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きょうのことばー『主イエスの埋葬』ー

 このブログでは、困難なときにあって、支えとなる、励ましとなる、また自らが強められる何かをお送りしたいとの意図から、日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019ー646ー2924)で語られるメッセージを書かせていただいております。

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実りつつある葡萄。粒がしだいに大きくなり実と実との隙間がなくなり、しっかりとした一房の葡萄となります。

 さてインマヌエル盛岡キリスト教会のきょうの國光勝美牧師のメッセージは
説教題 『主イエスの埋葬』ーヨハネ伝連講(109)ー
聖書箇所 ヨハネ伝19:38~42

38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
40 そこえ、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。
41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そのこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
42 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。


 この朝、ヨハネの連続講開の方へと、もう一度私たちの講壇の歩みをリセッとさせていただきました。思えば去年の9月にヨハネ伝の連続講開108回目がございました。きょうはその復習をしながら、再びヨハネ伝に心を備えたく思うことです。

 その前に、先ほど10時近くに大きな地震がございました。みなさま、びっくりなさったでしょう。私は会堂におりました。これはい大きいぞと思い、会堂はしっかりしておりますので、二階の書斎に駆け上がりましたが、物の落下などはありませんでした。震源地が気になり直ぐにラジオを点けました、丁度第一放送は政治討論会であったかと思います。たぶん生放送でしょう。いま東京のスタジオが揺れていますと聞き、一瞬震源地は東京かと緊張したのですが、すぐに岩手の県北方面が震度4。どうも震源は海のほうらしく、津波注意報が出ました。地震があるたびに津波注意報がでます。そして結局は数十センチであったパターンが数年来続いている。しかし3・11以降はどうせ何々という意識は覆りました。50センチの津波が予想され到達時間は20分で、10時20分かと言われておりましたので、25分にごろにどうなったか見ましたところ、まだ津波は到達していない。結局津波はなかったのか、それともその後小さなものがあったのか分かりませんが、何れ先頃のような大事ではなかったようです。余震がしばらくは続くでしょう。祈りながら行動していただきたいですし、また、みなさま方が守られますように私どもも祈っている事でございます。

 前回の週報にもお知らせしましたが、所用も兼ね、私の郷里である松本市に行ってきました。5日(火)はインマヌエル教団本部での公務を果たし、その日のうちに盛岡に帰ってきたわけですが、ちょうど一週間前、松本市で震度5強の地震がございました。松本市域を含む本州の中央部を、フォッサマグナと呼ばれる大地溝帯が南北に走っています。松本滞在中に良きお交わりをいただき、お証しのときを持ったある方が、松本の中央に位置するマンションの5階に住んでおられますが、勤務を終え、帰宅してみると、家中がひっくり返っていたそうです。その方は、多賀城市で撤去作業のボランティアにも参加しているので、「僕の部屋が被害だと言ったら被災地の皆さんに申し訳ない」と淡々と話しておられました。松本市を貫流する女鳥羽川の真ん中辺りから、川の向こうとこちらでは随分揺れ方が違っていたようです。実家のある方は被害がありませんでした。その方の話で、塩尻方面には結構な被害があったことを知りました。紛れもなく震度5強の揺れとその被害でありました。日本中どこに行っても揺れる、そう感じたことでした。

 それではヨハネ伝の連続講開に移ります。
 聖書箇所は掲げましたヨハネ伝19:38~42です。
 ポイントはアリマタヤのヨセフ、そしてニコデモという二人の人物です。この場面はイエスさまが十字架上で息絶えられたあと、イエスさまを十字架から引き下ろす場面へと続いております。イエスさまの十字架は福音の中心となる出来事でございます。きょうは、前回のその時もそうでしたが、それに続く埋葬に学び進もうとしております。
 人々の嫌悪と憎しみがイエスを十字架につけました。イエスさまのお弟子さんたちさえ、あの人と自分とは関係がないと退いてしまいました。誰も関わりたくない。そこで目立つ行動を取ろうものなら透かさずローマ兵に捕えられ、イエスさまを十字架に追いやった勢力から手ひどい仕打ちを受けるのです。このような状況の最中で、代表的なお弟子さんではない二人の人物、アリマタヤのヨセフとニコデモが危険をも顧みずに名乗りを上げ、イエスさまの葬りを願い出たのでした。
 いまは名乗りをあげたアリマタヤのヨセフですが、38節には

38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ
 とあります。彼にもイエスの弟子であることを隠していたときがあった。私たちは、この人たちの立場が解るような気がします。大多数がノンクリスチャンであるという社会に生きているお互いです。いいえ、多くの人たちから見るならば、私たちの方が変わり者と見える生き方をしている。そのような意識の方々が圧倒的である中に、自分がイエスの弟子であると告白し証しし続けるのは大きな戦いです。ですから心ならずもクリスチャンであるということをそれとなく明かさずに社会生活をしている場合がある。アリマタヤのヨセフを見るとそういった意味で親近感を覚えるかもしれません。
 イエスの弟子であり、ほんとうに主を愛している。だけれども、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していたのです。このようなアリマタヤのヨセフの信仰をどのように評価するでしょうか。私は天晴れだと思います。隠していたことをではありません。弟子たちが恐れて関わりたくないと思っていたときに、みんなが注視している中で、
総督ピラトに申し出て「イエスさまの亡骸をどうか私に引き取らせてください」と申し出る決断と勇気。いままでは躊躇していたけれども、最後にイエスさまをこのまま見捨てることができない。私がこれまで出来なかった、本当はしたかった、だけど出来なかった、勇気がなかった、しかし彼は最後にはついに決断しピラトにイエスさまの亡骸を丁重に葬りたいと下げ渡しを願い出る。この彼の決断には心打たれます。もうそこには打算はありません。損得勘定を超えて、このお方の亡骸をさらしておいてはいけない。わたしならできる。わたしは自分の墓を持っている。国会議員のステータスに足る、岩をくり抜いた立派な墓を自分のために用意している。これをこのお方のために使わずしていったいどうしよう。その想いが彼の心を衝き動かしている。「どうぞわたしのお墓にこのお方の亡骸を葬らせてください」。これに私はほんとうに心打たれるのです。

 ここでペルシャの王妃エステルを思い出します。その時代、権力者ハマンがユダヤ人の皆殺し計画をたてました。ときの権力者ハマンという人物によって進められようとしていた。王の命令がなければ回避できません。そこにペルシャ王の寵愛を受けていた王妃エステルが登場します。彼女は出自を隠していましたがユダヤ人だったのです。おじのモルデカイから固く口止めされていました。しかしそのとき、エステルは王の前に出ようと決めたのです。そのとき、もし王の許しがなければそれは死を意味します。
 このエステルもアリマタヤのヨセフに似ていると思いませんか。ほんとうの勇気。いざというときに、たとえ命に関わるとしても、その立場を明確にお証しをする。ここで私は、果たして自分がアリマタヤのヨセフたり得るであろうか。果たしてエステルたり得るだろうか。自問自答しました。人を恐れて、それまで十分に証しをすることができなかったアリマタヤのヨセフ。しかし、いまだ、というときに、明確に意思表示しはっきりとこのお方の名前に立つ、その決断をさせていただくという、それと同じ事が39節のところにあります。

39 前に、夜イエスのところに来たニコデモ
 そうです。以前にイエスさまが伝道生涯を始めるときに、若い教師が神の国のことについて素晴らしい教えを垂れている、それを知ったとき、アリマタヤのヨセフと同じようにニコデモも、当時のユダヤの社会の指導者であり、同じく国会議員のひとりであった彼は自分がこの若き教師に真っ昼間から教えを請いに行ったとなると、ちょっとこれは国会対策上よろしくない、野党に追及されたらどうするか。それでもやはり真実に耳を傾けたい、、このお方の教えを受けたいというので、彼は夜こっそりとイエスさまのもとに出向きました。そして神の国については、「人もし新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と教えられる。彼はそれまで国会の議決の中で、イエスさまについて不利になると、彼はいつもイエスさまを弁護する方に回っていたのですが、しかし立場上彼はやはり明確な意志は示せなかった。しかしこのニコデモも最後にはアリマタヤのヨセフとともに、はっきりと

ニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た これは、イエスさまの葬りのための没薬30キログラム、それを香料と一緒にとありますけれども、これは王族に近い人々を葬るのに匹敵する丁重な葬り方だといいます。この二人は自分たちのできる最大限の愛の業をイエスさまの埋葬という大きな出来事の時に行った。王族と匹敵するような丁重さで行ったのです。
 イエスさまが葬られたお墓、即ちアリマタヤのヨセフが持っていた墓のことですが、41節、
41 イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。
 
これがアリマタヤのヨセフの墓であったことは言うまでもありません。
 正しい聖書解釈であるかどうかは別として非常に心に残った解説を読みました。それは、「十字架につけられた場所に園があって」とあるこの「園」という言葉を解説者は取上げ、人間が罪を犯しエデンの園から追放されたが、人間の罪の贖いを全うされたお方、その背景があった。埋葬されたという意味ですね。それと、対比して文章から進められていたのを見ながら、ほんとうに心に残ることでありました。聖書解釈としてこの園というところをエデンの園というものと対比するその解釈法がいいかどうか、それは別問題だと思います。ただ思い巡らしのなかで私は赦されることだろうと思ったのです。罪を犯した人間はエデンの園から追放された。しかし、それを贖いを見事に成し遂げたお方は人のまだ葬られたことのないそのところに葬られた、そして全うされたのだという何か符合する恵みをそこに感じたのであります。、
 
お話しをここで締め括らせていただきます。二人の人物にきょうは注目いたしました。アリマタヤのヨセフ、そしてニコデモです。二人とも決定的な場面を見て旗幟鮮明にし自分の愛を惜しむことなく注ぎだし主に従っていった人物であります。私たちも願わくはこの二人のような在り方をさせていただきたいと思うのです。
 励ましとして最後に第二テモテ1章、パウロの後継者としてパウロに従っていった人物、どちらかというと繊細でそして内気なある意味パウロとは対称的な人物であったテモテ、そのテモテに書き送った最後の手紙の中で、パウロはこのように言っています。1章6~8節

6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

 どうかこのパウロのテモテに対する祈りが、きょう私たちにも祈られているということを捉え、アリマタヤのヨセフとニコデモに似る者とさせていただきましょう。

※短くするために編集してございます。筆者の聞き違いまた誤記がある場合があります。その際はご指摘くださるようお願い申し上げます。文責:中ぶんな

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