きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』2ーヨハネ伝連講(119)ーその1
日曜日には心に一点の灯をと願い、キリスト教の説教を書かせていただいております。事情により2回に分けて月曜掲載となる場合もございます。きょうは事情により教会を欠席いたしましたが、録音をお願いし起こしてみました。
さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは、
説教題 『岸辺に立たれる復活の主』2ーヨハネ伝連講(119)
聖書箇所 ヨハネ伝21:1~14
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
〈説教〉
盛岡も秋の気配が押し迫っております。けさは7度とニュースで聞きました。日中は22度になるとか。いよいよ短い秋を飛び越えて冬になるのではと思っております。くれぐれも健康に留意され、御守りの中にお過ごしいただきたいと願っております。
前回、ヨハネの福音書即ちヨハネ伝21章に入りました。テベリヤの湖畔といわれるのはガリラヤの湖のことであり、此処がお弟子さんたちのホームグラウンドであったことを確認させていただきました。イエスさまが十字架にお架かりになり、天にお帰りになるという復活の後の舞台、大きな出来事の舞台は勿論エルサレムです。しかし、彼らの出身地であるガリラヤの湖もその舞台となっている。ヨハネ伝を書いたヨハネが何としても書き足したかった21章。この章に出てくるガリラヤ湖畔の出来事には特別な意味があったのです。なぜガリラヤがその特別な舞台となったのか。それは、よみがえられた主が、また御使いたちが、「イエスさまはあなた方より先にガリラヤに行って、そこであなたがたに会う」と予め告げていたからです。そこで彼らは、あの惨たらしい十字架、驚くべき復活のあった過ぎ越しの祭の後に、追っ手が来るのではないかと恐れながらも、トマスとイエスさまのやり取りなどによっても、状況を乗り越えて、彼らはガリラヤに旅だっただろうことは十分に頷くことができるのでございます。
イエスさまは、なぜガリラヤの湖でお弟子さんたちを扱われたのでしょう。彼らがガリラヤに帰ったのは、決して錦の旗を翻させるためではなかった。むしろ、彼らは挫折感、落胆の最中での帰省であったといえます。勿論彼らはよみがえりのイエスさまとお会いしてはいるわけですから、まったくは落ち込んでもいなかったかもしれない。だとしても、ペテロの場合には3度もイエスさまを否んでしまった負い目を持ちながらガリラヤへの道を辿っていたに違いありません。他のお弟子さんたちにしても、皆それぞれに心に深い痛み、挫折感を抱きながら、さりとて打ちのめされるのでもなく、ただ一途に「そこでわたしはあなたに会います」と仰ったそのことばに望みを託してガリラヤに帰っていったでしょう。そして、ヨハネ伝21章の3節、
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」
ただこれだけの3節のことばですが、私はこのところの意味の深さを推察しました。それはルカ伝5章、
イエスさまが「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」
と仰ったとおりにしてみると、一匹も捕れなかった彼らが、大いなる漁を得た。そしてそのときペテロたちは、イエスさまに従っていった初発があった。つまり、ペテロをはじめ、他のお弟子さんたちにとって、ガリラヤで漁をするということは、特にこのような背景をもって帰ってきた彼らは、ただ生業のために漁に出るという以上の期待をしていたのかもしれない。
ルカのあの5章つまり、はじめにイエスさまに従っていったあのときのことを思い出そうじゃないか。だって僕たちの原点はここにあったのだからという思いだったのではないか。弟子たちは、我らは漁にでよう、こういって舟に乗り込んだ。そして、それはまさにイエスさまが彼らを扱われるのに相応しい出来事でした。彼らはひと晩中漁をしました。少なくとも漁師であった彼らが、1匹も魚が獲れないなどということは考え難い。しかし、1匹も獲れなかったことは、イエスさまに最初に従っていき、深みに乗り出して初めて獲ることができたあのときを思い起こすには十分であった。つまり前回お話ししましたように、このガリラヤに行くということは、彼らにとってもう一度信仰の原点に立ち返るとき、仕切り直しをするときなのです。そしてイエスさまはそこで私たちを扱ってくださる。前回はそのところまでのお話しをいたしました。
―次ページにつづくー
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