きょうのことばー『復活の主との出会い』ーヨハネ伝連講(111)ー
このブログでは、毎週日曜日、心の糧と、或いは日々の道しるべとして自分が励まされるキリスト教会のメッセージをお届けしております。
さて、きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師のメッセージは、
説教 『復活の主との出会い』ーヨハネ伝連講(111)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:1~18
1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理者だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。
17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」
18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
先週は心配になるほど秋のような涼しい日が続きましたが、昨日の午後から暑くなり、そしてきょうもこの暑さ。予報では一週間は続くようです。8月2~4日はいよいよ東北聖会が、今年は秋田で開かれます。いま夏の厳しいところを通っておりますが、皆さま方の健康が支えられますように、そして一回ごとの集会に豊かな実りがございますようにお祈りと共にこれに当たりたく思っております。
前回からヨハネの連続講開に戻りました。講開のはじめから復習、そしてその続きというように進めております。きょうは前回の復習となる、また重複する部分から入ってゆきたく願っております。
ヨハネとペテロが走ってイエスさまの葬られているお墓にやって参りました。しかしそこにご遺体はなく、ご遺体に巻かれていた布きれ、亜麻布がそこに残されていた。そして8節と9節に目を向けたのでした。先に墓に着いたのはヨハネの福音書を記したヨハネでした。恐る恐る空虚な墓に入ってゆくと確かにイエスさまのお体がなくなっている。しかし、包まれていた亜麻布は置かれている。「そして、見て、信じた。」のでした。そのあと、9節のことばに、彼らは「イエスが死人の中からよみがえられなければならないという聖書を理解していなかったので」、こう続いている。この部分に非常に意味があるように思われたのであります。「信じた」と8節に書かれておりますヨハネ。何を見て信じたのか。またこれは何を意味するのか。これは解釈の仕方で若干違いがあるようです。9節との関わりなどから見て、この「見て、信じた」というのは、イエスさまを信じたことではなく、この客観的な事実、そうなっているのも信じたというようにある方々は理解しております。それも頷くことができます。
しかし、一方、興味深い解釈ができるとすれば、信じたというのはイエスさまというお方をまことの神ご自身とし信仰するべきお方として信じたというようにこれを理解する人たちもおります。ただその場合には、9節のことばがそれをどう補足するのか。「彼らはイエスが死人の中からよみがえられなければならないよいう聖書をまだ理解していなかったのである」。聖書を理解していない彼らがイエスさまを信じたというすこしちぐはぐな感じ、これをどう解釈するべきなのかという問題であります。しかし私は、このちぐはぐさこそ、私たちひとりひとりの信仰生活のはじめに極めて酷似している出来事ではないだろうか、そう思うのです。まさにこのちぐはぐな記述は私たちが信仰に入ったときの様子に似ているのです。つまり、イエスが死人の中からよみがえられなければならないという聖書をまだ理解していない。
私は、自分自身が、はじめて福音に接してイエスさまを信じた当時のことを振り返ってみました。私はイエスさまの十字架が預言の成就である、或いはそれが贖いというもののまさに聖書の実体であるというようなことをどれほど理解していただろうか。と申しますからには、当時、私には思い出す出来事があるのです。お茶の水会館に行きますと、ある時には、先生は、イエスさまはあなたがたの罪のために十字架にお架かりになったのですと福音を語ってくださる。次に行くと、ある先生は、イエスさまはユダヤ人たちの妬みと敵対する者たちによって十字架につけられたのですと話される。あれ、前回は罪の身代わりだった、ところがきょうはユダヤ人の妬みからか、いったいどっちなんだろう。落ち着いて考えてみると、なるほど一つのことが表と裏のように両方とも調和して理解されることなのだとわかるのですが、その当時の私は、あれっ、あれっ、と何度も思ったものですし、そのことを今でも思い出すことができるほどなのです。つまり私はわかっていなかった。その意味において聖書がわかっていなかった。それでは、わかっていないからそのときはクリスチャンではなかったのか。そんなことはありません。8節にあるように、「見て信じた」。私が8節にあるように「見て信じた」というのは、何なのかといえば、私は聖書の教えというものが何であるのかを自分なりに捉えようとしてお茶の水会館で開かれたキリスト教講演会に、チラシを握って入っていった。そして、そのお話を聞きました。そのときに、あの講師の先生が額から流れるような汗を流しながら全身全霊で、「皆さんあなた方はいまイエスさまを信じなければ永遠の滅びに行ってしまうんです」。こういって極めて明瞭にイエス・キリストの十字架とその救いを語ってくださったとき、私は講師であるダビット・マーチン先生を見たのです。そして信じたのです。勿論誤解は無いと思いますが、マーチン先生を信じたのではない、マーチン先生が語っておられる福音というものを信じたのです。けれども私が見たのは、そしてはじめて福音教会的な集会で見たことは、まさにそれがはじめてといっても誤りではないほどの経験でした。どうでしょうか。多くの方々が、「見て、信じる」とはそういうことではないでしょうか。
十字架の預言というものが、旧約聖書のイザヤ書53章にあって或いはイエスさまの誕生というものがミカ書に記してあって、或いは、創世記に、出エジプト記に、過ぎ越しの祭にも出ているなどといったいどれだけ知って、イエスさまを指し示すそういった福音というものの聖書をどれだけ知って信じた人がいるでしょうかと私は敢て開き直って訊きたい。多くの人たちは、勿論クリスチャンホームでそういうことをずっと知っていた知っていた知っていてあるときにああ、そうだったとわかって聖書の真理に火がついたというジョン・ウェスレーのような人もいるでしょうし、そういう人たちがいることはそれは羨ましいことですけれども、しかしそれはそれであっていいので、むしろそれらの人たちは例外的ではないでしょうか。私たちは、亡骸がなくなってイエスさまがいたところに包帯、亜麻布が置かれてあったという客観的な出来事を知ったとき、ああ、そうか。それと類似したようにチラシを見て或いは何かのきっかけで教会に来てああ、そうか。それで信じていいのです。前に出て行って、そして「おめでとう、今日からあなたはクリスチャンですよ」と言われて、それが、まだ何もわからないような者であったとしても、信じるというのはそれなんです。そこで確かに自分の生き方が変わった。それでいい。聖書の理解というのはそこから始まっていい。わたしはかえってこの8節9節の一見ちぐはぐなところにこそ私たちの信仰の姿を、また恵みを裏書きしていただけるような思いがいたします。
これでいいのだ。ヨハネもこれで信じたのだ、そんなように思ったのでございます。 ーつづくー
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