きょうのことばー『岸辺に立たれる復活の主』ーヨハネ伝連講(118)ーその2
※前ページのつづきとなっております。
前ページのルカ伝5章11節に出てまいりますゲネサレ湖はテベリヤの湖、ガリラヤ湖と同じ湖のことです。キンネレテの湖と記されることもあります。
きょうヨハネ伝とともにルカ伝をお開きしましたのは、この場所が弟子たちがはじめてイエスさまに従った初発の地であることがこの5章に書かれてあるからです。先ずこのことを心に留めておきましょう。ヨハネ伝と類似している場面、また違っている場面とあります。ヨハネ伝のほうではイエスさまは岸の方におられます。しかしルカ伝の方ではイエスさまがご一緒に舟に乗っておられる。共通事項では、一匹も捕れなかったのが、イエスさまのおことばとどおりにしたところ、網も裂けんばかりの大漁となる。これも心に留めておきましょう。
それではヨハネの21章に、いつものおことばの学びへと入りたいと思います。
21章のこののちイエスはテベリヤの湖でもう一度ご自分を現わされた。もう一度復活の御自身を現わされた次第が書かれております。ヨハネ伝11:14節を見ますと「 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である」とあります。 この場合には特に男の弟子たちを念頭にあって、マグダラのマリヤとか他の女たちにまで現れたことを或いはエマオ途上の、他の福音書には何回かあるのですが、いまはヨハネの福音書をベースにしておりますので、これで3回目であるというように14節にまとめられているのを見ますと、そしてヨハネ伝21:1にもう一度ご自分をというようにありますと、やはり何時なのかと見ると聖書の欄外の1の②に「ヨハ20:19、26」とあります。ヨハネ20:19で、週の初めの日の夕方、これはトマスがいないときでしたが、恐れて室内にいた弟子たちにイエスさまが現れた。これがよみがえりのイエスさまが現れた一回目。同じく20:26では、八日後に、室内にいた弟子たち、このときはトマスもいっしょでしたが、イエスが来て彼らの中に立った。これが2回目。そしてヨハネ21章に現れたのが3度目であるとしています。
わたしはこのように皆さまと確認しながら、「この後」というこの接続詞ですね。これは何の「この後」なのか。これは前回大切なこととしてお開きいたしましたが、トマスに現れてくださったエピソード、それが、そしてそれを承けてヨハネの福音書は本来20章の30、31節で締め括られてもすこしもふぃしぜんではない。この書に書かれていないけれどもイエスさまがなさった他の多くのしるし、どうしてわたしがこれを書いたのかというならば、イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるため。そしてあなた方がイエスの御名によっていのちを得るためであるとこのようにまとめて、この後も、もう一度このことを確かにするために、このことはどうしても書いておきたいということで、ヨハネが新たにページ数を加えた、つまり、この後というのは31節にあるように、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」わたしはこの21章のエピソードを加えたのですよ、とこういうように受け取るのが自然でしょう。
マタイ、マルコ、ルカ伝は共観福音書といわれ、同じ視点からイエスさまのご生涯を書いています。しかしヨハネ伝はそれらとは異なった独自な視点から書かれている弟四福音書です。ヨハネが生涯を締め括るにあたって、どうしても書いておく必要を覚えた重要項目は、ヨハネ伝20:31にある「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」というこのことでした。敢てヨハネが書かねばならなかったほど、実は、イエスが神の御子であることを否定するような風潮、説が流布しはじめていた。ヨハネはそれに非常な危機感を抱き、ここでしっかりと楔を打っておかねばならないとヨハネの福音書を記し、尚、20章でヨハネ伝を締め括っていいところのものに21章を書き足している。これだけはどうしてもと記しておいたわけです。
このヨハネは、福音書の他にヨハネ第一、第二、第三の手紙を書いています。これらは福音書を書いた時代背景と同じく、イエスさまが神の御子ではないとする見解が跋扈していた。それに対してヨハネは、いや、わたしはこの目で見、触った、即ち神のことばイエスさまであるということを力説したわけです。流布していた異なった教えとはグノーシス派のことです。「グノーシス」を聖書事典で調べました。グノーシス派の最盛期は紀元後130年頃。ルーツはギリシャ哲学。大きな特徴としては善悪二元論を唱える。イエスさまがほんとうに神であり、イエスさまは人であったとするなら、霊なるものは善であり、肉なるものは悪であるという考え方を持つと、そういう二元論というこれは誤った考え方ですけれども、そういった理解をしますと、イエスさまが、まことの肉体を持たれたと主張することは罪人とおなじ。つまり肉そのものは霊に対して肉、霊が善であれば肉は悪という考え方となり、どうしてもイエスさまが悪というような立場にならざるを得ない、それはならないというわけで、実は肉のように見えただけであってというような理解をせざるを得なくなってくる。そのように見えるとする仮現論或いはドケティズムと表現することがありますが、そのように見えたのだといったような色々な考え方がヨハネの時代、紀元後130年頃に全盛期を迎えていた。ヨハネは、紀元後100年頃にこのヨハネの福音書を書いているわけで、非常な危機感をもって、グノーシスに楔を打ち込んだのです。強い使命感をもって、20章の30、31節を書き記したでしょう。
イエスが神の御子ではないといった考え方、これはいつの時代にも私たちを取り巻く世界の中に、これから先にも存在し続けます。その時代特有の文化という、科学という麗しい衣を纏って。キリストだけが神ではない、他の聖人たち、幾多の宗教もみな昇る天は異なるけれども同じ神さまだと人々が迎合してゆくとき、私たちが惑わされてはならないことは、「イエスを誰というか」、それなのです。ヨハネがあの時代、グノーシスの脅威に立ち向かい、バチーンと楔を打ち込んだような取るべき姿勢とは。マタイ16章にペテロの信仰告白があります。イエスさまが、15節で「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と訊かれたときに、16節で シモン・ペテロが答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです」。イエスさまは問い質すことで、シモン・ペテロからこのような信仰告白を引き出したのです。そして「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」とイエスさまは仰いました。
そのあと、イエスさまがご自分が「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」ことを語ったとき、ペテロが、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と申し上げた、するとイエスさまは、さきほど合格点を与えたペテロに非常に厳しいことばで「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、あの愛に満ちたイエスさまが大変厳しくペテロに対して言っています。イエスさまは、ご自分が神の御子であることを否定する蟻の一穴をも許さなかった、その厳しさ、その真実さ、それを私たちは忘れたくありませんし、その厳しさをヨハネは持っていたのです。
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