« あすは日曜日ーバッハー | トップページ | 姑の命日 »

きょうのことばー『復活の主とトマス』ヨハネ伝連講(114)ー

 日曜日は自分の復習も兼ねて、キリスト教会のメッセージをICレコーダーから起こし掲載させていただいております。

Scan10006_2
 さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは、

説教題 『復活の主とトマス』ーヨハネ伝連講(114)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:19~29(太字は聖書からの引用です)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し込んでみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じるものになりなさい。」
28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」


 先週は教会員のみなさま方のお祈りとご協力を頂戴しまして、予定しておりました結婚式を無事に執り行うことが赦され、また感謝会も御前に歓びのうちに開くことができました。主にあって心から感謝、御礼を申し上げます。
 前回はヨハネの連続講開を措いて、カナの婚宴からお話しましたが、きょうは、またヨハネの連続講開を続けます。

 19節に
「その日、すなわち週の初めの日」とありますが、これは日曜日のことです。イエスさまは真っ先に遊女であったといわれるマグダラのマリヤに復活した御自分を現わしましたが、これが日曜日の朝であった。これで福音のすばらしさがわかります。福音が、先ず、社会に認められず、蔑視されているような人たちに提供されている。あのクリスマスに、よき訪れは、先ず、羊飼たちに知らされたことを思い起こします。よみがえりも、先ずは、マグダラのマリヤにだったのです。そしてまたルカ伝を見ますと、主は、エマオ途上のお弟子さんたちにもよみがえりの御自身を現わしています。しかし弟子たちはその不思議な人物がイエスさまだとは気づかずに、墓に葬られたイエスさまのご遺体が消えたことなど耳に入った情報を話して聞かせている。マリヤにしても最初はわからなかった。このようにイエスさまというお方は、私たちがまだ気がつかないうちに、既に御臨在を示していてくださる。私たちの方が、それに気づかなかったり目が開かれていなかったりする。ひとたび目が開かれれば、この不思議なお方は、試練のまっただ中こ近づき、「私だよ恐れることはない」と語りかけてくださるのだと思うことであります。
 
19節「その日、すなわち週の初めの日」、弟子たちが一つ所に集まっておりました。そしてその中によみがえりの主が現れてくださいました。週の初め日に私たちは教会に集まっております。いつ頃からこのようになされたのか。そもそもユダヤ教の人たちの安息日は日曜日ではなく土曜日でした。クリスチャンたちが、日曜日に集まるようになったきっかけは、よみがえりのイエスさまにお会いしたのが日曜日であったことでした。マグダラのマリヤがそうでした。私たちは日曜日にただ習慣的に教会に集っているのではない、その契機は、日曜日の朝に復活のイエスさまにお会いしたという出来事であったことを心に留めておきたく願うものです。

 19節に「平安があなたがたにあるように。」とイエスさまが挨拶をされている。シャローム。これはユダヤの人たちの間では、「おはようございます」、「こんにはは」、「おやすみなさい」といった日常的な挨拶のことばです。ですから聖書にも、「平安があなたがたにありますように」と訳してあります。まったく自由な立場での個人訳も、「こんにちは」、「こんばんは」というように訳してある。しかし多くの注解者はそれを正しい翻訳と認めてはおりません。たしかにそれは一般的な挨拶の言葉ではあるのですが、ここでは明らかにそれ以上の内容を持っている。決して、「こんばんは」とか「こんには」という気分でイエスさまが弟子たちの前に立ったのではない。
 「平安があなた方にあるように。」という意味は、 
 参考にヨハネ伝27章27節にはどうあるか。

27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。
 
ここのところは、イエスさまが、「やがてあなた方から離れていくときが来る、だけれども、わたしはあなたがたに平安を与えるのだ。だからだいじょうぶ。わたしはわたしの平安を与えるのだよ。だからだいじょうぶ」とでもいうように不安に戦いているお弟子さんたちに幾度も繰り返してイエスさまが「平安を残す」、「平安を残す」と約束してくださっている箇所なのであります。

 そうです。20章19節にあるとおり、お弟子さんたちは恐れおののき、失意落胆のどん底にありました。こんどはユダヤ人たちが自分たちを捕え、酷い仕打ちをするに違いない。戸を固く閉じ鍵をかけていた。そんな心境にあった弟子たちに、イエスさまは、「こんばんは」と現れるはずがない。「シャローム」、「平安があなたがたにあるように」。ほら、わたしでしょう。わたしはあなた方に平安を与える、平安を残すといったでしょう。平安があなたがたにあるように。そして20節、「こういってイエスはその手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ」。「ああ、イエスさまだ、よみがえられたお方だ」という喜びをもう一歩深めますと、イエスさまはその手と脇腹を彼らに示されたという事実です。つまり十字架の贖いという大きなイエスさまの試練、十字架の意味をイエスさまが格別にここで示されている。、確かに「イエスさまはよみがえられたのですね」というただそれだけでも大きな恵みではあるのですが、しかし、それを一歩超えて、ここで弟子たちは、このイエスさまの十字架の意味、世の罪のために、神の小羊として神の裁きを受ける十字架の贖いをなすために御苦しみを受け、それがまさしく全うされたイエスさまのお体を見て、「弟子たちは主を見てよろこんだ」のです。
 そして、21節に「イエスはもういちど彼らにいわれた」と続くのです。「平安があなたがたにあるように」。これだけ改めて「あなたがたに平安があるように」と二回も、しかも十字架の贖いのしるしを弟子たちに敢てもういちど確認をさせて、「平安があなたがたにあるように」といわれたのは、諄いようですけれども、ただユダヤの人たちの挨拶のことばではない。
 イエスさまは彼らにもういちど「平安があなた方にあるように」と、ヨハネ伝14章にある十字架に赴く直前にイエスさまが語られた数々を確認をさせてくださったと見るべきでありましょう。

 さてそしてもうひとつ大切なことは21~23節のイエスさまのおことばです。
「父が私を遣わしたように、わたしもあなた方を遣わします」

 これは意味のあることばです。私たちクリスチャンは、ひとりひとりがイエス様から派遣されているものである。父なる神さまがイエスさまをこの世に遣わされたように。その使命を私たちに託してくださっている。父から遣わされたイエスさまは、「使命を無事に果たして成しおえました」と40日後に天にお帰りになり御座に着座されたお方です。その証しとしてのペンテコステでした。聖霊が弟子たちに与えられてキリスト教会は誕生していった。あの聖霊が天からくだされて教会が誕生し、そして福音が教会を通してのべ伝えられていく。そこに当然のことながら、教会の権威というものが付随してくるわけですが。何かこの21~23節がペンテコステのできごとに似て、或いはそのミニチュア版なのか。ミニチュアというと、本物ではない、模型のようなという意味を持つのですが。
 使徒の働き2章に書かれているあのペンテコステの出来事。世界各地から集ってきた人々が、「われらがこの大いなる見物を見た」という、これはいったいどういうことか、世界中の国がイエスさまの御業をそれぞれの国の言葉で聞く、そして人々は悔い改めてその日に弟子に加わったもの3000人あったというような大きな出来事、これはミニチュア版といっていいのだろうか、それとも、本質的にあのときとまったく同じことがすでに成されたと見ていいのでしょうか。わたしは、この21~23節のおことばは、使徒の働き2章のあの出来事の予告編と見るにはあまりに大きなこと、これはペンテコステの出来事そのものであるというように受けとめてもいいのではないか。今日の私たちにとって、むしろそのように理解したほうが多くの祝福をいただけるように思うのです。つまり私たちはみな使徒の働きの2章のような出来事を経験するのが聖霊に満たされるということであり、よく言われるきよめの経験、ペンテコステ聖霊に満たされるということはあの使徒の働き2章の経験なのだとすぐに直結してみるよりも、むしろこれは極めて小規模な限定的な、個人的なそういう扱い方。ああそうか、もしこれがペンテコステの出来事と本質的に同じなのだと見るなら、これはいま私たちにも適応できる事柄ではないか、そのようにこの22節からをあじわって見ますと、「こういわれると彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい」、これは、あの創世記の2章において、地の塵から神の形に似せて造られ、そこに命の息が吹き込まれ、そのとき人は生きるものとなった、それと同じように、イエスさま御自身が私たちに、新しい命を吹き入れて「聖霊を受けなさい」と仰る。これも前回申しましたが、受けなさいということばの意味が、ただ受け身的に、雨が降ってくるのを地面が受けるように受けなさいではなくして、むしろ意志的にそれを受け取るのです。「あなた方は力を受けるまでは都に留まっていなさい。あなた方は間もなく聖霊を受けます」。そうです。まさにそのとき、弟子たちにさあ、あなた方はそれを積極的に意志的に受けなさい、こういわれたのです。

 ヨハネ伝20章23節「あなた方が誰かの罪を赦すならその人の罪は赦され、あなた方が誰かの罪をそのままのこすなら、それはそのままのこります」。これは非常に厳粛な、畏れ多いイエスさまのおことばです。私たちが誰かの罪を赦すなどということができるのでしょうか。或いは誰かの罪をそのまま残すことなど私たちにはできるのでしょうか。戸惑います。しかし聖書の、イエスさまのおことばですから、これはいったいどういうことを意味するのだろうか、これはまさに福音の真理です。イエスさまは私たちに罪の許しをそして悔い改めを人々に教えるところの福音をわたしたちに委ねてくださった。それはイエスさまが、父なる神さまから負わしめられた御目的でもありました。その福音を私たちは受けて、その同じ権威をもって、つまり教会の権威というのはこのことだと思うのです。これをたとえば、誤った教会の権威というものを理解してしまいますと、たとえばペテロの、私はあなたに天国の鍵を与える、あなたがこれを閉じるのなら、またこれを開けるのならという、マタイの16章はしばしば心に留めるところですが、果たして教会の権威というものは何なのだろうか。汝はペテロなり。ペテロに天の鍵が与えられる。そのペテロの後継者はローマ教皇であった、そして、その使徒的権威が代々ローマ法王に受け継がれ、教会の権威であると理解されるなら。実際に歴史上に於いてもローマ法王に破門されるということは、即ち永遠の滅びを意味しており、破門を恐れてその権力者に従わざるを得ない時代もありました。果たしてそういう権威をいっているのだろうか。そうではない。マタイ16章18~
18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれています。」
 このペテロに与えられたおことばが、ヨハネ伝19章を見ますと、これが決してペテロにだけ与えられたのではないということがわかります。
 ですからこの一事をみてもローマカトリックが天国の鍵をペテロが持っていると主張するのは、これは聖書の全体的な理解から見て誤りだと言わざるを得ません。なぜならヨハネの19章のところにペテロとは書かれていない。「教会に与えられている」と書かれている。教会にというよりは弟子たちにと。では弟子たちのこれは何なのか。それは聖霊を受けよとイエスさまがあのお弟子さんたちの中に立って言われたその人たち、つまり福音の真理ということこそ権威である。誰かが、或いはこれが教会という一つの地上組織が何か権威というものを負わしめられているというように理解するのではなくして、「あなた方が誰かの罪を赦すならその人の罪は赦される」というこのおことばは、聖霊を受けて福音の真理というものが、つまり、イエスさまの十字架の御手と御腋のあの贖いの事実というものを、そしてこれ以外に救いはない、神の御子が命をかけて贖いをなしてくださったこれを信じる意外に道はないというこの福音の真理こそ権威を持っている。真理こそ権威を持っているものであって、それを私たちはしっかりと保持していかねばならない。そして保持をしているからこそ、「あなた方が誰かの罪を赦すならその人の罪は赦され、あなた方がだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」。真理をしっかりとへりくだって神さまの前に受けている、贖いの恵みの真理をしっかりと保持しているところこそ、まさにそれこそが教会である。それこそ教会の権威であるということを私どもは心に留めたいと思うのであります。
 きょうはおもに前回の復習のようになりましたが、次の機会にまた24節のところに入ってゆきたく願っておりますけれども、このトマスという人物がイエスさまの復活の場所にいなかった、何の理由であったかはわからない、しかしここは説教者のさまざまな空想を掻きたてるところでもあります。サムエル・チャドウィックというメソジストのジョン・ウェスレーの流れを汲む名説教者が欠席者という説教をそんなところからしております。週の初めの日にみんなが集まっているときに、そこにどんな理由があったとしても、そこに集まることができなかったトマスという人物。またこのトマスという人物が非常な懐疑者であった。わたしがその疵の中に指を入れるまで信じないと言った。しかし彼がいたからこそイエス・キリストの復活というものが、ほんとうであったという証拠となったと見ることができるでしょう。いずれにせよこのトマスという人物にこの次は焦点を合わせて見ていきたく願っております。

※編集上、短くするために省略した部分がございます。
 文
責:中ぶんな

|

« あすは日曜日ーバッハー | トップページ | 姑の命日 »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: きょうのことばー『復活の主とトマス』ヨハネ伝連講(114)ー:

« あすは日曜日ーバッハー | トップページ | 姑の命日 »