« 岩手の風 | トップページ | 岩手県立盛岡短期大学旧校舎に咲く紫陽花 »

きょうのことばー『神は我らの避け所』 

 いまの厳しい世情にあって心の支えとなるメッセージをお送りしたい、そして私自身が、もうすこしはまともな暮しをしようじゃないかと願い、自分を顧み自分を励ます機会ともなすために、日曜日は聖書から語られる牧師のメッセージを書かせて頂いております。

2011615_009

さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(019-646ー2924)國光勝美牧師のメッセージは、(以下は牧師の説教となります)

説教題 『神は我らの避け所』
聖書箇所 詩篇46:1~11

 いよいよ下半期に入りました。1年の半分以上がすでに過ぎ去ったわけです。下半期に入り一月たてば東北聖会です。ことしは竿代忠一先生を迎え、田沢湖高原温泉ハイランドホテル山荘で開かれます。それらのことを思いながら、下半期の神さまの祝福を心から願うことでございます。前半、私たちは例外無しに3・11の大震災をとおりました。これをよく咀嚼し、このところをとおって初めてわかった、また、とおったからこそこのように、という在り方、信仰生活を持たせていただきたいと願うことでございます。

 その意味で今朝、詩篇46篇をお開きいたしました。震災後、私は、教団からの問い合わせのような公的なお返事に、また私的なお手紙のお返事に、決まってこの詩篇46篇のおことばを記してまいりました。それをいま改めて捉え直そうとしております。

 みなさん聖書の中で地震、或いは津波について言及されているところに或いはお気づきかも知れません。また世の末には方々に地震があるというイエスさまのお話しがございます。聖書をみますと、イスラエルの民にとっても“あの地震”と呼べるような大地震がやはりあったようです。私たちが3・11より前に、“あの地震”といえば阪神淡路大震災、或いは関東大震災でした。しかしいまは真っ先に2011年3月11日の東日本大震災が出ます。それでは、聖書でいう“あの地震“といわれているのは? 知っておきたいですね。旧約聖書のアモス書1:1をお開きください。
1 テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。
 これを書いたアモスが「あの地震の二年前」といっただけで人々がああ、あの地震かと理解できた。もう一つ、ゼカリヤ書14:1、4
には
1 見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。

 イエスさまがよみがえりのあと、弟子たちの見ている前で天に帰っていかれたそのとおりに、イエスさまがもう一度、その日オリーブ山にいらっしゃる。これは主の再臨の預言でございますが、ゼカリヤ14:5には

5 山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。
 主の再臨の預言です。「ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように」とある。ウジヤの時代はイザヤが活躍した時代です。この時代にも
“あの地震”というほどの大きな地震があった。アモス書1:1に「地震の二年前」とありましたが、これは同じくアモス5:8にある
8 すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主。
9 主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。
 というこのところでございます。私はこれまでは通読などでアモス書を読んでも、
直ぐに津波を思い浮かべることもなく、このような表現なのだろうとさらっと理解していました。しかし「海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は」には考えさせられてしまいます。ここで津波を意識すべきなのでしょうか。またアモス9:5、6
5 万軍の神、主が、地に触れると、それは溶け、そこに住むすべての者は泣き悲しみ、地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように沈む。
6 天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方で、その名は
主。
 改めて3・11を経験し、もう一度聖書を見るときに、我々ばかりではない、イスラエルの民も、何年経っても民族的に忘れがたいウジヤのときの“あの地震”があった。そして「ナイル川のようにわき上がり」と書かれてあるところは、私たちが映像で見た津波で川が数キロ先まで流されわき上がったという場面に重なる。聖書の記述が一種の詩的表現ではなく現実そのもの。「海の水を呼んで地の表に注がれる方」。3・11を経験し聖書を読むときに、これをやはり意識しますし、またするべきと言うべきなのか。このようなことを念頭に、詩篇46篇をみていただきましょう。

1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

 この詩篇の記者が3・11を想定して書いたといったなら、それは深読みに過ぎるでしょう。事実46篇の4節には

4 川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。
 とあり、これはエルサレムを指している。たしかにエルサレムにはヒゼキヤの水路が整備されていた。しかし
ここで言われている「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる」というこの川とは恐らく聖霊の聖なる川のことでしょう。エゼキエル書には、「神殿から水が流れ出て、やがてそれが大河となり死海に流れ込む。その水が流れ込むところはみな生きる」とある。このように霊的な意味を持つところですから、この詩篇46篇はその角度からあじわうべきものであります。

 いま2011の後半に踏みだそうとするとき、あの3・11をとおった者として、この詩篇46篇をもう一度捉え直してみたいと先ほど申しました。
 私は決して皆さま方に躓きを与えるつもりはありません。わかっていただけると思うので正直に申しますが、甚大な被害を直接目の当たりにしたとき、私はこの詩篇を、「違う、このことばは違う」と叫びたくなりました。詩篇46篇1節
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
 これはほんとうにこの通りだと思います。しかし

2 、それゆえ、われらは恐れない。たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
 このことばに対し、「いいえ、そんなことはありませんでした」と心底叫んだ。皆さん方もそうだったでしょう。信仰者は神を信じているからどんなことがあっても恐れない、平安だ、アーメンと必ずしもそうはいかない。私は「
それゆえ、われらは恐れない。というおことばを俄には頷けなかった。災禍のとき、悲しみ、恐怖がどれほど圧倒的に襲ってきたか。これはもはや机上の問題ではない。現実です。そして私たちが信仰生活を送っているときには、まさしくそういう中をとおっているわけです。
「たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも」、これを詩的な表現とも理解し今まではさらりと読んでいたのですが、「水が立ち騒ぎ、あわだって」「水かさが増して」壊滅してしまった現地を他人事でなく知っているとき、「恐れない」というおことばをどう受けとめるべきか真剣に考えました。「主よなぜですか、主よ」。荒廃の中に立ちつくしながら、「主よ、あなたの存在を否定することは到底できない、それをしようとも思わない、主はおられる」。しかしこの現実に、ほんとうに粛然とした思いになる。それを厳粛に受けとめました。「おことばに異議あり」といったままでここを乗り越えてしまってはいけない。いったいどういうことなのか。そのとき、私はこのことの持つ大切な霊的な心境、これを皆さま方とこの朝一緒にアーメンと頷くことができたのならば、あのことを経験しそしてこれから下半期に入るとき、大切な意味があるように思うのです。

 それは何でしょうか。よく想定外の津波、地震だといわれました。しかしあの地震は99パーセント必ずくると知っておりました。99パーセントの確率で必ず来ると言われていたものがついに来たのです。私は厳粛な思いでした。

 主の日が来る。聖書にはそう書かれています。これは99パーセントの確率ではない、私たちは必ず100パーセントの確率で神の裁きの座に立つ、やがてはそれを経験する者たちなのです。これは想定外というものではありません。
 釜石の方々は世界一深い堤防がある、津波はあれを超えることはないと防波堤を拠り所としていた。しかし無惨に破壊されてしまったのです。神さまの裁きには例外がない。立派な堤防が、お金が、健康があるから大丈夫というものではない。人間が神さまの前に出るときには、どれほどに良心的にベストを尽くして避け所を作ったとしても、それは何の役にも立たない。
 必ず来る大いなる主の裁きの日、神の前に立たねばならない私たちは、どんな避け所を持っているでしょうか。
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け
 そう、私たちにはイエス・キリストという神ご自身が貴い血潮をもって備えてくださった十字架の贖い、これがあるのです。ですから私たちの人生の最後に襲い来る神さまの裁きの座に立つとき、イスラエルの神を己の神とするものは、ヤコブの神を我らの避け所とする者は幸いです。これがあるからこそ私たちは御前に立つことができます。この詩篇46篇はそのようにあじわってこそ初めて、アーメン、そうです、そのとおりですと告白することができる。神は我らの避け所、イエス・キリストの十字架こそわが避け所、主の十字架と復活、この事実こそわれらの罪が赦され神の前に義と認められ主に受け入れられる揺るぎない避け所なのです。そして主イエスさまがいま、力強く私のためにとりなしていてくださる。これこそ我らの避け所であり力であり苦しむときそこにある助けなのです。それゆえ我らは恐れない、アーメン。こう頷くことができます。
2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

 人の備えたものが悉く灰燼に帰してしまうときにも、「神こそわが岩わが高き櫓」とこのように告白することができる。

 3・11を経験し、津波の光景を見、そして、そこに身を置いたとき、まさしく詩篇46:2、3を実体験しました。そこに恐れがあり、悲しみがありました。しかし私たちは、実はこれ以上の大きな“津波”に必ず直面するのです。ヘブル9章26節
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
 そしてその次に100パーセントの確率で聖書はいいます。

27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
 世の中の人には、主の日は裁きの日となるでしょう。しかし、神を避け所とする私たちには、大いなる救いの完成の日、待ち望む希望の日である。どうぞそのことを思いながら、私たちがこの下半期に踏み入るとき、私たちは想定外のものに襲われるのではない。その
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあるそれをしっかりと受けとめて
1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
 この大いなるシェルター、神が備えてくださったまことのシェルターの中に身を置こうではありませんか。その備えがいつでもできている、そのような在り方をもってこの年の後半に踏み入らせていただきたいと願うことでございます。

|

« 岩手の風 | トップページ | 岩手県立盛岡短期大学旧校舎に咲く紫陽花 »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: きょうのことばー『神は我らの避け所』 :

« 岩手の風 | トップページ | 岩手県立盛岡短期大学旧校舎に咲く紫陽花 »