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きょうのことばー『主の栄光のあらわれた宴』

 日曜日には、心の糧となるものをお届けしたく願い、キリスト教会の聖書からのメッセージをお送りしています。
 きょうこの教会では午後に結婚式がありました。東京在住の若いおふたりが来盛。この教会で結婚式を挙げたのです。私はきょうは家の事情で午前の礼拝はICレコーダーに録っていただき、午後からの結婚式に出席いたしました。神さまの見まもりによる幸いをお祈りしたことでした。

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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の國光勝美牧師のメッセージは、
説教題 『主の栄光のあらわれた宴』
聖書箇所 ヨハネ伝2章1~11節

1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は、花婿を呼んで
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


 先週までの講壇はヨハネ伝の連続講開でした。しかしきょうはご覧の通りの準備もできておりまが、午後から結婚式がございます。そこで、一旦連講を措きまして、それに相応しい聖書の箇所、ヨハネ伝2章のガリラヤのカナでの婚礼のお話しをいたします。午後の結婚式に、また、イエスさまがこの場所にお集いになっていることを心に留めながら恵みをいただきたいと思っているところでございます。

 イエスさまは多くの奇蹟を行われたことを皆さまはご存じです。それではイエスさまが初めて奇蹟を行ったのはと言えば、このカナの婚礼のとき、水を葡萄酒に変えたことでした。もっとも大きな奇蹟は復活です。数ある奇蹟のうちの初めがカナの婚礼だったのです。ややもするとクリスチャン生活
、教会生活というと、喜ばしい楽しいというよりも寧ろ厳格で堅苦しいと思われがちです。楽しみ喜びとは対極のイメージを持たれる場合が多い。しかし、イエスさまの奇蹟のいちばん初めは喜びの場所であったことを心に留め、福音というものは、イエスさまの慶びの奇蹟から始まったのだ、こう覚えることは大切な意味のあることだと思います。

 そして11節、イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。それで弟子たちはイエスを信じた。
 この最初のしるしが、ご自分の栄光を現わされた奇蹟であった。さあ、これはどんなことなのか。出来事はとても単純なおもしろい事件です。婚礼に招かれたと2節にございます。イエスも弟子達もその婚礼に招かれた。1節を見ますと、「イエスの母がいた。」とあります。ガリラヤのカナの婚礼では、イエスさまのお母様マリヤさんは迎える側にいた。そしてイエスさまとお弟子さんたちは、そこに招かれていた。ですからよほどイエスさまと近しい関係の方々が、これには色々な説があるようですが、それはそれといたしまして、非常に近しい人の喜ばしい婚礼の場所が舞台であるとわかります。しかしここで大変なことが起きたわけです。それは、ふる舞いのための葡萄酒がなくなってしまった。当時の社会では、今の日本でも結婚式が何日にも亘るということがあるのかもしれませんが、この当時で、婚礼はだいたい1週間続いたようです。7日がふつうですが、14日間つまり2週間祝宴が続くということもあったようです。

 いずれにせよ、喜ばしい婚宴でみなが楽しんでいるときに、葡萄酒がなくなったのです。まだまだ祝宴がつづくというのに。さあ主催者側としては大変なことになってしまった。「母がいた」とありますから、マリアさんは宴の主催者側にいたわけです。それがこの緊急事態。さあ困った、どうしましょう。そこにイエスさまがいたわけですから、マリヤさんは、イエスなら何とかできるだろうとこのピンチをイエスに告げます。ところが4節を見ると
イエスは母に言われた。私は「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」。こうおっしゃっている。捉えようによっては、随分冷淡であるとおもわれますが、きょうは詳しくは省略しますが、これは決して冷たく突き放したのではありません。それは心に留めておきましょう。その証拠に5節で、お母さんのマリアはこういっています。
「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
 お母さんのマリヤは、このイエスさまのおことばの背後に、必ず大きなわざを起こすに違いないと確信していた。だから舞台裏で手伝っている人たちに、「イエスが言われることを何でもしてやってくださいね」と頼んでおいている。
そして6節以降
そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
 これはきよめの儀式に使う水であり、婚宴に集われる方々の足を洗ったり、またこれは汚れている足を洗うというだけではなく、むしろそれが一つのしきたりであって、足を洗ってから宴席に入るという慣わしに使う水でもあったのです。
そこでその水瓶が6つ置いてあった。7節でイエスは仰る。
「水がめに水を満たしなさい。」と。彼らは「言われた通りに水瓶の縁までいっぱいにした」。水を入れたのです。そのことを彼らはよく知っているのです。

 その次にイエスさまは彼らにこう言われました。8節「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」さあどうでしょう。汲んでいく僕はこれが水であることを知っているわけです。しかしあの方が言われることは何でもその通りにしてあげてくださいと言われて、その僕は宴会の世話役のところにそれを持っていったのです。さあ、9節、「9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は、花婿を呼んで
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
」これは吃驚した。もう十分にのんだそのあとに極上の葡萄酒を用意しておくとは、なんというすばらしいことか。ピンチが逆転満塁ホームランのような素晴らしい勝利のそれになったわけでございます。

11節、「 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 私はきょう、ただ一つのことをお話しをさせていただいて、メッセージを締め括らせていただこうと思っております。それは、その新家庭にイエスさまが招かれている家庭である。これは何と幸いなことでありましょうか。その家庭にイエスさまが招かれているときに、いえその家庭にイエスさまがおられるときに、たとえ思わない困難や試みがやってきたとしても、必ずイエスさまはそこにおいて栄光を現してくださる。もしこのピンチといわれるときに、この危機に際して、どうしてもっと準備しておかなかったんだ、こうなることはわかってたじゃないか、誰の責任だなどというように、普通ならば、そのような裏に於いてああでもない、こうでもない、というようなことばが交されても当然かもしれない。しかし、その家庭に、イエスさまが招かれてイエスさまがおられるときに、たとい不測の事態が起ったとしても、実はそれこそ神さまの栄光の現れるその源となる。この一つのことを、私はきょうみなさま方に、既に家庭を築いておられる方、或いはこれから築こうとしておられる方々、その家庭にイエスさまが招かれているかどうか、それが鍵です。イエスさまがおられるときに、たとえどんなことがあったとしても、実はそれこそ主の栄光が現れるその始まりとなる。そのことを心に留めさせていただきたいと思います。

※編集の都合上、若干割愛してございます。文責:中ぶんな

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