれを読みながら自分自身を、そして自らの働きを主の前に探られたのです。しかしイエスさまは、ちゃんと見ておられる。そして、プライドも投げ捨てて正直に主の前に出るとき主は仰ってくださる。「舟の右側に網をおろしなさい、そうすれば獲れます」。わたしは右側左側どっちでもいいのではないか、そんな思いがするのですが、けれども、左側に下ろしていたのが獲れなかった。右側におろしたときに夥しい、つまりこれはイエスさまが、海の中の魚さえガリラヤ湖のそのようなものをもぜんぶ御支配の中に置いておられる、それがルカのところでもそうでしょう。「深みに乗り出し網を下ろしてすなどりなさい」。イエスさまが仰るとおりにするときイエスさまが、これはあとの機会となりましたが、炭とパンをちゃんと備えていてくださる。そうです。私たちが疲れ弱り果てているようなとき、イエスさまは、「ありませんね」と訊くだけではなく、ちゃんと主が備えをしてくださり、また、その者の労を慰めいたわるように、おいしい朝ご飯を、朝餉を備えてくださる。わたしはこの次の礼拝では、「主はふるまいをみまえに備える」、この讃美歌を歌いたいと思っているのです。
 この讃美歌を歌いながら、ご一緒に、このイエスさまの素晴らしいお取り扱いを経験させていあだきたい、このように思うことです。イエスさまは今、岸辺に、私たちのことをよくご存じでご覧になって私たちのはたらきはどうですか。それに対して私たちはどう答えるか、どうしたらよいのか。この信仰の学課をここから見ることでございます。

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きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』ーヨハネ伝連講(118)ーその2

※前ページのつづきとなっております。

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 前ページのルカ伝5章11節に出てまいりますゲネサレ湖はテベリヤの湖、ガリラヤ湖と同じ湖のことです。キンネレテの湖と記されることもあります。
 きょうヨハネ伝とともにルカ伝をお開きしましたのは、この場所が弟子たちがはじめてイエスさまに従った初発の地であることがこの5章に書かれてあるからです。先ずこのことを心に留めておきましょう。ヨハネ伝と類似している場面、また違っている場面とあります。ヨハネ伝のほうではイエスさまは岸の方におられます。しかしルカ伝の方ではイエスさまがご一緒に舟に乗っておられる。共通事項では、一匹も捕れなかったのが、イエスさまのおことばとどおりにしたところ、網も裂けんばかりの大漁となる。これも心に留めておきましょう。

 それではヨハネの21章に、いつものおことばの学びへと入りたいと思います。

21章のこののちイエスはテベリヤの湖でもう一度ご自分を現わされた。もう一度復活の御自身を現わされた次第が書かれております。ヨハネ伝11:14節を見ますと「 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である」とあります。 この場合には特に男の弟子たちを念頭にあって、マグダラのマリヤとか他の女たちにまで現れたことを或いはエマオ途上の、他の福音書には何回かあるのですが、いまはヨハネの福音書をベースにしておりますので、これで3回目であるというように14節にまとめられているのを見ますと、そしてヨハネ伝21:1にもう一度ご自分をというようにありますと、やはり何時なのかと見ると聖書の欄外の1の②に「ヨハ20:19、26」とあります。ヨハネ20:19で、週の初めの日の夕方、これはトマスがいないときでしたが、恐れて室内にいた弟子たちにイエスさまが現れた。これがよみがえりのイエスさまが現れた一回目。同じく20:26では、八日後に、室内にいた弟子たち、このときはトマスもいっしょでしたが、イエスが来て彼らの中に立った。これが2回目。そしてヨハネ21章に現れたのが3度目であるとしています。

 わたしはこのように皆さまと確認しながら、「この後」というこの接続詞ですね。これは何の「この後」なのか。これは前回大切なこととしてお開きいたしましたが、トマスに現れてくださったエピソード、それが、そしてそれを承けてヨハネの福音書は本来20章の30、31節で締め括られてもすこしもふぃしぜんではない。この書に書かれていないけれどもイエスさまがなさった他の多くのしるし、どうしてわたしがこれを書いたのかというならば、イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるため。そしてあなた方がイエスの御名によっていのちを得るためであるとこのようにまとめて、この後も、もう一度このことを確かにするために、このことはどうしても書いておきたいということで、ヨハネが新たにページ数を加えた、つまり、この後というのは31節にあるように、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」わたしはこの21章のエピソードを加えたのですよ、とこういうように受け取るのが自然でしょう。

 マタイ、マルコ、ルカ伝は共観福音書といわれ、同じ視点からイエスさまのご生涯を書いています。しかしヨハネ伝はそれらとは異なった独自な視点から書かれている弟四福音書です。ヨハネが生涯を締め括るにあたって、どうしても書いておく必要を覚えた重要項目は、ヨハネ伝20:31にある「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」というこのことでした。敢てヨハネが書かねばならなかったほど、実は、イエスが神の御子であることを否定するような風潮、説が流布しはじめていた。ヨハネはそれに非常な危機感を抱き、ここでしっかりと楔を打っておかねばならないとヨハネの福音書を記し、尚、20章でヨハネ伝を締め括っていいところのものに21章を書き足している。これだけはどうしてもと記しておいたわけです。

 このヨハネは、福音書の他にヨハネ第一、第二、第三の手紙を書いています。これらは福音書を書いた時代背景と同じく、イエスさまが神の御子ではないとする見解が跋扈していた。それに対してヨハネは、いや、わたしはこの目で見、触った、即ち神のことばイエスさまであるということを力説したわけです。流布していた異なった教えとはグノーシス派のことです。「グノーシス」を聖書事典で調べました。グノーシス派の最盛期は紀元後130年頃。ルーツはギリシャ哲学。大きな特徴としては善悪二元論を唱える。イエスさまがほんとうに神であり、イエスさまは人であったとするなら、霊なるものは善であり、肉なるものは悪であるという考え方を持つと、そういう二元論というこれは誤った考え方ですけれども、そういった理解をしますと、イエスさまが、まことの肉体を持たれたと主張することは罪人とおなじ。つまり肉そのものは霊に対して肉、霊が善であれば肉は悪という考え方となり、どうしてもイエスさまが悪というような立場にならざるを得ない、それはならないというわけで、実は肉のように見えただけであってというような理解をせざるを得なくなってくる。そのように見えるとする仮現論或いはドケティズムと表現することがありますが、そのように見えたのだといったような色々な考え方がヨハネの時代、紀元後130年頃に全盛期を迎えていた。ヨハネは、紀元後100年頃にこのヨハネの福音書を書いているわけで、非常な危機感をもって、グノーシスに楔を打ち込んだのです。強い使命感をもって、20章の30、31節を書き記したでしょう。

 イエスが神の御子ではないといった考え方、これはいつの時代にも私たちを取り巻く世界の中に、これから先にも存在し続けます。その時代特有の文化という、科学という麗しい衣を纏って。キリストだけが神ではない、他の聖人たち、幾多の宗教もみな昇る天は異なるけれども同じ神さまだと人々が迎合してゆくとき、私たちが惑わされてはならないことは、「イエスを誰というか」、それなのです。ヨハネがあの時代、グノーシスの脅威に立ち向かい、バチーンと楔を打ち込んだような取るべき姿勢とは。マタイ16章にペテロの信仰告白があります。イエスさまが、15節で「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と訊かれたときに、16節で シモン・ペテロが答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです」。イエスさまは問い質すことで、シモン・ペテロからこのような信仰告白を引き出したのです。そして「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とイエスさまは仰いました。

 そのあと、イエスさまがご自分が「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」ことを語ったとき、ペテロが、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と申し上げた、するとイエスさまは、さきほど合格点を与えたペテロに非常に厳しいことばで「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、あの愛に満ちたイエスさまが大変厳しくペテロに対して言っています。イエスさまは、ご自分が神の御子であることを否定する蟻の一穴をも許さなかった、その厳しさ、その真実さ、それを私たちは忘れたくありませんし、その厳しさをヨハネは持っていたのです。

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きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』ーヨハネ伝連講(118)ーその1

 

日曜日には心に一点の灯をと願い、キリスト教の説教を書かせていただいております。事情により2回に分けて月曜掲載となる場合もございます。

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 さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは、

説教題 『岸辺に立たれる復活の主』ーヨハネ伝連講(117)
きょうは聖書から2箇所ひらかれました。このページではその2箇所をご紹介し、メッセージはページを改めて掲載します。


ヨハネ伝21:1~11

この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

2
シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3
シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5
イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7
そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8
しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9
こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10
イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13
イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
 

ルカ伝5:11

群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、
2
岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼また。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。
4
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7
そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。
8
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9
それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11
彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った、

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何か書かねば、一回書かねばーホザンナー

  いま22時。外では雨が強く降っている。
 さてブログに一行でもとクリック。ところが「リセットされました」と。う~ん、きょうは更新できないかなと思いながら再度クリック。こんどはいつもどおりにログイン。ほっと一息。
 12号の悪戯が片付かないうちに15号。今し方また一段と雨が強くなった。朝早いうちに洗濯物を干し早い目に片付けてよかった。葡萄をできるだけ摘んでしまうべきだった。そういえば裏のトマトとキュウリ、ゴーヤ、ピーマンを見ていなかった。
 3匹のクロアゲハの幼虫はまるまると成長している。T子さんからグレープフルーツを一枝いただいたときに、葉っぱをぜんぶきれいに洗ってから幼虫にあたえたはずだった。ところがどこかに産み付けられていた卵が孵化したのか、3ミリばかりの幼虫(写真)が家族に加わった。すでにいる3匹と兄弟であるかどうかはわからない。

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 これは16日の写真。きょう17日はもう葉っぱを食い尽くし、まるまると大きくなっている。

  ☆ ☆ ☆ ☆

 

きょうはもりおか童話の会の集まりがあった。中央公民館一階控室。1時から4時半。きょうは7人の方々が集まった。みな原稿をもってきての参加。わたしは今朝5時から書いた13枚を読みみなさんに聴いていただいた。

 さて「ミサ曲ロ短調」サンクトゥスが終わろうとしている。と言いつつ切るのが惜しまれ次もこうして聴いている。女声合唱の部分、さっき、まるで水面にさざ波がたつように聞こえたときがあった。ホザンナ、ホザンナ

きょうも終わる。今朝は4時起き。ホザンナ。きょうという日も終わる。就寝23時としておこう。

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これは観念ではないー主よみもとに近づかんー

 主よみもとに近づかん(試聴)♪

主よ御許に近づかん
いかなる苦難が待ち受けようとも
汝の為に我が歌を捧げん
主よ御許に近づかん

賛美歌名曲集

放浪の中 日は暮れゆき
闇の中 石の上で体を休める
ただ夢見るは 主よ御許に近づかん

 ◆ ◆ ◆ ◆

 こんばんも月下美人が一輪/こんなに大きく咲いている/誰か見ているだろうか/誰も見ちゃいないさ/もう夜空もこんなにくもってしまった/掃いてどけるには多すぎる重たすぎる雲なんだ/だけどようく探してみたら/ほらあそこにたった一つの星/風前の灯のように頼りなげにまたたいている/松明を掲げたアンカーが/この暗い夜を照らして咲いているのを/そっと見届けるためにね

 

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プレゼント

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  8月の半ばに咲いた月下美人が、きょう再び2輪開花しました。蕾は三つありましたが、あとの一輪は明日開花の見込み。

 ここのところ家の中に持ち込んだ生き物たちの充実した生命力の凄さに気圧され気味。とにかく近くに行くとほんとうに命の力が、パワーがつたわってくる。
 3頭の脱皮したクロアゲハは、昨日のうちに花瓶のサンショウを食い尽くし、夕方に新たに鉢植にした2本のサンショウも食い尽くし、木をおりて床を散歩しておりました。これはもう庭に残っているサンショウでは間に合わなくなる。虫の実家であるT子さん宅にお願いして、もともと産み付けられたグレープフルーツの木の枝を分けていただいた。葉っぱが10枚ばかりついている。柿の木の葉っぱほどの大きさなので、少なくとも2日分の食料にはなると思うのだが。体長5センチ、太さ径1、2センチほどもある3頭。もはや花瓶に挿した枝の上にばかり大人しくしていそうにはない。ダンボールに窓のついた、勿論窓には透明なプラを貼付けてある、そんな新居を製作。天井は劣化した網戸から切り取った網。
 芋虫の写真が度々では辟易される方もあるでしょうから、きょうは載せませんが、このひたむきな、というかそう見えるというのですが、とにかくひたむきに黙々と命を生きるすがた感嘆し親しみ、愛情が湧きます。

 そしてその傍ではこのように月下美人が強い芳香を放ちながら大きく大きく咲いている。撮影は22時。この開くときのエネルギーといったものが、家中に広がる芳香に溶け込んでうわっと見るものを圧倒するのです。しっかと対峙していなければ配下にくだることになりかねないなどと一方ではそんな感じ方もしてしまうほど。
 もし月下美人の鉢植を外に置いたなら、真っ暗闇の中で咲いたろうか、それとも月の光のもとで咲いたろうか。
 外に出て見ました。すると月が雲に隠れてしまいました。空の半分を雲が覆っています。それが流れています。すこし待つとまた月がすがたを現わしました。

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 雲のあいだからはこんな月がゆっくりと威厳をもって現れ出ました。こんな夜に、月下美人が咲いている。かおり豊かに大きく繊細に優雅に咲いている。
 ところで今日は…そう、きょうはわたしが洗礼を受けた日、いまやっと思い出しました。やっぱりこれはプレゼントですね、神さまからの。なにかきょうは特別、そんな感じがしていたのです。


 

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テロリスト

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 アメリカシロヒトリ発生。ボケの木に。主人が4、50匹を駆除。私は20匹を駆除。薬は買ってきたものの、結局撒かないでしまった。こういった薬を使い切らずに残した場合、始末に困る。一応種苗屋さんに残った場合に引き取ってくれるかどうかを訊いたところ、1リットルまでなら600円で引き受けるという。100㏄の場合でも600円。

 同じいもむし、毛虫でもクロアゲハやキアゲハの幼虫は毎日観察し、可愛いなと思っている。外に置くと確実に食べられてしまうので、屋内で飼育している。きょうも3頭目が脱皮。それがこんどは3分もかかったかどうか、何れ短い時間で脱皮してしまった。そして体を折り曲げるようにして自分が脱いだ皮を食べてしまった。
 先日屋内に迷い込んだアシナガバチを間髪入れずに退治した。それもこれもクロアゲハの幼虫を護るためである。
 アゲハの幼虫は護り、アメリカシロヒトリやアシナガバチは亡きものにするこの恐ろしさ。彼らからすれば、わけもなく攻撃し命を奪う我われはさしずめテロリストといったところだ。

 そのヒトによるテロ、農薬というテロのせいかどうか、たぶんそうだと思うが、毎年葡萄が甘くなると必ずやブンブンブンブンと羽音を唸らせてやってきたハチが、今年もすがたを現わしていない。昨年もそうだった。来ない。変。何かが変。いったいあの蜂たちはどうなっちゃったの。うるさかっただけに、ちょっと怖かっただけに、こうも静かになってみると逆に不安になる。ああまたどこかで自然が壊れたんだ。こんなことが加速すればこんどはヒト? 誰かがいっていた、「人間という絶滅危惧種」と。絶滅危惧動物図鑑にヒトはまだ書き込まれていなかったかな?

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脱皮

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 これは9月12日(月)の写真です。月や星の写真は単純なようですが、どんなに見ていても飽きるということがありません。もやがかっていましたが、何か久遠の静けさが心に満ちてきます。
 この日の夕方、クロアゲハが脱皮したのに気づきました。鳥の糞のように見える擬態の体が、きれいな若草色に変わったのです。このときは脱皮の瞬間を見ることはできませんでした。何とか脱皮に居合わせたいものだと思っていました。

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写真の下のほうにいる幼虫が仮眠に入っているのがわかります。そろそろ脱皮だとわかりました。どれぐらいの時間で脱皮するものだろうか、よほど付きに付いていて確かめようかともおもったのですが、もしかすると、また見ないでいるうちに脱皮してしまうのだろうと思われました。恐らく傍に生き物の気配がするうちは脱皮しないだろうとも思いました。
 ところが13日のきょう夕方のことです。
ボイラーから浴槽に湯と水を全開にしてタイマーをかけました。8分で丁度良い具合に湯が溜ります。そのあいだにちょっと外の用足しをと玄関先に出たのですが、ふと幼虫が見たくなり近づいてみると、何と皮を頭部から脱ぎはじめています。釘付けになりました。体はそのままの位置で、筋肉というかどうか、蠕動運動に似ている感じなのですが、とにかく体のそれを上下させながら滑らせ脱いでいくといった具合です。皮が尻尾の先の位置になったとき、振り払うように2回尻尾を小さく振ると皮はすっかり後ろに落ちるというよりも、縮められ置かれたといった方がぴったりします。慌ててタイマーを見にいくと7分経過していました。タイマーをかけた時間と脱皮が始まった時刻はだいたい同じです。脱皮が終わって慌ててタイマーを見るまでに1分は経っていたかもしれません。ほんとうに感心してしまい、次はどうなるかと瞬時成り行きを待っていたからです。しかしそれでも脱皮が終わった時間を確かめようとタイマーを見たわけです。幼虫が脱皮に要した時間は凡そ6、7分と思っていいのではないでしょうか。思っていたよりは短時間でした。ただもしかすれば脱ぎ始めというのはそのあとよりも時間がかかっていたことも考えられます。かからないかもしれませんが。もし頭部から脱ぐのにけっこうな時間を要したとすれば、実際には8分、9分であることもあり得ます。
 脱皮の最中に刺激してはまずいだろうと思い、写真は撮りませんでした。まだすっきりとしない黒い線のもようが、すこしすると、びっとしっかりとした黒い線となって、体の形も落ち着きました。
 これで終齢幼虫となったわけですが、あと10日ほどで蛹になるでしょう。この10日間の3頭分の食料となるとけっこうな量の確保が必要となりそうです。こんどこそ蝶への脱皮に向けてしゃきしゃきしゃきしゃきと葉を食べるでしょう。立派なクロアゲハに脱皮する日を夢見ながら。


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きょうのことばー『信じて、いのちを得るために』ーヨハネ伝連講(117)ーその2

※前前ページのつづきとなっております。

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聖書は何のために書かれたのか。イエス・キリストが神の御子であり、信じて救われることができるようにと書かれたのです。

 みなさんは映画「ベン・ハー」をご存じでしょう。アメリカで大ベスト・セラーになったルー・ウォーレスの小説の映画化でした。ウォーレスは、はじめキリスト教を否定する目的で関係資料を調べていたのです。ところが調べが進むほどに、ナザレのイエスという男が神でない限り、このようなことをできるはずがないと確信したのです。そして「ベン・ハー」を著わしました。

 ベン・ハーはローマへの反逆罪という濡れ衣を着せられ、母と妹までが引き裂かれる。イスラエル民族を苦しめるローマへの、またローマに加担するメッサラへの憎しみと復讐。これはまさにテロです。憎い者に復讐をする、これが人間の赤裸々なすがたです。アメリカの同時多発テロ事件9・11。犯人はオサマ・ビン・ラディンをリーダーとするテロ組織アルカイダ。米ではアメリカ市民が被害者だといい、アルカイダは、アメリカこそ加害者だ、テロを非難するが、ならばあなた方が我々の同胞にしたことは一体何なのか。憎しみが復讐を生み、それがまた連鎖式に憎しみ呼んでいく。争いに次ぐ争い。これが人間社会です。ローマ、イスラエル、ユダヤ民族に於いても然り。

ところが、あのナザレのイエス・キリストというお方は「父よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているかわからないのです」と自分を十字架につけた輩のために祈ったのです。ウォーレスは、贖いの死を遂げたこのお方が神の子以外の何ものでもないという確信に至ったのでしょう。

福音書に記されているナザレのイエスの有り様を詳細に研究すればするほど、これは人ではない。この方はまことに神の御子であると認めざるを得ない。聖書というのは、そのように読むべき読み物なのです。私たちが聖書を読むとき、ナザレのイエスというお方は神の御子であると先ず念頭に置くなら、イエスさまへの思いをさらに深くし、それ故に、いよいよ豊かな命に生きることができる。こういう聖書の読み方、関わり方をさせていただこうではありませんか。

 パウロがテモテに宛てて書いた第二テモテ3章1415節を読んでみましょう。

14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」」

 ヨハネ伝の先ほどのことば2031節に、

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」と記されてあるのは、まさにこのことなのです。

 第二テモテ316節。

16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

つまり、先ほどのヨハネ伝の解説から言うのならば、ヨハネ伝20章で本来30節、31節で終わっていいはずのところが、やはり書き足すべきと、21章のエピソードが次章として加わったということも、これはすべて神の導きによって記されたものであります。聖書というのは人間のことばではない。勿論私たちは、人間のことばの珠玉の響きをもつ教えや所謂箴言のようなものに深く感動することはある。しかし、聖書は、それらの人間の書物とはまったく異なった書物です。それは神の霊感によって記されてある間違いのない真理の言葉なのです。だからこそ、私たちはこれにすべてを託して信仰をもって歩むことができるのであります。

 

 今回、ヨハネ伝2030節、31節を開き、

30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

こういう聖書というものについての言及がなされておりますので、私自身が受けた印象深く記憶に残っているメッセージをお話ししますが。

私は、このインマヌエル綜合伝道団の初代代表蔦田二雄先生に大きな導きを受けております。まだ献身するまえ、青年会時代のことですが、そこに神学生たちも加わって、世界の終末、或いはイエス・キリストの再臨というテーマで、蔦田先生からお話しをいただきました。先生は非常に真剣でした。当時の世界状勢を汲み取り、今ある一つの大きな渦は世界の歴史から見たときには決して大きな問題ではない。寧ろそれから先にもっと大きな出来事に遭遇することになる。聖書によれば、そのところが中核となって終末に向かって備えられると語られ、また聖書から予測されるところの来るべき世界の特定の国々の勢力範囲なども語られました。

 世界の終末に関わるメッセージを取り次いだとき、蔦田先生は、当時の若い神学生たちに目を留めて仰いました。
「君たち、わかるかなあ、私はね、これに命をかけてるんだ。命をかけて終末再臨を理解しているんだよ。君たちは頭では理解しているだろう、だけどね、僕はこれに命をかけてきたんだよ」

威厳を持って学生たちを凝視したあの眼が私には忘れられません。
 戦時中に獄中にあって尚キリストは神であることを貫き通した蔦田先生です。まさに命がけで福音のために生きたその人は、戦後出獄し、聖書に従って、聖書によって伝道の働きを始めました。

蔦田先生はずっと日記を書いておられ、それが亡くなられたあと出版されています。それによりますと、昭和20年代に青森県十和田市に十和田教会を開設。当時は三本木教会といいました。戦後日本人の手によってできた最初の教会です。これインマヌ エルだけではなく、日本でも一番目です。インマヌエルの船橋教会よりはやい。当時は交通の便も悪かったのですが、蔦田先生は、しばしば三本木に来ておられる。日誌を見ますと、三本木の農業学校に講演を依頼されて語ったのは終末論でした。おやっと思い他の所での演題を見ると、勿論それだけ語っているのではない、しかし蔦田先生は、終末論について、昭和20年代、21年代には頻繁に語っておられる。終末論に関する意識にはよほど強いものがありました。

ヨハネ伝203031節からの展開は聖書的な解釈とそれから、メッセージと言うことから見れば、いつものスタイルとは違います。しかし私は、終末に関し、私も含めて、クリスチャンたちはもっと目が開かれなければならないと思いました。

それが今日は911日。大震災からちょうど半年経った日曜日であります。皆さん考えていただきたい。私たちは日本列島を大きく考えています。その中に私の田舎の標高3000メートルの北アルプスを望む松本市もあれば、或いは、岩手県の北上山系もある。私たちが何を基準に考えるかです。 私たちはこうして陸上で生きているから、3000メートル級の山だとか岩手山が高いなどといってますが、地球規模で考えると、私たち日本海溝のところ から出て、海からほんのちょっと出ているだけなのです。地殻変動を考えると日本列島の位置さえほんとうに存在するのかとさえ思います。終末論ということから考えれば、ただ恐怖を言っているのではなく、あの大震災というものが一つの警鐘であり、あれはまだほんの序の口だと思うのです。これから、かつてないほどの大天変地異がおきる。終末のときに、エルサレム、あのオリーブ山が西と東に分れる、イエスさまの再臨のときの地殻変動を考えるとき、私たちがいま三陸沖の大津波で大災害といっているけれども、再臨のときの角度からみれば、ほんの序章にしかすぎないということ。このような理解もたなければならない。とするのならば、私たちはこの神のことば聖書というもの、そして世の終末が近づいていると思うならば、マタイ伝の24 25章、黙示録、ゼカリヤ書を読みながら、しかし徒に終末論を語って、じゃ、私たちはどうしたらいいのかとパニックに陥るようなことではない。私たちに、たとえいつ終わりがやってきたとしても、御子イエスの血すべての罪より我らをきよむ、この備えができているかどうかなのです。ほんとうにイエス・キリストの血潮によって私たちの罪が赦され私たちがいつでも神のみまえに立つことができることが、田老、宮古の防波堤をどうするかということよりも、私たちにやがて襲ってくるところの大津波に対してそれは死という誰も避けることのできないそれに対して、どれだけ堅固なものをしっかりと自分のものとして持っているかどうかです。どうぞこれをかたく握りしめ、聖書の真理に立って、御ことばに生きていきたく願うことであります。

※今回は一旦ワードで作成したものをブログに転載しました。
 編集の都合上3000字相当を割愛してございます。文責:中ぶんな

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お詫び

 毎週日曜日にはキリスト教会のメッセージを掲載しておりました。時間的に厳しい場合には2回に分け2日に亘って載せておりました。
 9月11日分につきまして、多忙であったために、ICレコーダーから最初の10分間だけ起こしてアップし、残りは12日中に載せる予定でおりました。12日朝5時から2時間をかけICレコーダーから起こし、あとは朝の家事を終えてから編集しようと「下書き」で保存。9時に取りかかろうとしたところ、9時から15時までメンテナンスであることに気づきました。20時すぎて、さて編集しようとブログを開きましたところ、記事の下書きの半分が失われておりました。これを修復するのには若干時間を必要とします。掲載が遅れます。おゆるしください。遅れますが何とかアップするつもりですのでどうぞ宜しくお願い致します。、

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きょうのことばー『信じて、いのちを得るために』ーヨハネ伝連講(117)ーその1

 きょうであの3・11から半年。そして9・11からは10年。この日曜日の筆記が、どなたかの心の復興のお役にたつことを願って、きょうも聖書からのメッセージを書かせていただきます。 

20110908_143  インマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師の日曜礼拝説教です。
説教題 『信じて、いのちを得るために』ーヨハネ伝連講(117)
聖書箇所 ヨハネ伝20章30、31節
(太字は聖書からの引用です)
30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 ヨハネの連続講開もいよいよ締めくくりへと近づいております。前回も復活のイエスさまとトマスとのできごとを通して、「見ないで信じる者の幸い」ということを中心にお話し致しました。これを承けて、きょうの聖書箇所であるヨハネ伝30、31節を見ますと、これでもうヨハネの福音書は締め括られたと理解してもよい書き方であると思います。しかし21章が付け加えられています。追伸といった形でエピソードがあるとすれば、これはペテロや弟子たちとよみがえりのイエスさまとの出会いでございますから、これだけはヨハネは書いておきたい。これは抜かすことなどできないということでございましょう。そしてそれを書きますと、ああ、そうか、このこともあのこともあったとヨハネ自身が思い起こしながら書きたくなるでしょう。21章の25節。

25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。
 
あのことこのことといっぱいあるけれども、取りあえずここで筆をおきましょうということで、ようやくヨハネの福音書が終わっている。繰り返すようですが、ほんとうは20章までで締め括られてよかったのですが、この21章のエピソードだけはということで書き加わった、そういう構成になっていると思います。
 したがって、ヨハネが一旦筆を置こうとしたこの30、31節の部分、ここにヨハネ伝の書かれた目的が著者自身によって記されていますので、これに意識を向けることは大切だろうと思います。
 30節、この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
 
この書には書かれていないけれども、当時はマタイの福音書ができておりました。順番でいいますと、たぶんマルコの福音書がいちばん最初です。それから、使徒の働きを記したルカという人物がいます。彼の立場からイエスさまのご生涯をまとめてテオピロという人物に向かって書き記したのがルカによる福音書です。イエスさまのご生涯ですので、イエスさまのご生涯に於いて成された様々なできごとは、すでに、これ以外の書物に記されてあったわけです。しかし、このヨハネの福音書というのが、先ほど申しました三つの福音書と明らかに角度が違っている。つまり、ほかのマタイ、マルコ、ルカ伝には、同じような記事が同じように書かれているところが少なからずございます。あれ、どっちに書いてあったかなと思うほど似ている。ある意味同じ角度からイエスさまのご生涯を書いている三つの福音書に対して、ヨハネは全く異なった角度から、つまり、先に書かれている三つの福音書に記されていない、ヨハネが、どうしても書き留めておきたかったこと、それは、書き記すことによって、イエスさまが神の御子キリストであると読者に知って貰いたいというまったく独自の立場から福音書を記しておりますので、その意味でユニークなのです。
よほど大きな出来事は別として、他の3福音書と共通している部分が少ない。ヨハネ伝だけは視点、角度が違うということなのです。
 さて、それを踏まえたうえで、31節

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、

 これが、ヨハネの福音書を書いた先ず第一の理由です。イエスが神の子キリストであることをあなた方が信じるために、わたしは書いたのですよ。また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためなのです。つまり、永遠の命、神の国に入ることのできる命を持つために、わたしはこのことを記した。その目的のために、わたしはこれを書いたのです。もっと一般的に言います。私たちは聖書というものを通して、これはヨハネ伝、ヨハネが記した目的と言うことだけではなく、聖書が何のために記されたかの回答でもあるのです。
            ーつづくー

※きょうは15時から松園墓園の教会墓地において納骨式がありました。くもり空の下で、聖書からのおすすめを聞き、讃美歌をご遺族、教会員とともに歌いながら故人を偲び納骨をみなで見守らせていただきました。
 礼拝説教の続きは明日書かせていただきます。

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どこまでつづく、この道は…

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     どこまでつづくこの道は…

 唐突だが、遠藤周作がよくオナラの話しをしていたのを思い出す。デビ夫人にもオナラをしたことがあるかどうか質問したことがあったようだ。文藝春秋だったろうか、ある方が、遠藤は飲む席で猥談になったときなど、あからさまに否定するよりも、オナラのような話しで話題を転じるようにしていたのではないかといったことを書いていた。
 最近でこそ入ってはこなくなったが、卑猥な内容のコメントが立て続けに入ってきたことがある。間髪入れずに削除していた。最近友だちのブログにもそういったコメントが紛れ込んでいた。せっかく楽しくブログを書いているのに気の毒と思いメールで知らせた。ところが忙しいらしくまだ消えていない。そればかりではない。社会的に守られるべきであるよいブログにもそのようなコメントが投げ込まれていた。これはもうセクハラともいうべきもので、投げ込まれた本人が不快とする場合には、責任をもってどこかが調査に乗り出すぐらいの手だてはないものかと思う。あるのかもしれないが。
 害悪のあるものとしては、実は私も、「自殺」を検索してみたことがある。自殺の方法までが出てきたときには、ほんとうに身震いしてしまった。そのときの恐れ、それは自殺者の数を統計的に知ろうとするときにもたらされる感情とはまったく違っていた。独特な別な世界に吸い込まれ迷い込もうとしている、そんな感覚だった。一旦吸い込まれてしまうとおいそれとは這い上がれない、脳内が入れ代わる、滅びるぞという生存に関わるセキュリティー感覚が破壊されてしまう、そういう直感がある。
 ネット上にはこんな恐ろしいものが多くのクリック、訪問を待ってゴロゴロしている。
 ネットには図書館一つ個人で持ったかのすばらしい側面もあるが、ほんとうに恐ろしい側面もある。そういった害悪から個人を守るセキュリティも開発されてはいるのだろうが、ネットの怖さはそのままだ。爆弾の作り方をネットで調べ実行した例と枚挙にいとまがないだろう。
 遠藤のオナラの話しとかけ離れてしまったが、何れ、もはやオナラ程度で何らかを転換させる、転換できる古き良き時代は終わったのかもしれない。

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荒れすたれたユダの町々とエルサレムのちまたで

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10 主はこう仰せられる。
「あなたがたが、『人間も家畜もいなくて廃墟となった』と言っているこの所、
人間も住民も家畜もいなくて荒れすたれたユダの町々とエルサレムのちまたで、
11楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、
『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで』と言って、
主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる。
それは、わたしがこの国の繁栄を元どおりにし、
初めのようにするからだ」と主は仰せられる。

             エレミヤ書33章

どのように荒れはてすさんでいようとも、ひとたび神の意志がそこにはたらくとき、それは息をふきかえしいのちのかようものとなる。神の意志をうごかすもののひとつは、慟哭の祈りなのではないか、そう思いながらわたしはこれを読んだ。

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三頭わが家に

 小学校中学年まで、病院通いのため、よく学校を休んでいたせいか、小学生理科もいまだに新鮮。この近所のご夫人の影響もあり、幼虫がいるとつい目を近づけてしまう。繰り返し見ているうちには可愛くもなるというこの必然。
 三頭といえば、大型の動物かな? と思われるでしょう。実は蝶の幼虫も一頭、二頭と数えるもののようです。前にこのブログに登場したクロアゲハの幼虫は、とうとうみな何ものかの餌食に。鳥の糞のような擬態も隠れ蓑にはならなかったらしい。毎日観ていたのがいなくなり、ちょっと寂しさが。
 ところが昨日、T子さんからの一報。クロアゲハがやってきては次つぎに産み付ける卵から孵化した幼虫を五頭だけのこしていたところ二頭が忽然とすがたを消し、三頭が残っているが飼ってみないかという。さっそく現地に急行。
 三つの命を引き取ったものの、水槽や虫かごはとっくに処分したために、どのような住まいに入居させようかと頭を悩ませた。そして思いついたのが下の“仮設住宅”。

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庭にたくさん生えるままにしておいたサンショウの木、30センチ丈のものを鉢植にしようかと思ったが、木はまだまだたくさんあるので、引き抜いてきてこのような花瓶に。ちょっと暗いですが、この葉っぱの上に三頭のクロアゲハの幼虫が“入居”しました。

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 葉っぱの中央にいるのがその一頭。はじめ戸惑ったものの、すぐに端からこまめに葉をかじりだした。体長から推して三齢幼虫といったところか。母子手帳がないため、正確なところは不明。

 クロアゲハは六齢或いは七齢が終齢であるらしい。そのあと蛹になるので糸かけが可能な大きな木に移住させるか、しかしこれも外に出すとさっそく飢えた輩の食卓にあげられてしまいそう。屋内で保護するとなれば、小枝などを折りとってきて入れてやらねばならない。

 食料供給、それも放射能汚染はない…すこしはあるかなあ、としても、…これも測ったわけではないが、蝶のあいだに風評被害が広がり、蝶が遠のいてしまうのも心配なので、一応ないということにして、まずは理想的な食料供給には事欠かないはず。ただ健康を維持してやれるかどうか…。

 しかし順調にいった場合のこの後のすばらしい変貌はこちら
 順調にいけばおよそ一ヶ月で蛹となり、石垣島のような温かい地方では十二月でも羽化するらしい。ただこのあたりなら蛹のまま越冬するのかもしれない。
 これからは寒くなってくるので、ここのところが微妙。真冬に羽化したとしても外に花の蜜はなし。待つは飢餓地獄か極寒かといえば苛酷な重労働はないとしてもまるでシベリア捕囚。となれば温かい家の中に置くことは寧ろ後の悲劇を生むことに。蛹になったら寒いところに移そう。
 或いは、冬にならないうちに羽化するのかもしれない。この蛹から羽化までの時間的なプロセスがよくわからない。

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わが家の野菜ー大きかろうと小さかろうとー

   

                         大きかろうが小さかろうが
           重かろうが軽かろうが
           甘かろうが苦かろうが
           真っ直ぐであろうと曲がっていようと
           みんなみんなわが家のやさい

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「アンサンブル東風EX」 & Papalin & aosta

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 いまYou Tubenoでアンサンブル東風EX の演奏を聴きながら書いている。これがリコーダー演奏なのだ。リコーダーというと小学生が音楽の授業で習うあれ? とお思いになるでしょう。わたしもはじめはそう思った。ところが弦楽器にヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスがあるように、それぞれの音域をカバーできるリコーダーがあるから驚き。

 画像の中で指揮をしているのはPapalinさん。私との関係はというとたまにお邪魔しているブログ「消えがてのうた」の管理人aostaさんのご主人なのですが、まあ、これも私が一方的にbunbunという名前でブログ訪問しているaostaさんなのであります、はい。.
 このPapalinさんは、ひとりで幾通りもの音域のリコーダーを演奏、多重録音し公開しています。とにかくあらゆるジャンルの曲を演奏しまくり録音している。簡単に無料で聴くことができます。是非クリックしてみてください。「消えがてのうた」には絵画や絵本、音楽のことなどさまざまに記事があります。これも是非立ち寄ってみてください。

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ただいま食事中

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 これはアシナガバチ。おそらく蝶の幼虫を捕まえたところ。幼虫を引きずって葉っぱの上を移動していた。幼虫がどうなったか夕方にまた見に行くと、すがたが消えていた。木々や草花のあいだで、こんな虫たちの狩りが日常的にと言いたいところだが、もしかすると狩りの時間というのはだいたい決まっているものなのかどうか。拡大するとちょっと恐ろしい光景とも映るが、自然界にあって、実際にはもっとも恐ろしく残酷な食生活をしているのは“人間さま”だろう。
 アゲハチョウならばせいぜいサンショウの葉っぱだけをひたすらに食べて大きくなる。それ以外の葉っぱがまわりに如何にたくさん生えていようとも食べない。成虫になれば花の蜜を吸うぐらいか。“人間さま”ほどありとあらゆるものを食べる生き物はいないだろう。それでもそれでも毎日毎日、もっと美味しいものはないか、もっと変わった味はないかと探している。

 

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きょうのことばー『信じて、いのちを得るため』ーヨハネ伝連講(116)ーその2

 台風12号が記録的な豪雨をもたらし、19人の方々が亡くなられ、59人の方々が行方不明という悲しい事態となっております。お悔やみ申し上げますとともに、一刻もはやい救出がなされますようお祈り申し上げます。
 このブログでは、日曜日には心の拠り所を見出すにすこしでもお役に立ちたく願い、キリスト教会の説教を載せております。

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 きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは

説教題『信じて、いのちを得るために』ーヨハネ伝連講(116)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:26~29
(以下太字は聖書からの引用です)
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」
28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

 きょうは先週に引き続き、よみがえりのイエスさまが、トマスに現れてくださったところを中心に取り扱ってみたく願っております。特に29節の「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」というこのおことばを心に留めたいものです。
 このトマスという人物は、とてもまじめで、神の国のことについても分かったふりをすることなく納得のいくまで真剣にイエスさまに食いついていくような、そして愛すべきタイプの人物だと思って間違いはございません。このトマスが、イエスさまのよみがえりのときに、その場所にたまたま居合わせなかったことが、ヨハネ伝20章26~29節にあるような場面に至るきっかけでした。他のお弟子さんたちは、すでによみがえりのイエスさまにお会いし、喜びに沸き立っていた。ところがトマスにとっては、お弟子さんたちがこの喜びの事実を語れば語るほど、実はトマスの心境は複雑であったと想像されます。クリスチャンならば、仲間がイエスさまによって喜びを得、恵まれているなら素直にともに喜ぶはずでしょう。しかし、自分の霊的な状態が低迷し落ち込んでいたりした場合には、仲間たちの喜び、輝きは時として眩しすぎる。いよいよ自分の置かれている現状に心が屈折してしまう事があり得る。トマスも眩しい仲間たちを目の当たりにして、トマスらしい心の屈折を覚えたのでしょう。それがトマスの言った、わたしは自分の指で自分の手でさわってみなければ信じることができない、という受け答えに凝縮されている。彼は言い張ったのです。よみがえったなんて。いつも一緒にイエスさまに仕えてきた仲間たちが自分をからかったりするはずがないことは承知している。20章25節には、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言ったとありますが、この「言った」というのは「言っている」という意味ですから、何回も何回も繰り返して伝えたいことなのだとトマスはそのことも分かっているはずです。確かに本当だったろう。彼らがウソをいうはずがない。だけども僕は手を差し入れるまでは信じないぞ、と彼らしい屈折をみせている。それだけにイエスさまが現れるまでのこの1週間は、そう言い張ったトマス自身、非常な思い巡らしのときであったでしょう。申し訳ないな、つい言い過ぎてしまった、と反省し悔い改めたときであったかもしれません。

 わたしは、このトマスのようすに、あのペテロがイエスさまを拒絶した場面と似ていることを教えられたような気がいたします。そのところにすこし触れてみましょう。
マタイ26章69節~ですが、ペテロは、ゲッセマネの園で捕縛され、大祭司のところに連れていかれたイエスさまのことが心配でたまらない。もしイエスさまを裏切ろうと思っていたなら、ペテロはこのようについてきたりはしないでしょう。すると火にあたっていた連中が「イエストいっしょにいましたね」と言った。ペテロはこれを打ち消す。するとまた「この人は、イエスといっしょでした」という。彼は「そんな人は知らない」。しばらくするとまた「確かにあなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言われてしまう。彼は「そんな人は知らない」といって呪いをかけて誓いはじめたのです。そしてそのときイエスさまがペテロを振り向いたとあります。この場面です。いかにもペテロらしい躓きだと思いませんか。すぐに行動せずにはいられない。そのペテロが躓くときには見事にばたーんと躓いてしまう。ペテロらしい。イエスさまが振り向かれたときに、ペテロは外に出て激しく泣きました。ペテロはそのときにもほんとうに悔い改めています。

 さて、ヨハネ伝のほうに戻ります。トマスもいかにもトマスらしい躓き方だと思うのです。「そんなこと知らないね。触ってみるまでは」と言ったトマス。ペテロにしてもトマスにしても、イエスさまはようくご存じなのです。私たちの性格的な弱さ、傾向性、それらぜんぶを主イエスさまは、ようくご存じなのです。ですから26節から1週間の後にイエスさまはトマスに現れてくださり、そしてトマスに言われたのです。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」

 、イエスさまが、ただ体の部分をさして、指をここに、腋腹に、と言っているのではない。これにはそれ以上の意味があると思うのです。これは実に十字架をさしている。贖いの十字架の御傷なのです。イエスさまは十字架の贖いの傷をお見せになった。だからこそトマスはここで「私の主。私の神。」という感動の告白をしている。あのとき主は手に釘打たれ脇腹を槍で刺されてしまったという事実以上の、実はメシヤが贖いの身代わりの小羊として屠られたお方であるとトマスはそのときにわかったのです。「私の主、私の神。」。これは、前回にもすこしふれましたが、旧約聖書におけるまことの神さまに対する信仰告白と同じ表現です。ただ「イエスさま」と呼びかけているのではない。旧約で預言しているメシヤはまさにこのお方であるという意味を知ったうえでの「私の主。私の神。」。ですから、いかにもトマスらしい。ヨハネ伝14章では、「あなたはわたしの行くところを知っていますか」「いいえわかりません」「トマスわからないのか」。そう、このやり取りでわかるように、トマスは真剣に考えていたのです。そのトマスが、「わかりました。あなたこそ私たちが待ち望んでいたほんとうのメシヤだったのですね」とわかったのです。だからこそトマスは、「我が主。我が神。」と、ある意味でいちばん進んだイエスさまに対する理解を、トマスらしい冷徹な頭脳をもって、そこに霊的な深い真理がこめられた在り方で告白したわけです。それを受けてイエスさまは仰る。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
 イエスさまはより深い部分にメスを入れなさった。ここから、イエスさまが私たちに願っておられる信仰の有り様、それを私たちは今朝しっかりと捉えねばならないと思います。つまり、イエスさまが願っておられるのは、私を見たから信じるという信仰であってほしくない。見ないで信じるという信仰を、その有り様を、あなた方に持ってもらいたいということを、イエスさまはトマスに語っておられると同時に、同じく私たちに語っているわけであります。ここにイエスさま御自身が「見て信じる 」ということと「見ないで信じる」ということの違い、これには確かに違いがあるのですが。「見たから信じる」、これにもうすこしメスを入れてみますと、「見たから信じる」「見ないで信じる」、どこが違うと思いますか。「見たから信じる」ということは、判断する主体が自分の理性なのです。自分の理性で納得できたから信じるのです。つまり別の言い方をすると、自分の合理的な理性でこれを頷いたから頭でわかった、だから信じます、ということなのです。イエスさまはそれでは満足なさらなかった。

 ここでニコデモを思い出します。これはニコデモに対するそれと同じことではないか。ニコデモは「神の国に入るにはどうしたらいいのでしょうか」と真剣に訊きます。イエスさまは、「人は新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」とお答えになりました。ニコデモは、「えー、もういちど母の胎に入って生まれることなんですか」。つまり、そのときのニコデモの信じるということの理解は、何とか自分の理性で、自分の判断で納得できるような受け方をしたい。つまりニコデモは、見て信じようとしていた。見て信じる。合理的な判断、そして裏付け。もういちど新しく生まれるとはそういうことですか?とニコデモは問い始めた。これが「見たから信じる」。ところがイエスさまは、「そうじゃない。あなた方はイスラエルの教師でありながら、こんなこともわからないのですか。聖霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」。ここでニコデモに語られたイエスさまのことばには、どうでしょうか、跳躍があるとは思いませんか。突然このような表現をしましたが、私はこの跳躍ということばがここに妥当だと思われます。これが29節のおことばを理解する鍵だと思うのです。イエスさまはあのとき、ニコデモに「跳躍してごらん。理性で理解してもう一度生まれるんじゃない。新しく生まれなければ神の国に入ることはできないんだ。跳躍なんだよ」。イエスさまはそう仰ったのではないでしょうか。

 トマスに対してもそうでしょう。「あなたは私を見たから信じるのか。跳躍してごらん」。見ずして、ポーンと、ほんとうに信じる、この跳躍ということばが、新しく生まれるということだと思うんです。つまり、新しく生まれなければ福音はわからないということです。新しく生まれるというこの明らかに一つ超えているそれをしないと人は福音がわからない。ほんとうにイエスさまを信じることはできない。

 ペテロの第一の手紙1章8節。ここにペテロは言っています。「8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
 これが跳躍なのです。この部分に文法的に難しいことばなどが使われているわけではない。たぶん世の中の人たちには何のことかわからないでしょう。でも「8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とある。アーメン。これは、跳んでいるのです。跳躍しているのです。イエスさまはそれを願っている。「トマスよ、あなたは見たから信じるのか、見ないで信じてご覧。」

これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからだ。このことは繰り返すようですが、生まれ変わっていない人たちには分からない。新生する前のニコデモと同じです。
 ヘブルの手紙11章1節。「1 信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
「見ずして信ずるものは幸いである」というのはこのことです。私たちは誰もイエスさまを見ていない。だけれども愛している。信じて言いあらわすことのできない喜びに踊っている。それは、私たちはそれを確信しているからです。目に見えないものを確信している。跳んでいるのです。だから恐らく世の中の人たちはこれを見てつまずくのでしょう。
 同じくヘブル11章27節27「 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
 同じくヘブル11章39、40節

39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
 いにしえの人たちはみな目に見えないものを信じて、そして見えないものをあるがごときものとして進んでいった人たちです。みな跳躍した人たちなのです。
 私はよく棒高跳びを例話にします。走っていって、棒をポイントに立て、棒がぎゅーっと思いきりしなったところで、ぽーんとバーを超えていく。いかにも魅力的なあのすがた。あれを私たちが信仰で跳ぶときのすがたに重ねて見てしまうのですが。ところが、今回の世界陸上で棒が折れてしまった方があった。ジャンプ失敗です。世の中のことでやはり、これは大丈夫と思っていたところが棒が折れてしまうことがある。世の中の提供している棒高跳びの棒にはそういったことがあり得る。

 イエス・キリストが死んでよみがえってくださって、「わたしはほら、このように生きているよ」といって弟子たちに御自身を示してくださったお方、このお方が私たちに、信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」と仰る。おもいっきり天国に望みをかけて、この信仰のポールをしっかりと握りましょう。ぜったい折れることはない。だって神の御子がほんとうによみがえって御自身を示してくださった福音なのですから。どうかこれを思いっきり握って、これに自分の全存在をかけて跳躍しようではありませんか。この信仰によって、「信仰なくしては神に喜ばるること能わず」「神がいますことと、神を求めるものに報いたもうこととを必ず信ずるべければなり。
ヘブル書の11章6節、そのようなものに於いて信仰をもう一度考えてみませんか。
6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
 ヨハネの20章29節、これは世紀を超えていまわたしたち一人ひとりに主イエスさまが語られているおことばです。ご一緒にお読み致しましょう。

29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

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我は葡萄の樹汝らは枝なり

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写真をアップして、あらら、この写真、数日前に使ったのと同じ、と確かめてみると、前のは横長。比べると、こちらの方が芒の高さがよく出ている、などと理屈をつけている。
 もうほんとうに9月。どこかが、しゅんとうつむき加減。
 そういえば「9月になったら」と友だちと約束していたことがある。友だちの家の近くにある喫茶であんみつを食べることになっていた。飲むのではない。ランチでもない。あんみつである。素朴なものだ。
 体脂肪減を目ざし、いま甘いものの一切を摂らないように心がけている。しかし、このあんみつは前からの約束なので今月はこれを月にたった1、2回の“チャンス”としよう。
 いまなら2、3日の断食を実行できそうだ。一日はできた。これにあと2日忍耐をプラスできるだろうか。

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 サンショウの木に住まわせていたクロアゲハの幼虫4頭。あれからは毎日観ていたが、2頭はもしかすればハチか鳥に食べられてしまった可能性がある。1頭は一旦雲隠れしたが、翌日木に戻っていた。1頭は成虫になった可能性もある。どこで蛹になっったかは未確認。結局ネットを買いにいく暇がないうちにどこぞに逃避したもよう。家の中に住まわせなかったのは、やはりキアゲハとちがって、幼虫は若干強面。キアゲハは手で掴むことができるが、クロアゲハは箸で摘んで移動させている。午前のつかの間の晴れ間に立派なクロアゲハが庭をひらひらと巡っているのを見かけている。出てしばらく眺めたのだが、ついでに塀の外回りのバーベナが路に倒れているので人さまの迷惑にならないように全部刈り込んでおく。

 毎年8月の半ばには満開となるサルスベリがいま咲きはじめ、季節外れの紫陽花が一本だけ咲いている。月下美人にまた花芽が3つ出現。葡萄が豊作。あした教会の皆さまにもお分けしよう。葡萄の木はすばらしい。木陰にもなる。きょうのように鉢植が倒れるほどの風が吹いても実が落ちない。そして甘い房をたくさん恵んでくれる。

「我は葡萄の樹汝らは枝なり」と聖書にはある。

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木島由美子/Soleil~ひまわり~

弟35回ピティナ・ピアノコンベティション

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この盤に木島さんの作品が収められています。演奏はコンクールに出場された方々です。下をクリックし拡大しますと、右側の連弾中級39番にあります。

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 これが、4万人が切磋琢磨するといわれる一大ピアノコンクール。

 いつもうにさんといっていますが、本名は木島由美子さんというプロの作曲家。社団法人日本作曲家協議会、JFC東北、JASRAC、山形市児童劇研究会、各会員。聖和短期大学講師。
 わたしとの関係は、メールを交したり情報交換しているという間柄ではなく、専ら、わたしが一方的に公開されているブログ「うにの五線ノート♪」にお邪魔し、食卓からこぼれ落ちるパンならず、作曲家という生き物のブログからこぼれ落ちる、作曲とはどんなもん? というパン屑を強かにかき集めている、そういう自然循環の一コマ。

 今回このうにさんの作曲した「Soleil~ひまわり~」が第35回ピティナ・ピアノコンペティションにおいて新曲課題曲賞を受賞!
 
聴きました!!
連弾中級課題曲「Soleil~ひまわり~」は、予選では371組中、67組が選択。全国、決勝大会では、21組中4組が選択しています。

作曲者の木島さん本人はブログ上でこう仰っています。
「ソナチネなどに混じっての、拙作『Soleil~ひまわり』。
すんごく場違いな感じがしてしまいました、ボサノバですから。
クラシックのコンクールの課題曲には
応募すべきではなかったかしら。なんてね

初心者向けに書くのが一番難しいんですよね。
調性やリズムをシンプルにするのはもちろん、
指使いは簡単にしなくてはならないし、
ぶつかる音や耳障りな音は避けなければなりません。
限られる音を使って魅力的な音楽を書くのが一番難しいんですよ。」

文学書を紹介するよりは音楽を書かせて頂く方がほんとうに音楽が好きであると言う理由から許されるかなと思いつつ言ってしまうのですが、

木島さんの作曲には、既成の音の羅列のごとくの曲想を除外しその狭間にきりりと鑿を差込み、洩れ来る向こうの音の世界のまったく新しい音の創作、構築を企んでいる、そんなふうにわたしには思われます。
「Soleil~ひまわり~」、大都会の中に負けずに明るく力強く確かな歩調で咲く大輪の花。


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ただただ眠い

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写真をアップしたまでは良かったが、はっと気がつくとどうもうたた寝をしていた。夢の中で左手に持っていたのは桃。いまむくところだった。眠いということは眠れるということでもあり、これはありがたいこと。眠りたいのに眠れないとなったらこれはすこし要注意となる。

ロ短調のキリエが脳内のどこかで歌われている。きょうはこのまま休むとしよう。荘厳な曲、悲しい曲、楽しい曲などなどさまざまあるけれども、敬虔な演奏となるとどうだろうか。その点カルロ・マリア・ジュリーニの盤は定評があるらしい。それにしても盛岡で聴いたロ短調のあのでだしは忘れられない。そのあとどの盤を聴いてもあの盛岡バッハ・カンタータの冒頭を思い出す。

きょうは関東大震災の日だ。大正12年。音楽家たちが慈善演奏に動きだしたのは11月ごろだった。やはり2ヶ月は経ってからだ。当時の天才ヴァイオリニストヤッシャ・ハイフェッツが訪れたのも11月。これをきょう詳しく書けば当を得ているのだが。

岩手の音楽家の方々も東日本大震災のチャリティーのためにほんとうにすばらしい動きを取られている。聴きたくとも時間などにゆとりがなく行きかねた音楽会も多くある。いわてフィルハーモニーもとてもよい演奏活動を展開している。ほんとうにほんとうに限られたものしか聴いていない。思えば残念なことだった。

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