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きょうのことばー『聖霊を受けなさい』ーヨハネ伝連講(113)ー

 このブログでは、日曜日には、いまのような社会にあって心の糧ともなるものをお送りしたく願い、また自分自身の反省や建て直しのためにも自分が聴いたキリスト教会の牧師の説教を書かせていただいております。

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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは
説教題 『聖霊を受けなさい』ーヨハネ伝連講(113)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:19~23(以下の太字は聖書からの引用です)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

 この夏の東北北聖会も無事に護られ、また同日山形でも南聖会が行われ祝されたと連絡を受け、心から感謝しております。
 会堂の外に出ますと、むんと蒸し暑い。こういう日には条件反射のように東京の丸の内教会を思い出します。丸の内教会は新国際ビルの9階にありました。全館閉館となる日曜日に9階だけを特別に開けて貰っていたのです。守衛を通過するにはIGM(インマヌエル綜合伝道団)の誰それと氏名記入をいたしました。休館ですから冷房も入りません。はめ殺しの窓です。むんとする暑い一室で礼拝をまもったのです。平日を避けて作業をする窓ふきの方々が屋上から吊されたゴンドラで降りてくるのが窓に見えました。こちらがびっくりし、あちらも想定外の者たちに驚きながらも仕事をつづける、そんな場面がありました。
 夏も寒い日も神学生たちが礼拝の1時間前にやってきてマイクをセットしたり椅子を並べたり床拭きをします。神学生と同じ時間にやってくる山崎さんというおじいちゃんがいました。神学生と一緒に会場設置を手伝います。山崎さんは、讃美の練習をしている先生に近づき、「永井さん、きょうはいいねぇ~」といいながらまた雑巾掛などを手伝います。
「山崎さん、もう私たちがやりますから」と神学生が言いますと、山崎さんは言いました。
「これが楽しみなんだ。神の家を掃除するのはいちばんの喜びなんだから」
このようなことなども懐かしく思い出されます。
 蒸し暑い日には蔦田総理(当時の代表の名称)の説教が短かからんことを願うわけですが、総理の説教は、11時頃から始まり12時15分まで、或いは12時半、或いは1時を過ぎたこともありました。
 蒸し暑いきょうです。わたしも皆さまの期待に応えますならば、メッセージはできるだけ短く、且つ恵みのあるメッセージがよかろうかと思われますが。

 先回はマグダラのマリヤのところを2回お話いたしました。特にイエスさまが、アラムのことばで「マリヤ」と呼びかけなさった。そしてマリヤが神さまに対する呼びかけにふさわしい「ラボニ」と最大の尊敬を払ったことばでイエスさまにこたえている。またヨハネ20章17節でイエスさまが「わたしにすがりついていてはいけません」と仰った意味をお話させていただきました。「触ってはいけない」と訳されてものもございます。しかし「すがりついていてはいけない」というのは非常に意味のあることばでございまして、イエスさまが復活をされて天にお帰りになり神さまにその託された御業を成し遂げましたという凱旋の報告をする途上にあるわけです。それを敢て妨げるように「すがりついていてはいけない」という意味であり、決して触ってはいけないという意味と取るのではなく、しがみついてもう行かせない、いつでもここにいてくださいというようなマリヤの思いというものに対してのおことばであるというように前回語らせていただきました。 ーつづく(以下に書き足しとなります)ー

  ヨハネ伝20章18節「マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

 「わたしは主にお目にかかりました」。ほんとうによみがえられた主と、私たちが出会ったなら、それを自分の心にだけ留めておくことは到底できないでしょう。この福音を誰かに伝えずにはいられない。もし伝えずに平気でいられるとすれば、福音をほんとうに把握しているのかを考えねばならない。人類史上最大のこのメッセージを自分の胸にだけおさめて、平気でいられるはずがないのです。それが福音の持っている本質だと思うとき、今日のヨハネ伝20章19節からは、まさにそれと深く関わっていることなのであります。

 「19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった」。その日とは、マグダラのマリヤが朝に復活されたイエスさまのお墓にいった日なのですが、この日曜日の夕方に、19節以下に書かれていることがあった。弟子たちがいた所では「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」。欄外の注釈は「かぎをかけられていた」。ユダヤ人を恐れて扉にはかぎがかけられていた。失意、恐怖のどん底にいたのです。一方、ルカ伝のエマオ途上のお弟子さんたちはといえば、道々ともに歩いた誰かもわからない人物から聖書の話を聞いているうちに日が暮れ、強いて一緒に泊まってもらう。この人物が食卓でパンを裂いたときに、目の前にいる人物がイエスさま御自身であることにやっと気づいたのでした。ふたりの弟子はエルサレムにとって返した。「弟子たちがいた所に」。エマオ途上あの復活されたイエスさまにお会いした弟子たちはここに帰っていったわけです。ふたりが帰るまえは、ペテロ、ヨハネたちは、墓が空っぽだったのを見ている。けれどもそれがイエスさまの復活であるというところまでは思いが至っていない。だからお弟子さんたちは落胆と恐怖のなかにあった。これは11使徒たちだけではありませんね。つまりその仲間たち、さらに拡大解釈すれば、これは決して使徒たちだけのところにイエスさまが19節以下のできごとを現わしたのではなく、私たちひとりひとりもある意味で含まれていると考えていい。よみがえったイエスさまは音をたてて扉を開けたとは書いてない。恐れて戸が閉めてあった部屋の中に何とイエスさまが立って御自身を示されたんですね。これが復活のからだです。そして「平安があなたがたにあるように」、これからまた後で触れるところですがこのときに弟子のトマスはいない。どういう理由でかいなかった。

 イエスさまが仰った「平安があなたがたにあるように」。不安、恐怖そんなまっただ中にある弟子たち、或いはさjきほど申しましたように広くこれを解釈するなら、そんな逆境、試練にある私たちに、イエスさまは、「平安があなたがたにあるように。」こういって御自身を現わしてくださる真理を私たちに教えてくださっている。如何でしょうか、そういうときはないでしょうか。どうしようか。もうどうすることもできない。そんな中に、イエスさまは御自身を現わしてくださる。しかも、20節には「その手とわき腹を彼らに示された」とあります。十字架の疵です。私たちを愛して私たちのために命を捨ててくださったそのイエスさま御自身が私たちに示してくださるのはこれなのです。嵐に、困難に直面している私たちによみがえったこのお方は、「わたしはあなたを愛しているよ。その証拠を見てご覧」と御自身を示してくださって、そして「平安があなたがたにあるように。」「わたしは平安をあなた方に与えます。わたしの平安をあなた方にの残します」。こう語ってくださっているのです。弟子たちが主を見て喜んだとありますけれども、そういうときこそ主を見て喜ぶことができる。

 またしても同じ例話でおゆるしください。深い井戸に身をおくとき、その真っ暗な深い井戸の下から上を見るとき、星が見えると聞きました。他の人たちが他の場所にいたのならば、昼間星を見ることはできませんが、しかし私たちがひとり困難な中に残されたときに上をみるとき、ほら変わらずに見てご覧、ほら手のきずを見てご覧、あなたのためのこの十字架の脇腹のきずを見てご覧。ほら。弟子たちはこの主を見て喜ぶことができるのです。

21節「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。」、そういってよみがえられたお方は、22節「彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

「息を吹きかける」、「聖霊を受けなさい」、これは創世記で神さまが地の塵から人を造られたとき、人が生けるものとなった。そのときに神さまが命の息を与えてくださった、それと同じようなできごとを私たちに思い起こさせます。キリストにあるところの新創造です。息を吹きかけられ、聖霊を受け、新しく変えられるのです。これはまさにペンテコステの出来事と同じです。大いなる風の響き、そして炎の舌のようなものが分れてひとりひとりのうえに留まった。これはまさしくペンテコステのできごとです。イエスさまは私たちをこの証し人として派遣される。遣わされるのであるというこのことを自らに銘記しましょう。

 「聖霊を受けなさい」。ある注解者はこの「受けなさい」というところ、これを日本語の感覚でいいますと、神さまは待っているところに聖霊を満たしてくださるというのです。この「受けなさい」ということばは、聖霊を「受け取りなさい」というように理解するべきなのだ、こう指摘している注解があり頷いたことです。「受け取る」というのはこちら側の意志です。神さまのきよめてくださる業というのはすでに準備されている。それを有難うございますといって受け取ることは私たちの業です。イエスさまが「聖霊を受け取りなさい」、こう仰って、そして「父が私を遣わしたようにわたしもあなた方を遣わす」と仰った。聖霊を受けたとき、私たちは父なる神さまがイエスさまをお遣わしになったと同じように私たちの世界に遣わされるという大きな使命を受けている。マリヤはお弟子さんたちに「私は主を見た」と告げ、それを伝えざるを得なかったように、私たちもそうさせていただきたいと願うことでございます。

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