« 被災地の被災地による被災地のためのコンサートー宮古ジュニア弦楽合奏団 弟46回「音楽の夕べ」ー2011/8/7(日)15:30開演 陸中ビル3Fホール  | トップページ | 富士見橋より »

大正に発し、今に輝くー宮古ジュニア弦楽合奏団ー

 宮古ジュニア弦楽合奏団は、3・11東日本大震災による甚大な被害と闘い、2011年8月7日(日)に弟46回「音楽の夕べ」を開催いたします。昨年は創立50周年であり、宮古市民文化会館大ホールでの弟45回「音楽の夕べ」でした。そのときのプログラムに梅村ヴァイオリン教室の軌跡を短くご紹介申し上げました。2010年現在で書いてあります。それをそのまま以下に掲載させていただきます。写真は「月刊みやこわが町」ですが、梅村ヴァイオリン教室の歴史、存在意義をおもうとき、この合奏団は、何があろうとも存在し続けなければなりませんし、存在し続けるであろうと信じるものです。 

Scan10039

 宮古ジュニア弦楽合奏団創立五十周年というと梅村ヴァイオリン教室のスタートは昭和年代かなと思われるかもしれません。実は、梅村〝教室〟は、大正四年にはもう存在しました。盛岡市郊外旧太田村にあった弦楽四重奏団太田カルテットの主宰者梅村保氏がその租です。このカルテットは、幾多のコンサート及び文化事業をも企画した文化団体的特質を持っていました。驚くべきことに、当時、東京から音楽教授たちを一夏も招き、直接指導を受けていたのです。岩手はこのカルテットに多大な恩恵を蒙っているのです。

梅村保氏は、平成十九年、浦田敬三、藤井茂共著『岩手人名辞典』に、大正時代の音楽家として明記されました。氏は戸田一心流免許皆伝の剣豪であり、盛岡で、満州で、セロ、ヴァイオリンを教授し、どんな人々をも分け隔てなく慈しみ、人格者として慕われましたが、これが梅村精神なのです。終戦で帰国。音楽のバトンは宮古市に居を構えた梅村保氏の二男梅村功二先生に引き継がれました。どうしても子どもたちに教えて欲しいと再三願う親達に応えて昭和二十三年に今の教室がスタートしたのです。

後年、保先生の愛弟子であった村井正一先生が、梅村ヴァイオリン教室にヴァイオリン指導では定評のある板谷栄紀先生を繋ぎました。板谷先生にご縁のあった桐朋学園大学音楽部教授故久保田良作先生が宮古市に弟子達を引き連れて合宿し音楽交流を果たしたことがあります。これは実に、大正時代の太田カルテットが東京の音楽家達と交流があったという事跡に感銘されてのことでした。以降毎年、久保田先生は当時門下生だった川崎雅夫、安良岡ゆう、そして中島幸子、市橋哲哉、堀米ゆず子、加藤知子、長沼百合子、進藤義武、長谷部雅子、吉野薫の各氏を「音楽の夕べ」に送って下さったのでした。宮古ジュニアは、他に類例のない音楽的な刺激と雰囲気にあったのです。功二先生が幅広く発掘した多くの子ども達。そして不退転の決意をもってこの音楽の火を灯し続ける三代目梅村圭一先生の御指導と、板谷先生の応援の下に、伊藤奏子、古館由佳子、原田智子、久保良治の各氏らを輩出。平成にも尚音楽の楽しみに与る多くの方々が育っています。梅村家の四代目もみな音楽に関与しておられます。ご存じの通り、長女真美さん、二女智佳子さんは国立音楽大学御卒業。智佳子さんが教室を引き継いでいます。長男隆一さんは、ドイツのクレーフェルド・メンヒェングランドバッハ市立歌劇場のヴァイオリニストであり、デュッセルドルフにある日本人コミュニティのオーケストラの指揮者兼トレーナーです。

私は、およそ二十年前に二人の息子とともに功二先生からヴァイオリンを習いました。功二先生が余談に語る梅村保氏に興味を抱き、調べ、ついに保先生周辺を纏め一冊の著書『光炎に響く』(新風舎刊)を出版したわけでした。希有な出会いでした。いまだに温かな功二先生のお人柄、夕陽に煌めく閉伊川の河口が、教室の楽の音とともに懐かしく蘇ります。また「音楽の夕べ」に参加させて頂いた思い出は大切な宝です。

梅村家の音楽活動は、大正四年(大正六年という説もあります)に太田村に発してより実に九十六年の歳月が流れました。この間、どれほどに多くの方々が音楽の楽しみに与ったことでしょう。感慨深いことです。この喜びとともに五十周年記念「音楽の夕べ」に耳を傾けたく思います。

 

|

« 被災地の被災地による被災地のためのコンサートー宮古ジュニア弦楽合奏団 弟46回「音楽の夕べ」ー2011/8/7(日)15:30開演 陸中ビル3Fホール  | トップページ | 富士見橋より »

音楽」カテゴリの記事

コメント

自分と入れ違いで入団されたのですね。
功二先生(圭一先生が来られてからは大(おお)先生と読んでいました)には5年近く指導していただき、圭一先生(若先生と読んでいました)には以後、高校卒業まで指導して頂きました。

それまで板谷先生の指導するグループが音楽会のトリを務めていましたが圭一先生が戻られてからは、ジュニア自体で難しい曲にチャレンジするようになり、トリをジュニアの交響曲という形まで持って行かれました。

最初ベートーベンをやると聞いたときは驚きました(自分がやるということも含めてです)。
正直いって結構不まじめな生徒でレッスンと合同練習以外はあまり練習はしていませんでした。
古い家だったので音漏れが気になっていたというのもありますが・・・。

業界では結構有名らしい宮古ジュニアですが検索すると宮古島のジュニアが出てきます。
もうちょっとメジャーになってもいいと思うのですけどね。

投稿: ゴルディー | 2011年7月28日 (木) 21時39分

ゴルティーさん
私どもは61年3月に主人の転勤で宮古市に転居しています。6年間西が丘で暮しました。お世話になったのは後半。初めてお目に掛かったとき、功二先生69歳であられたかと。圭一先生が一階で御指導にあたられていることは、流れてくる音でのみ存じ上げておりました。

>それまで板谷先生の指導するグループが音楽会のトリを務めていました
板谷先生の御指導をビデオに撮るお母さんもいらっしゃいました。才能をのばしてくださる先生でしたね。それを私は十分に存じ上げております。直接お話しできたのは、功二先生のお葬儀の帰り、106号線のバスで、偶然にも隣の席に座らせていただいたときでした。

圭一先生が『運命』をなさったとき、ほんとうにあの会館に鳴り響いたときには、そのときには梅村家の歴史をかなり知っておりましたから、感に堪えませんでした。保先生が交響曲をいざたちあげるかという矢先に音楽界を引退。しかし実は演奏を果たしたかったその思い。そして功二先生にとっては、亡き父の悲願達成、また戦後にこうして自分が引き継いだ宮古ジュニアがここまで来たという感慨。

たしかに検索すると出てくるのは宮古島のほうですね。
宮古ジュニアには音楽性云々というものを超えたおもしろさがあると思っています。メジャーにというお考えにたいしては、まだ知られてはいないとしても、すでにメジャーであると申し上げたく思います。これは遠い先にみる幻とでももうしましょうか。
やがて必ずそうなる日が来ると私は信じます。

こうしてみますとまだまだジュニアについて知り得ていないことが多いと思っております。大方は活字からの収集です。特に宮古を去ってからの空白部分、埋めておくべきかもしれません。

訪問ありがとうございました。

投稿: 中ぶんな | 2011年7月29日 (金) 07時04分

第46回「音楽の夕べ」に参加させていただきました土屋響鼓と申します。梅村家の歴史について、中ぶんな様のコンテンツ、とても参考になりました。僭越ながら私のブログ記事からリンクさせて頂きます。これからも「宮古の音楽、音楽の宮古」の心の復興の旗手としてご活躍ください。素晴らしい文章、ありがとうございます。

投稿: 土屋響鼓 | 2011年8月10日 (水) 08時52分

土屋響鼓さま
7日にヴァイオリン演奏くださってたのですね。
心に残る演奏会、ほんとうに有難うございました。
このブログから一文なりともお役に立つことができ嬉しく思います。
土屋さまのブログも拝見。
もう「音楽の夕べ」動画が、この迅速さに!!!
わたしの後ろ姿もちょっぴり。これも何やらうれしくて。
しかし茶碗蓮の饒舌な変位、手垢のついていない音楽世界の模索、挑戦、おもしろいですね。成果をお祈り申し上げます。
ひとこと置いてくださいまして有難うございました。

投稿: 中ぶんな | 2011年8月10日 (水) 14時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/461668/40983573

この記事へのトラックバック一覧です: 大正に発し、今に輝くー宮古ジュニア弦楽合奏団ー:

« 被災地の被災地による被災地のためのコンサートー宮古ジュニア弦楽合奏団 弟46回「音楽の夕べ」ー2011/8/7(日)15:30開演 陸中ビル3Fホール  | トップページ | 富士見橋より »