きょうのことばー『復活の主とトマスー2』ーヨハネ伝連講(115)ーその2
※前ページのつづきとなっております。
イエスさまに、「私の主。わたしの神。」とこたえたトマス。
「私の主。わたしの神。」、これを、ある注解者は、旧約聖書に於けるあのユダヤ人たちが、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神を主と呼んだと同じ呼び方であるとします。トマスはこのとき、ほんとうにあのアブラハムの神、そしてダビデの神、その主としてイエスキリストを告白したのです。聖霊を受けて初めてイエスを主と告白できるのですが、このときに初めてトマスのうちにその業が成されたように思うのです。真実に悔い改めて、そしてイエスさまに扱っていただくとき、改めてもういちど、深い意味で、「ああ、やっぱり、あなたはあなたでした。」と頷きがくるものでしょう。
話は飛びますが、8月の東北聖会北聖会で、竿代忠一先生がヨブ記からお話しくださいました。ヨブほど神をおそれ神に仕えていたものはなかった。にも関わらずヨブには想像もできなかった言いがかりのような罠に落とされ、災いが次つぎと襲いかかってきました。
私が神学生時代、ヨブ記を教えてくださったのは竿代忠一先生でした。その講義の中でいまでも忘れることができないのは、先生が、「ヨブの質問に対して神さまは答えておられない」と仰ったことです。けれどもヨブは心底から我が主、我が神という神さまの捉え方ができた。そのことを思うのです。
私たちが思わない課題に直面するとき、もういちど神さまに扱われて、「我が主。我が神。」と告白できる者でありたい。いったいどうしてこんなことが起きるんですか? という質問には、神さまは答えてはおられない。しかし、神さまはそんなときに、「ほら、わたしだよ、わたしがここにいるよ」といってヨブは神さま御自身の顕現に触れて、「もう私は神さまの御前に口をつぐみます。やっぱり、あなたはあなただったんですね」。これで十分。これがヨブ記なのだというように仰いました。
どうか私たちの信仰生活の中で、信仰がわからなくなるときがあるかもしれない。そして恵まれた仲間の中にいることや、仲間の励まし諭しさえも素直に受け取れなくなることがある。しかしイエスさまは、そのトマスをしっかりと受けとめて、発した言葉も思いもぜんぶ扱ってくださる。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
これはイエスさまのおことばですが、ある人は、このトマスの質問があったがゆえに、このトマスの存在のゆえに、イエスさまからこのようなすばらしいおことばが引き出されたといっています。
「見ずに信じる者は幸いです。」というこのことばは、お弟子さんたちの時代から営々続いて今日、私たちクリスチャンに語られる珠玉の祝福のことばであるという注解があります。幸いです。私たちは直接このお方を見ているわけではありません。しかしイエスさまは、トマスに言われたように、或いは私たちに、「見ずに信じる者は幸いです。」こう語りかけていてくださるのです。
※昨夜のうちに大方はレコーダーから起こしたのですが、パソコンの不具合により、最初から起こしなおした事と、また今日になり誤って28日のページを消してしまったために、なかなかすっきりとした形で作成できなかったことをお詫び申し上げます。
編集の都合上、前回の復習の部分は削りました。またお話しを文章にしますので、編集してあります。ご了解ください。
文責:中ぶんな
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