きょうのことばー『復活の主との出会い』ーヨハネ伝連講(111)ーその2
※前ページからのつづきとなっております。
さて10節を見ると「弟子たちはまた自分のところに帰っていった」。弟子たちはこの出来事を目撃して再び仲間の弟子たちの行ったところに帰っていきました。ところが、11節を見ると、「マリヤが外で墓のところに佇んで泣いていた」とあります。さてこのマリヤというのは1節にあります「週のはじめの日、マグダラのマリヤは」というこのマリヤに違いありません。つまりこのマリヤは最初に他の仲間たちといっしょに墓に行った。墓がまろばされているのを見てびっくりして2節、お弟子さんたちのところに行った。その話を聞いてそんなばかなと思いながらもとにかくペテロとヨハネは走っていった。これもごく自然です。告げたマグダラのマリヤは当然のことながらもう一度その墓のところに帰っていくわけです。聞いた男ふたりが走っていったわけですから、ペテロよりヨハネが速かったと前回いいましたけれども、マグダラのマリヤはこの男性のお弟子さんたちよりも遅く、或いはすれ違ったかもしれません。何れマリヤは再び墓の外にたたずんでからだをかがめて泣きながら墓の中をのぞきこんでいた。
「するとふたりの御使いが、(天使です。)イエスのからだが置かれた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに白い衣をまとってすわっているのが見えた」
御使いが見えるかたちにおいて姿をあらわして、「なぜ泣いているのですか」と問いかけている。13節で彼女は「誰かがわたしの主を取っていきました。どこに置いたのか私にはわからないのです」という。2節には、「主をどこに置いたのか私たちにはわかりません」と複数形が使われています。13節には「私にはわからないのです」とある。つまりここで彼女は「私たち」ではない「私」といっている。
マリヤがこういって後ろを振り向いたところ何とイエスさまが立っておられるのですが、彼女にはイエスであることがわからない。ここでエマオ途上のお弟子さんを思い出します。エルサレムで起ったあの事この事を話ながらあるいていると、不思議な男の人が近づいて来る。「あなたエルサレムにいてこんなことを知らないのですか、私たちはあの人こそ」などと話していながらそれがイエスさまだとわからない。このマグダラのマリヤも、主の亡骸が誰かによってどこかに持っていかれたと思っていた。誰かが持っている。おそらくいちばん可能性があるのは園の管理人だろうなどと考えていた。ですから彼女はイエスさまの亡骸がどこに置かれているのかを知りたかった。決してよみがえったなどとはまだ思ってはいない。誰かがどこかに持って行ってしまった。ですから15節を見ると、「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」とアリマタヤのヨセフやニコデモが勇気をもって言ったように、このときのマリヤには、他の人からどんなことを言われたっていい、私が引き取るのだというイエスさまに対して迸りでるような真実な心がここにあります。このマグダラのマリヤには非常に教えられます。
このマリヤという人物がどういう人であるのか、ルカ伝8章2~3節
「また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、 自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。」
このようにイエスさまを慕ってついて行き支えていったその女性の一人が七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリヤだった。またマルコ16章9節、これはよみがえりをマルコが記しているところですが、
「〔さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」
とあり、イエスさまは先ずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。このマグダラのマリヤについては色々いわれております。しかし聖書ではこのように「七つの悪霊を追い出された」とあります。一つ、二つと数えて七つというのか或いは聖書でいう7の持つ意味である、圧倒的に、完全に悪魔に支配されていたようなこの女をイエスさまは癒してくださったという完全を表す意味で七という数字が使われたものか、何れにしろそのようなどん底から救われることがマリアにとってどれほどに感謝なことであったか、マリアはその感謝をもって主にお仕えしたものでしょう。マリヤは恐らく遊女であったという指摘をする人もおります。或いはそうであったのかもしれない。何れにせよ世の中からは相手にされない軽蔑されているような女性であったろうことは見てとれることです。
さてマルコ伝でイエスさまは、よみがえられたご自分を最初にマグダラのマリアに現わしてくださった。私はこれが非常に意味のあることだと思うのです。いちばんはじめにこの女性にご自分の復活の姿を現わされた。ペテロではなく、ヨハネではなく、です。社会からのけ者にされ軽蔑されており、無きもののごとくに扱われていたその人にイエスさまはいちばんはじめに、「ほら、私だよ」と現れてくださった。これがクリスマスの出来事と似ていると思いませんか。すばらしい救いの訪れがはじめに伝えられたのは、あのベツレヘムの野原で野宿をしていた羊飼たちだったのです。クリスマスのときにしばしば指摘させていただくのですが、羊飼は当時のユダヤ人社会からは安息日を守ることのできない仕事として疎外されていた人たちでした。ところが羊飼たちのところに、天使の軍勢が現れて「いと高きところに栄光が神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように」「きょうあなた方のために救い主がお生まれになる」。そして羊飼たちは飼い葉桶におられる主イエスさまとおあいしたのです。御使いが現れ、羊飼たちが、いちばんはじめにこの救い主とおあいした。こんどはよみがえられたイエスさまが、世の中からいちばん軽蔑されているようなあのマグダラのマリヤに。そのときにも御使いが現れています。よみがえるとは思ってもいませんでしたから、後ろにいる人がイエスさまであることがわからなかった。彼女は、それを園の管理者だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
そのとき16節
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
はじめてマリヤはイエスさまがよみがえったということを知ったわけです。復活を否定しようとする聖書研究者たちが、よく、よみがえりというのは願望を繰り返しているうちに、ほんとうによみがえりがあったと思いこんでしまったのであって、事実はよみがえりなどはなかったといいます。しかしどうでしょう。願望からの思いこみなら、彼らはよみがえるはずだと思っていたはずです。しかしマリヤも弟子たちも、よみがえったらいいななどとは思っていない。マグダラのマリヤは、空虚な墓を見て、イエスさまが復活したと思うどころか、遺体がどこか別なところに持ち去られたと思っている。それを探さなければ大変だと思っていたのです。そこに、よみがえったと知って、かえってびっくり仰天したのです。決して単なる願望があたかも事実と成り代わったのではありません。そして、それは聖書がいうところの意味ではない。
お弟子さんたちもよみがえるとは思っていなかった。
マリヤも、「マリヤ。」とイエスさまに声をかけられ、反射的に「ラボニ(先生)」と応じて主のよみがえりを知る。「わが羊はわが声をきく」です。そうです。イエスさまのおことばをその羊たちは聞き分けることができる。あのエマオ途上では、道々聖書の話をしてくださったイエスさま。漸う日も落ちて暗くなったので、いっしょにお泊まりくださいと弟子たちは願い、そして彼らがいっしょに食卓を囲んだときに、そのときイエスさまのお祈りがなされたのでしょう。そのときに彼らの目がはじめてひらかれる。
イエスさまがマリヤにかけたことば、これをマリヤだけにかけられたことばとして見るのではなく、ここにふくまれている大切な真理は、よみがえられたイエスさまは、いまもマリアだから声をかけておられるのではない。真実に神さまの前に従っていこうとするイエスさまの羊である私たち一人ひとりに声をかけ、名前を呼んで導いてくださるお方なのです。それを期待してはいけないのでしょうか。このときだけ呼ばれたのではなく今も、「知ってるよ、私はあなたを知ってるよ」とよみがえりのイエスさまは、すべてをご存じで名前を呼んでくださる。そのお方に私たちは「主よ」といって幸いな交わりを持たせていただきたいと思うのであります。
それにしても、なぜマリヤや弟子たちに、よみがえりのイエスさまがわからなかったのでしょうか。それが不思議といえば不思議です。エマオ途上のお弟子さんたちもわからなかった。あのマリヤにもあのイエスさまのことばがわからなかった。やはりよみがえりのからだというのは御再生のままのイエスさまのからだとどこか違っている、でも同じ。連続している。そういう要素がきっとあるのでしょう。それだけを指摘してきょうは閉じたいと思いますが、第二コリント15章39~44節を開きましょう。
39 すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。
40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており
41 太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
このところは大いに期待しながら、いったいよみがえりのからだはどうなんでしょうねえ、といいながら、楽しみを持ちながら行きたいと思います。なぜマリヤがわからなかったのか、なぜエマオの途上のお弟子さんたちがわからなかったのか、やはりわからなかった。それを素直にそのまま受け取って、しかしイエスさまというお方には連続性があるということだけを確認してきょうは締め括らせていただきます。
文責:中ぶんな
| 固定リンク
「教会」カテゴリの記事
- きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.18)
- きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会 松尾献牧師の説教ー(2025.05.11)
- きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.04)
- きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.27)
- きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.20)
コメント