きょうのことばー『空虚な墓が意味するもの』ーヨハネ伝連講(110)ー
さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019ー646ー2924)の國光勝美牧師のメッセージは
説教題 『空虚な墓が意味するもの』ーヨハネ伝連講(110)ー
聖書箇所 ヨハネ伝20:1~10
1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
8 そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。
連日猛暑が続いております。きょうがピークかと思いますが、どうか健康が支えられますように共に祈りながらこの夏を過ごしていきたく願っております。きょうは教会学校のお泊まり会があります。このようなことも合わせまして、いよいよ夏が来たなという思いでございます。
きょうのメッセージに入ります前に、7月11、12日に和賀郡西和賀町の錦秋湖で開かれました東北教役者会に部分参加したときに、心に残りましたことをお分かち致します。
今回の講演は湊晶子先生でした。前東京女子大学学長でらっしゃいます。先生がこの現職にあったとき、教授の120人中、クリスチャンは5名でした。こういった中にありクリスチャンとしての証しを立てることに積極的に取り組まれた証しをなさいました。
ある日、湊先生のもとに、「教授会の前に祈祷会をするのは中止してもらいたい」という連名の嘆願書が出されました。建学の精神からいっても祈祷会を止めることはできません。教授会の10分前弁明のときをもらい、なぜ祈祷会を開いて教授会を始めるかをお話ししたそうです。そのとき、会議に出向くとき自分はいつも、ピリピ4:13「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」というおことばを繰り返している、これは私のモットーですと仰いました。
ちょうどその当時、東京女子大学の理事長が日銀の早見優(まさる)総裁でした。早見氏がこれを引退し引き継ぎのために湊先生のところに見えたそうです。早見氏は、「総裁といった役職は、右といえば、どうして右に?といわれ、左にといえば、どうして左にといわれる。真ん中といえば、どうして何もいわないかといわれる肝を据えてかからなければならない孤独な大変な立場です」と仰ったそうです。日銀の総裁室には聖書の三つの言葉が掲げられていました。
一つ、主われを愛す
二つ、主われともにいます。
三つ、主すべて知りたもう
早見氏は、たとえば国会の答弁に立つときなども、このおことばを支えにしていたといいます。これを伺った湊先生は、私はピリピ4:13ですと、大いに意気投合されたということでした。
大多数が反対であるところに、このようにおことばに立ち、立場を鮮明にして出てゆく、これはまさしくアリマタヤのヨセフとニコデモのすがたであり、おことばを掲げて進みゆくことは決して小さなことではない、そう思うのであります。
さて、ヨハネ伝20章に入りましょう。イエスさまの復活、イースターの箇所としてよく開かれますが、きょうはヨハネ伝の連続講開の続きとしてお開きしております。
ユダヤ人の人々にとって、安息日は土曜日です。ですから「週の始めの日」とは日曜日です。イエスさまの御復活は日曜日の朝であることがここでわかります。
まだ暗いうちにマグダラのマリヤが墓にやってきた。聖書中には何人かのマリヤという女性が出て来ますが、このマグダラのマリヤは、イエスさまによって破滅的な境涯から救われ、深く主を慕い仕えるようになったマリヤのことです。
イエスさまが葬られたのは土曜日の安息日。しかし安息日には細かな行動規制があり思うように動くこともできない。とにかく夜が明けるのを待ってマリヤは墓に駆け付ける。入り口を塞いだ石にはローマ皇帝の封印が為され、番兵が見張りに立っているはずが、何と石が取りのけられていたのです。
この聖書箇所だけを見ますと、このときに駆け付けたのはマグダラのマリヤ一人だったと思いやすいのですが、実は他にも何人かの女性が行っていたのです。ヨハネ伝20:2に「私たちにはわかりません」とあります。ここが「私」ではなく「私たち」と複数になっています。
私たちは、イエスさまが復活したことを知っていますから戸惑うことはありません。しかしこのときの女性たちに、イエスさまが復活するとは思っていなかった。ヨハネ20:13で、「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
こう言っているくらいです。さらに20:14にあるように、復活したイエスさまがマリヤの後ろに立ったときでさえ、マリヤはそれが園の管理人だと思っていたのです。あとでイエスさまに「マリヤよ」と声を掛けられたところではじめてマリヤはそれがイエスだと気づくのです。
マリヤはこのできごとを伝えようとシモン・ペテロとヨハネのところに走って行く。しかし弟子たちさえも復活があったとは思っていない。駆け付け、からだをかがめてのぞき込み亜麻布が置かれているのを見る。ここでは「置いてあった」とありますが、別訳では「きれいにたたんで置いてあった」というようにあります。インマヌエルの初代総理、当時は代表者を総理と呼んでいましたが、総理は「きちんとたたんで……」の方を取っておられ、「イエスさまはちゃんと後始末をなさるお方だ」と話されたといいます。イメージとすれば、体が蒸発したかに消えるなら布は巻かれたまま残るでしょう。新改訳では、イエスの頭に巻かれた布切れは巻かれたままになっていた、とあります。もし墓どろぼうの仕業だとしたなら、遺体は放っておいて金目のものだけを奪い去るでしょう。為政者、祭司長、長老たちは、イエスの復活が事実であるとまずいと手を打ったことがマタイ伝28:12、13には書かれています。「12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。」。
さてヨハネ伝20:8「そのとき、先に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。」、同じく20:9「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」
これをどう理解したらいいでしょうか。もうひとりの弟子とはヨハネです。「見て、信じた」とは何を信じたのか。イエスさまがよみがえられたことを信じた。ところが9節にあるように、「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書」をまだ理解してはいなかったのです。私が信仰の決心をしたときもそうでした。まだ聖書をよく知らないけれども、特別集会の最後の日に手をあげて信じる意志表示をし、会衆の前に出て行きお祈りをしました。まだ聖書をほとんど知りませんでした。決心したあとで、学びが進むにつれて、いよいよ納得し、その決心がいかに貴いものであったかが解ってきたのです。
ではあなたの信仰はどうでしょうか。小さい頃から聖書に通じている人がようやく聖書を信じることができるのでしょうか。それとも聖書をまったく知らない人が聖書を信じることに、優劣があるのでしょうか。ここに何と言っているでしょう。ヨハネは墓に入っていってイエスさまを信じた。それでいい。イエスさまも復活ということも、或いは聖書に預言されているさまざまな罪の赦し、永遠の命、それらの聖書のさまざまな出来事は、これからゆっくり知っていけばいい、いくらでもゆっくり、そしてもっともっと深く、そして一生涯かけて私たちはそれを深めていく特権があるのでしょう。大切なことは、「見て、信じる」こと。このヨハネのように、イエスさまのこの出来事を信じる。いまここでヨハネはまだ復活のイエスさまに会ってはいないのです。それは私たちと同じです。私たちもよみがえりのイエスさまに、トマスのように手を触れて信じているわけではありません。私たちは見ずして信じている。それでいいのです。
来週はこのところからもう一度、11節に踏み入りながら、イエスさまのよみがえりとマグダラのマリヤとの出来事にふれていきたいと思います。
※先週の復習、また例話のいくつかを編集の都合で割愛しました。また誤記もあり得ることがありますが、お気づきのときはご指摘ください。文責:中ぶんな
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