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きょうのことばー『復活の主との出会いー2』ーヨハネ伝連講(112)ー

 日曜日は、この厳しい社会に生きる上で、心の支えとなるメッセージをお送りしております。これによって自らが聖書から元気をもらっております。

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 さてインマヌエル盛岡キリスト教会(019ー646ー2924)のきょうの國光勝美牧師のメッセージは、

説教題 『復活の主との出会いー2』ーヨハネ伝連講(112)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:1~18

1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理者だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

 
私たちはいま、よみがえりのイエスさまに心を向けているところでございます。恵みをもう一度振り返りながらきょうのみことばの学びを進めてゆきたいと思います。
ーここからは前回の復習となりますが、復習の中にも新たな補足もありましたが、時間の都合で、前回きちんとお伝えできなかったところのみの復習部分を記載いたします。ー
 前回の締めくくりでお話ししましたが、イエスさまのよみがえりのからだは大変特異なもののようです。
 エマオ途上のお弟子さんたちに、よみがえりのイエスさまが現れたとき、彼らは直ぐにはわからなかった。あれほどイエスさまを慕っていたマグダラのマリアにして、現れたよみがえりのイエスさまを園の管理人だと勘違いしていた。なぜ直ぐにわからないのか。イエスさまのよみがえりのからだとは不思議なものだなと思います。
 ガリラヤ湖で、岸辺に立っていたよみがえりのイエスさまを、弟子たちはやはり誰であるのかわからなかった。しかしその何者かが朝食を準備して、弟子たちと一緒に食事をしてくださった。ということは、よみがりのからだは食事ができるのです。イエスさまの復活は、私たちの復活の初穂、私たちの復活の見本ですので興味は尽きません。一例を知るごとに、なるほどそういうものなのかと頷きます。お弟子さんたちが追っ手を恐れて扉をしっかりと閉めて家の中にいたときにも、よみがえりのイエスさまは、幽霊のようにというと差し障りがありますが、イエスさまはドアをノックし開けてもらい入ったのではなく、そのように部屋の中に現れてくださった。そしてさらにトマスに腋の傷を見せ触らせている。よみがえりのイエスさまにはやはり疵がある。どういうことなのでしょう。決して不勉強を弁護するのではなく、わからないことはやはりわからないのです。ですから、よみがえりのからだがどんなものかを理解できる日が来るのを楽しみに致しましょう。常識では整合性がとれない部分も、別な角度から見るとき、ああそうかと納得し理解できる。そんなときを待ちたいと思います。信仰者ではない一般の方々にすれば、だから信じられないとなるのでしょう。しかし信じている私たちは、わからないだけに次に期待し、それを知ることが楽しみとなります。

 さてきょうは、もうすこしマリヤとイエスさまとの出会いに注目してみましょう。ヨハネ伝20章16節

16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
 ここには劇的に眼が開かれる場面が展開しています。「マリヤ」というこの声で、マグダラのマリヤはイエスさまだと気がついた。この呼びかけで彼女ははっと気づいた。資料を調べますと、このイエスさまが呼びかけた「マリヤ」
というのは「マリア」ということばで記されていることばです。旧約聖書に出てくるモーセの姉はミリアムといいますが、「ミリアム」は「マリア」と同義語です。イエスさまはアラム語で呼びかけています。イエスさまがマリヤと出会ったときにはいつも「マリア」と話しかけていた。それでマリヤははっとし気づいたわけです。一つ思い出しますと、イエスさまは私たちを一人ひとり名前で呼んでくださいます。わたしたちがイエスさまと具体手的に出会うとはどういうことかと言いますと、これはニコデモを通して聖書を通してイエスさまと出会う。「聖書を通して」イエスさまと出会うのでなければそれは神秘主義になってしまいます。みことば抜きにイエスさまと出会ったというのなら、それは異教に傾いていくことにほかなりません。脱線をしてしまう。イエスさまはいつも聖書を通してみことばを通して語りかけてくださるのです。また私たちは聖書を通してお返事をします。そのことを捉えておきたいと思うことです。

 イエスさまが「マリア」と呼びかけたとき、マリヤはイエスさまに「ラボニ」とこたえています。聖書の中に「ラボニ」という呼び方は二回しか使われていません。
 一箇所はマルコ伝10:51。

51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
 新改訳聖書の注を見ますと「言語『ラボニ』直訳『私の先生』」とあります。
 先生という呼び方には三つのランクがあります。
 一、ラブ   ふつうの先生
 二、ラビ   ラブよりも敬意を払った呼び方
 三、ラボニ  最上級の呼び方で大先生といった意味合い
更に興味深いのは、「ラボニ」はほとんど神に対するがごとき呼びかけであるとする注釈もあります。とすると、マルコ伝10:51で、目の見えないバルテマイがイエスさまを見て「どうか助けてください」と呼びかけている。マルコ伝10:50から読んでみますと

50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

 ここでのラボニという呼び方は神さまに対する敬意を表したラボニという呼び方でありますから、イエスさまはこれを大いに喜ばれたのでした。というのは自分がこれからエルサレムに行って、学者長老達にたちに排斥され、同族のものたちにこそ自分がメシヤであることを受け入れてもらいたいのに拒絶され十字架につけられるエルサレムに向かう、その途上に於いて乞食をしている目の見えない人物が大声で「イエスさま!」とやってきた。「何をして欲しいのか」と問われ、「ラボニ。目が見えるようになることです」と訴える。

52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 ラボニという呼びかけが、どれほどイエスさまを喜ばせたことでしょうか。そしてヨハネ伝20章のマリヤの呼びかけが「ラボニ」でした。これはまさに信仰の告白です。私たちがイエスさまに出会いイエスさまに目が開かれるとき、「ラボニ」と呼びかけてイエスさまにお答えしたいものです。それがほんとうにイエスさまとの出会いになるのではないでしょうか。

 またヨハネ伝20章17節はいつも気になるところです。「すがりついてはいけない」とイエスさまが仰った部分です。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
 トマスには「わたしの疵にさわってみなさい」と仰ったイエスさまが、ここでは「わたしにすがりついてはいけない」と仰る。これはどういう意味なのか。幾つかの資料の解釈を見ますと、「肉におけるイエスを知りたいというのは不信仰を示している」と考える立場がありますが、私には頷けません。同意できたのは、「すがりついてはいけません」という訳が適切ではない、「すがりついていてはいけない」と訳すべきという解釈でした。つまり、触ってもいいのだが、すがりついて行かせないようにしてはいけない。これならイエスさまがトマスに言ったこととマリヤに言ったことに矛盾はありません。もう行かせない、ずっとこのままいてくださいとすがりついてはいけないというものでした。
 イエスさまは贖いの後、40日後には昇天し父なる神の右の座に座して、という大切な使命があり、その途中にあるわけですから、「もう行かせない、ずっとこのままいてくださいとすがりついてはいけない」 という訳がいちばん自然であると思われます。
 
 きょう一つだけ覚えていていただきたいのは、私たちが、よみがえりのイエスさまに出会うときには、「ラボニ」、あのバルテマイが「ラボニ」と叫んだようなよみがえりのイエスさまとの出会いをすることができたら、それはほんとうに大きな祝福となる。どうぞみことばを通して「ラボニ」、このお方とお会いしまじわることを切に願うことです。

※先週の復習の部分など
簡略にするために割愛してございます。文責:中ぶんな

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