きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』ーヨハネ伝連講(118)ーその3
※前ページのつづきです。
グノーシスがいう麗しいその時代の思想界の「イエスさまが人のように見えたんだが、実は人ではなかった」というような人間の合理的な考え方に受け入れられるようなものに対して、ヨハネが、違う、それは違うと一歩も譲らなかった、私はその意味に於いて、この21章は理解されるべきと思うのです。
「この後」ということばに意識を向けてみましょう。ついこのあいだまでは弟子たちは、エルサレムにいたわけです。ところが「この後」、このときには、ガリラヤの湖畔に弟子たち、いまおおざっぱに弟子たちと言いましたが、2節を見るとその内容がもうすこしわかってまいります。誰がいたかというと、シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、これは12使徒の中に出てくる人物です。それからゼベダイの子たちとありますが、さきほどルカのところにも出ていました。5章10節「ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった」とありますから、ゼベダイの子たちというのはヤコブとヨハネ。このヨハネはヨハネ伝を書いたヨハネです。そしてほかの2人の弟子たちがいたとありますが、これが果たして12使徒たちの数名なのか、或いはもしそうだとすれば名前を書きこんだかも知れないと思うと他の弟子たち、弟子たちは決して12使徒とだけ限られてはいませんでしたから他の仲間の2人がいたというふうに、むしろそちらの方であるかもしれない。わかっているのは、とにかくペテロ、ヤコブ、ヨハネ、トマスが、ナタナエルがいました。そしてその他の2人。どこにいたかというと、ガリラヤにいたのです。なぜガリラヤにいたのか。過越の祭のときに十字架がある。そしてその日曜日に復活がある。ですからエルサレムに於ける大きな出来事が終わって、そしてそれまで主と仰いでいたお方が弟子たちの前からは消えていますから、彼らはガリラヤ、つまり生まれ故郷に帰っていくということは、これは極めて自然な成り行きであろうと思いますが、それと共に忘れたくないのはマタイ伝28章、イエスさまの復活のできごとです。女たちが、よみがえりの朝、イエスさまのお墓に行きましたときに、そこにイエスさまがおられずに御使いたちがいたとあります。女たちに何といったかといいますと28章「5 すると、御使いは女たちに言った。『恐れてはいけません…6ここにはおられません…7ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました』」と念を押して御使いは女たちから離れた。ですから女たちは、「お弟子さんたち、イエスさまがよみがえられて後ガリラヤでお会いすると仰っています」と、このように御使いからのかたい伝言を私たちは受けている。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです』」
ですからもうこのインフォメーションがよみがえりの朝からお弟子さんたちにありましたから、違うこのような形で自分たちの前からいなくなり、過越の祭が終わって、1週間たって、彼らは行くところといえばやはり自分たちの故郷、ホームグラウンド、ここに帰ってきた。
なぜイエスさまがガリラヤでお弟子さんたちに会おうとされたのか、これはおもしろいテーマだと思うのです。なぜずっとエルサレムで御自身のことをなさろうとなさらなかったのか。それから後50日イエスさまは、40日目に昇天されてそしてオリーブ山から帰ってゆかれる、あれは明らかにエルサレムでです。ですからものの小一ヶ月のあいだにお弟子さんたちは一旦ガリラヤに行き、そしてイエスさまとお会いし、このようなあとまた彼らはエルサレムを離れずにお約束の聖霊がくだるまで待ちなさいという。お弟子さんたちは、イエスさまがガリラヤで自分たちに会うと知り、ガリラヤに行きましたが、しかし、またエルサレムで聖霊のバプテスマを受けるとイエスさまから知り、またお互いに帰っていく。それならばなぜわざわざガリラヤに、という感じがいたします。そこに私は大きな意味があるような気がしてなりません。それは、ガリラヤは、彼らがイエスさまにお会いし、自分の生涯をイエスさまにかけて従っていったその原点だったのです。そこでもういちどイエスさま御自身を現わしてくださった。しかもルカの15章を見ますと、一晩中労したけれども魚が捕れなかったと。そしてこのヨハネの21章を見てもひと晩中労したけれども一つも魚が獲れなかった。これ否が応でもお弟子さんんたちにとってみたならば、あのルカの5章、あの出来事をもう不可分、あのときのことを思い出さざるを得ない、そういうことであったと思うのです。私はこの中に非常なお取り扱いを感ずるのです。私たちがクリスチャン信仰を送っております中にこのお弟子さん達がそうであったように、またトマスがそうであったように、そして彼らが他の人たちの迫害を受けるなどしてとにかく絶望的な出来事に直面、落胆しているわけです。そのことにもイエスさまは、「ほら、あなたが初めてわたしに出会ったときのことを思い出してご覧」と一人ひとりに語っておられるような気がするのです。イエスさまは、そのようなお取り扱いをなさるんじゃないでしょうか。いま、もし不本意な状態、いまもし置かれている環境の中に苦しんでいる方々があったなら、イエスさまは、「ガリラヤに行ってご覧なさい、そこでわたしに会えますよ」と仰る。あなたが初めてイエスさまにお会いし、イエスさまに従っていこうとした、そのときのことを私たちに思い起こさせる、そこに帰るように扱ってくださる、つまり仕切り直しの時、弟子達にとってそれはまさに仕切り直しのときでした。彼らは故郷のガリラヤ湖に帰ってきたとき、決して彼らは凱旋の帰還ではありませんでした。彼らは、くどいようですけれども、彼らはこのお方こそメシヤであると思ってこのお方が王の王になられたのなら、私はその第一の弟子、弟二の弟子と誇らしく、故郷に錦をかざる以上の大きな夢をもって彼らはいたのですが、いまは彼らは失意であったのか落胆であったのか、そういう要素もないではない。だけれども、やはり彼らはよみがえりのイエスさまにお会いしているわけですから、ただ、希望のない絶望でもない。もう一度此処でもう一度此処で信仰の刷新を。ガリラヤにおいてもう一度信仰の刷新をしようという渇きが彼らの心に湧いてきたのではないか。そのときに、ペテロが私は漁に行く。これを生活のためと捉えていたのですが、しかし、わたしはペテロの言葉の中に、そこに於いて、あのルカの5章に於いて経験したようなあのお扱いをしていただきたい。あの時が僕たちの原点だった。だからもういちどガリラヤ湖に行って漁をしようという意味合いがあったのでは。彼らは出ていきました。そしてそのように、一匹も魚が獲れなかった。夜が明け初めたとき、イエスさまは岸辺に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだということに気づかなかった。つまり、これは、聖霊によって、ちょどあのエマオ途上のお弟子さんたちが、夕食の時に目が開かれ、イエス様が食事のお祈りをするときまでわからなかったように、やはり不思議ですが、聖霊によって目が開かれていない、目が閉じられているといいったらいいのか、そういう世界があるのだということは否定できません。弟子たちにはわからなかった。ただ不思議なお方が立っていてそして5節イエスは彼らに言われた。「子ども達よ、たべるものがありませんね」。そうしたらその不思議なお方は「舟の右側に網を下ろしなさい。そうすれば捕れます」と仰る。このあたりからあの直感力のある霊的にするどいヨハネは「主だ」。このあたりから複線はもうあるのだろうと思います。一匹も獲れなかった。うん、ルカのあの5章、あのできごとに似ているなと思っているに違いないのです。「子ども達食べる物がありませんね」。「ありますか?」ではなく、「ありませんね」。「はい。ありません」。このやり取り。わたしはこれを正直に自分自身が扱われたことをお話しします。自分自身をこの場面に投影してみたのです。イエスさまが食べ物がありませんねと語りかけています。時代は変わるんです。今はなかなかそういう時代じゃないんです。このように色々な言い訳があり得るのです。けれどもイエスさまはご存じなのです。
イエスさまは、優しいことばを、「子ども達」、わたしたちの教会に、そしてお一人おひとり語りかけてくださる。そのとき、「はい。ありません」。ただ、もしプロの漁師のプライドがあったらこれほど辛いことはありませんね。
「たべものがありますか」。ほんとうにこれを読みながら自分自身を、そして自らの働きを主の前に探られたのです。しかしイエスさまは、ちゃんと見ておられる。そして、プライドも投げ捨てて正直に主の前に出るとき主は仰ってくださる。「舟の右側に網をおろしなさい、そうすれば獲れます」。わたしは右側左側どっちでもいいのではないか、そんな思いがするのですが、けれども、左側に下ろしていたのが獲れなかった。右側におろしたときに夥しい、つまりこれはイエスさまが、海の中の魚さえガリラヤ湖のそのようなものをもぜんぶ御支配の中に置いておられる、それがルカのところでもそうでしょう。「深みに乗り出し網を下ろしてすなどりなさい」。イエスさまが仰るとおりにするときイエスさまが、これはあとの機会となりましたが、炭とパンをちゃんと備えていてくださる。そうです。私たちが疲れ弱り果てているようなとき、イエスさまは、「ありませんね」と訊くだけではなく、ちゃんと主が備えをしてくださり、また、その者の労を慰めいたわるように、おいしい朝ご飯を、朝餉を備えてくださる。わたしはこの次の礼拝では、「主はふるまいをみまえに備える」、この讃美歌を歌いたいと思っているのです。
この讃美歌を歌いながら、ご一緒に、このイエスさまの素晴らしいお取り扱いを経験させていあだきたい、このように思うことです。イエスさまは今、岸辺に、私たちのことをよくご存じでご覧になって私たちのはたらきはどうですか。それに対して私たちはどう答えるか、どうしたらよいのか。この信仰の学課をここから見ることでございます。
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