きょうのことばー『復活の主とトマスー2』ーヨハネ伝連講(115)ーその1
日曜日はその日に聞いた教会の説教を書かせていただいております。
さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは、
説教題 『復活の主とトマスー2』ーヨハネ伝連講(115)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:19~29(太字は聖書からの引用です)
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
前回に引き続きまして、復活の主イエスさまとトマスに焦点を合わせて、神さまからの語りかけと恵みをいただきたく願って居るところでございます。
きょう中心となりますのは、この24節からの部分であります。
12弟子のひとりでデドモと呼ばれるトマスが、イエスさまが聖霊を受けなさいと弟子たちに現れなさったあの日曜日の夜に、どういうわけか弟子たちといっしょにいなかった。トマスがいなかったときに、聖霊を受けなさいというよみがえった主イエスさまの語りかけがあった。弟子たちはよろこびに溢れました。そのあとで、トマスが弟子たちのところにやって来た。弟子たちは、トマスに口々によみがえりを伝えようとしたでしょう。「トマスくん、わたしたちはこの目で復活したイエスさまを見たんだよ」。トマスも12弟子のひとりですから、これまでずっと彼らと行動を共にしてきている。しかし、どういう理由かはわかりませんが、イエスさまが現れなさったときにトマスはそこにいなかった。仲間から話を聞いても、トマスは、25節にあるように、実際に確かめなければ信じられないとこたえている。
手元の注解書によると25節のほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言ったというこの「言った」ということばには、「幾度も繰り返して言った」という意味があるようです。弟子たちは奇想天外な凄い経験をしたわけです。ところがそこにはいなかったトマスには、そう簡単には信じられなかったでしょう。そのトマスに、弟子たちは何とかして分かって欲しくて言葉を尽くした。しかしやはり残念ながらトマスは、「信じられない」と他のお弟子さんたちを否定してしまった。
蔦田二雄先生がヨハネの連続講開で、トマスがそのときどういう状態であったかに触れられたことがあります。聖書には書かれていませんが、これをもとに類推してみました。 ヨハネ伝14:5で、トマスはイエスさまにこう言ったことがあります。5 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」。このトマスの質問に対して、6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。このように、トマスの質問は、イエスさまのすばらしい応答を引き出しています。トマスは決して不信仰な人物ではなく、自分が思ったことを率直に主に申し上げる愛すべき人物です。簡単に懐疑主義者であるというレッテルを貼ることはできないでしょう。このトマスが十字架刑を目の当たりにして落ち込んでしまった。人は落ち込むと、孤独になり自分の殻に閉じこもってしまうことがあります。誰にも会いたくない。ですから、もしかすれば、このトマスが、弟子がみなが集まっているときに、そこに行かなかったのは、恐らく失望と落胆で落ち込みどこにも行きたくなかったからとも考えられます。これを私たちの信仰生活にあて嵌めてみましょう。クリスチャン信仰生活を誠実に送っているのに、時としてトマスが経験したような絶望的なできごとに直面することがあります。かつては、ともに励まし合った仲間たちとも顔を合わせたくなくなる。落ち込み、身を引いてしまうことがあり得る。トマスの状態をこのように想像しますと、私たちとそう変わらない近しさを感じます。
しかしトマスは結局弟子たちのところに戻ります。事情はどうあれやはり自分の身を置くところは弟子たちがいるここ以外にはない。そしてもどった彼を、仲間たちはあたたかく歓び迎えます。「トマスくん、僕たちイエスさまに会ったんだよ!」、こんな恰好だった、こんなようすでとまだトマスが見ていないよみがえりのイエスさまを詳しく説明したでしょう。しかし自分が落ち込んでいるときに、幸せそうな人を見たりそんな話を聞いたりすると、往々にして人は反発するものです。これはわかる気がします。「そんなことあるもんか、僕は信じない、信じてなんかやるもんか」 いう心境にもなる。勿論蔦田先生の注解にこのような書き方はしていませんが、トマスがどういう気持でこのとき仲間たちのあいだに居たかを想像するのには十分な光が与えられたと思いました。
トマスの中には相矛盾した心が同居しているようです。ひとりでいたい。仲間のところへは行きたくない。けれどもとてもひとりではいられない。やはりいるべきところはあそこだと仲間たちのところに行く。けれども活き活きしている仲間たち野中で疎外感を感じてしまう。なかなか素直になれないトマス。そこで「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と虚勢を張ったのかも知れない。しかし彼はわかっている。3年半もイエスさまにともに仕えたお弟子さんたちが自分を騙すはずがない。ほんとうのことを自分に伝えようとしている。わかっている。わかっているけれども素直に信じきれない。こうしてみると私たちのすがたを代弁するようなトマスのようすです。
さてそれから8日経ってから、「弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた」。ここではトマスもみんなといっしょにいます。自分の居場所がある。たとえ心境は最悪でも仲間たちのところに身を寄せている。おそらくこのときトマスは、ペテロ、ヨハネ、その他の弟子たちに言ってしまった数々を反省したでしょう。それでもトマスは思ったでしょう。「僕に現れてくれたなら信じるよ」と。仲間のいうことにウソはないだろう。だけど実際に見て確かめないことには。そしてやはり一方では自分の取っている態度を何度も神さまのまえに詫びて、自問自答しながら8日間を過ごしたのではないでしょうか。
トマスは懐疑主義者であるとよくいわれます。一般の方々に福音をお伝えしようとすると、「復活がわからない」、「奇蹟が信じられない」とおっしゃいます。これがあるから信じられないと世の中の多くの方々は言います。ほんとうにそうでしょうか。わたしは、トマスのように触ってみなければ信じない、信じたい、信じたいけれどもわからない部分があってイエスさまを受け入れることができない。心のどこかでこのままの自分ではいけないという部分がわかっていて、わかっているんだけれどもわからない。多くの人たちは分かったら信じるといいますが、わかっても信じたくない、わかっても信じないのです。信じたくないのです。理屈では処女降誕が、復活が信じられないといいますが、ほんとうのその人のあり方とか罪という問題を触られたくないのです。
トマスの場合は8日のあいだ、25節に書かれてある自分の言ったことばが絶えず心の中に繰り返されていたでしょう。何ということを言ってしまったのだろう。弟子たちにも素直になれない不信仰、頑なな自分というものに光が当てられていたのではないでしょうか。ただ単純に26 八日後にとあるのではないでしょう。
8日後にトマスが仲間たちのところにいたときにも、やはり前とおなじように戸が閉じられていたのです。ところが、
イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」
このように仰った。これは何を意味するのでしょうか。私たちがトマスのようにある問題に躓き、神さまなんかいるもんか、神さまいるならどうしてこんなめにあうんだ、そんなときに発したあの言葉この言葉を、イエスさまはよく御存知であられる。決してトマスが反逆的に信じないといっているわけではない。信じたいんだけれども信じることができない。それをイエスさまは「わかるよ」、こう仰って扱ってくださる。現実の信仰生活で、どうして! というとき、神さまがわからなくなって発することば、態度をイエスさまはよく見ておられる。そしてクリスチャンなのに神さまを信じているのにどうしてあんな言葉を言ってしまったのか、と悔い改めるときに、イエスさまはちゃんと「平安があなたがたにあるように」こういってくださるのです。トマスはそんなイエスさまに言いました。「私の主。私の神」。これは旧約聖書の経緯からいえば、「やっぱりあなたはあなたでした」という意味です。
-つづくー
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