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きょうのことばー『信じて、いのちを得るために』ーヨハネ伝連講(117)ーその2

※前前ページのつづきとなっております。

2011095_019

聖書は何のために書かれたのか。イエス・キリストが神の御子であり、信じて救われることができるようにと書かれたのです。

 みなさんは映画「ベン・ハー」をご存じでしょう。アメリカで大ベスト・セラーになったルー・ウォーレスの小説の映画化でした。ウォーレスは、はじめキリスト教を否定する目的で関係資料を調べていたのです。ところが調べが進むほどに、ナザレのイエスという男が神でない限り、このようなことをできるはずがないと確信したのです。そして「ベン・ハー」を著わしました。

 ベン・ハーはローマへの反逆罪という濡れ衣を着せられ、母と妹までが引き裂かれる。イスラエル民族を苦しめるローマへの、またローマに加担するメッサラへの憎しみと復讐。これはまさにテロです。憎い者に復讐をする、これが人間の赤裸々なすがたです。アメリカの同時多発テロ事件9・11。犯人はオサマ・ビン・ラディンをリーダーとするテロ組織アルカイダ。米ではアメリカ市民が被害者だといい、アルカイダは、アメリカこそ加害者だ、テロを非難するが、ならばあなた方が我々の同胞にしたことは一体何なのか。憎しみが復讐を生み、それがまた連鎖式に憎しみ呼んでいく。争いに次ぐ争い。これが人間社会です。ローマ、イスラエル、ユダヤ民族に於いても然り。

ところが、あのナザレのイエス・キリストというお方は「父よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているかわからないのです」と自分を十字架につけた輩のために祈ったのです。ウォーレスは、贖いの死を遂げたこのお方が神の子以外の何ものでもないという確信に至ったのでしょう。

福音書に記されているナザレのイエスの有り様を詳細に研究すればするほど、これは人ではない。この方はまことに神の御子であると認めざるを得ない。聖書というのは、そのように読むべき読み物なのです。私たちが聖書を読むとき、ナザレのイエスというお方は神の御子であると先ず念頭に置くなら、イエスさまへの思いをさらに深くし、それ故に、いよいよ豊かな命に生きることができる。こういう聖書の読み方、関わり方をさせていただこうではありませんか。

 パウロがテモテに宛てて書いた第二テモテ3章1415節を読んでみましょう。

14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」」

 ヨハネ伝の先ほどのことば2031節に、

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」と記されてあるのは、まさにこのことなのです。

 第二テモテ316節。

16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

つまり、先ほどのヨハネ伝の解説から言うのならば、ヨハネ伝20章で本来30節、31節で終わっていいはずのところが、やはり書き足すべきと、21章のエピソードが次章として加わったということも、これはすべて神の導きによって記されたものであります。聖書というのは人間のことばではない。勿論私たちは、人間のことばの珠玉の響きをもつ教えや所謂箴言のようなものに深く感動することはある。しかし、聖書は、それらの人間の書物とはまったく異なった書物です。それは神の霊感によって記されてある間違いのない真理の言葉なのです。だからこそ、私たちはこれにすべてを託して信仰をもって歩むことができるのであります。

 

 今回、ヨハネ伝2030節、31節を開き、

30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

こういう聖書というものについての言及がなされておりますので、私自身が受けた印象深く記憶に残っているメッセージをお話ししますが。

私は、このインマヌエル綜合伝道団の初代代表蔦田二雄先生に大きな導きを受けております。まだ献身するまえ、青年会時代のことですが、そこに神学生たちも加わって、世界の終末、或いはイエス・キリストの再臨というテーマで、蔦田先生からお話しをいただきました。先生は非常に真剣でした。当時の世界状勢を汲み取り、今ある一つの大きな渦は世界の歴史から見たときには決して大きな問題ではない。寧ろそれから先にもっと大きな出来事に遭遇することになる。聖書によれば、そのところが中核となって終末に向かって備えられると語られ、また聖書から予測されるところの来るべき世界の特定の国々の勢力範囲なども語られました。

 世界の終末に関わるメッセージを取り次いだとき、蔦田先生は、当時の若い神学生たちに目を留めて仰いました。
「君たち、わかるかなあ、私はね、これに命をかけてるんだ。命をかけて終末再臨を理解しているんだよ。君たちは頭では理解しているだろう、だけどね、僕はこれに命をかけてきたんだよ」

威厳を持って学生たちを凝視したあの眼が私には忘れられません。
 戦時中に獄中にあって尚キリストは神であることを貫き通した蔦田先生です。まさに命がけで福音のために生きたその人は、戦後出獄し、聖書に従って、聖書によって伝道の働きを始めました。

蔦田先生はずっと日記を書いておられ、それが亡くなられたあと出版されています。それによりますと、昭和20年代に青森県十和田市に十和田教会を開設。当時は三本木教会といいました。戦後日本人の手によってできた最初の教会です。これインマヌ エルだけではなく、日本でも一番目です。インマヌエルの船橋教会よりはやい。当時は交通の便も悪かったのですが、蔦田先生は、しばしば三本木に来ておられる。日誌を見ますと、三本木の農業学校に講演を依頼されて語ったのは終末論でした。おやっと思い他の所での演題を見ると、勿論それだけ語っているのではない、しかし蔦田先生は、終末論について、昭和20年代、21年代には頻繁に語っておられる。終末論に関する意識にはよほど強いものがありました。

ヨハネ伝203031節からの展開は聖書的な解釈とそれから、メッセージと言うことから見れば、いつものスタイルとは違います。しかし私は、終末に関し、私も含めて、クリスチャンたちはもっと目が開かれなければならないと思いました。

それが今日は911日。大震災からちょうど半年経った日曜日であります。皆さん考えていただきたい。私たちは日本列島を大きく考えています。その中に私の田舎の標高3000メートルの北アルプスを望む松本市もあれば、或いは、岩手県の北上山系もある。私たちが何を基準に考えるかです。 私たちはこうして陸上で生きているから、3000メートル級の山だとか岩手山が高いなどといってますが、地球規模で考えると、私たち日本海溝のところ から出て、海からほんのちょっと出ているだけなのです。地殻変動を考えると日本列島の位置さえほんとうに存在するのかとさえ思います。終末論ということから考えれば、ただ恐怖を言っているのではなく、あの大震災というものが一つの警鐘であり、あれはまだほんの序の口だと思うのです。これから、かつてないほどの大天変地異がおきる。終末のときに、エルサレム、あのオリーブ山が西と東に分れる、イエスさまの再臨のときの地殻変動を考えるとき、私たちがいま三陸沖の大津波で大災害といっているけれども、再臨のときの角度からみれば、ほんの序章にしかすぎないということ。このような理解もたなければならない。とするのならば、私たちはこの神のことば聖書というもの、そして世の終末が近づいていると思うならば、マタイ伝の24 25章、黙示録、ゼカリヤ書を読みながら、しかし徒に終末論を語って、じゃ、私たちはどうしたらいいのかとパニックに陥るようなことではない。私たちに、たとえいつ終わりがやってきたとしても、御子イエスの血すべての罪より我らをきよむ、この備えができているかどうかなのです。ほんとうにイエス・キリストの血潮によって私たちの罪が赦され私たちがいつでも神のみまえに立つことができることが、田老、宮古の防波堤をどうするかということよりも、私たちにやがて襲ってくるところの大津波に対してそれは死という誰も避けることのできないそれに対して、どれだけ堅固なものをしっかりと自分のものとして持っているかどうかです。どうぞこれをかたく握りしめ、聖書の真理に立って、御ことばに生きていきたく願うことであります。

※今回は一旦ワードで作成したものをブログに転載しました。
 編集の都合上3000字相当を割愛してございます。文責:中ぶんな

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