きょうのことばー『あなたがたに平安を』
きょうは暑い一日でした。教会の庭にはいまたくさんの花々が咲いています。
きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019ー646ー2924)のお話しは國光ひろ子先生です。
説教題 『あなたがたに平安を』
聖書箇所 ヨハネ伝14:1、27
1年に3回ほど、主牧不在のときに講壇に立たせていただいておりますが、1年に数回というとなかなか慣れるというわけにはまいりません。説教もむずかしいものです。そこで説教というよりも私が最近教えられております事柄から、皆さまに恵みをお分かちしお祈りとともに礼拝を守らせていただけたなら感謝でございます。
先週、花巻に於いて当初4月の予定であった教区会が持たれました。特に仙台教会、郡山教会、福島教会それに大きな試練と戦いの中にあられる先生方のお証しを、お祈りいただくために、すこし紹介いたします。
仙台教会では、副牧師館が傾き壊すしかなく、また隣との間の壁が崩れかけ修理が要ります。また塩釜の支部は1メートル半まで浸水、古い建物でもあり使用不可となっています。教会員の方々も被災。亡くなられた方はありませんが、家を流された方々がいらっしゃり、先生方も共々に力を尽くしておられます。田中紘子先生のご健康のためにもお祈りください。
また郡山教会は隣にあるレホボテ館の修理をしました。原発の影響が大きく、30歳以下の人が郡山から離れていくという状況にあります。教会でも放射能が多く草取りを延期していましたが放置できなくなり、50歳以上の人たちで草取りをし、30歳以下の人たちでチラシ配布をしたということでした。
また福島教会は古い建物でもあり、ヒビが多く入っていますが修理がなされました。
もし私たちがそこに身を置く立場であったなら同じようなことであったのです。どうかお祈りに覚えていただけたのなら感謝です。
この教区会で或いはこれを境に、考えさせられておりますことを皆様にお分かちしたいと思いますが、
明治23年にイギリスから来た宣教師バックストンの記事を読み学びのときを持ちました。47年間のバックストンの日本伝道で、信仰の勇者と言われた多くの方々がそこから輩出されました。バックストンの息子が自分の父親の伝記を書こうとし詳しく父親を調査したところ、ついに欠点を見つけることができなかったといいます。ただ贔屓の引き倒しのような伝記ではありません。バックストンのようである秘訣はいったい何だったのか。それがずっと心にありました。そのような人格が作られたのは、絶えず神さまを意識した生活と祈りの姿勢にあるのではないかと思いました。そしてバックストン自身が、毎日聖書を読んでお祈りすることの大切さを語っています。特に神さまと二人だけの時を持ちなさいと度々勧めていたと聞きました。バックストン自身が度々神さまの前に一人で出て、神さまに向かってだけお祈りをする、神さまとだけともにいるという時を持っていたということが、その生涯に多くの方々から尊敬され、そして大きな感化を与えた原因ではないかと思います。
特に祈りに関しては、教区会での学びのときに、1冊の本を皆さんで分けてそれを宿題として読み、一人5分ずつ発表するという学びがありました。私に当たったのは、「祈りを第一に強調したい」というところでした。その中に心に留ることばが幾つかありましたのでご紹介いたします。
「祈りは生活全体を高めるものである」
「真実な祈りによって霊的性格の戦いの勝敗が決まるのである」
「祈らない説教者や教師、霊的指導者が神の真理を伝えるときには、彼らを信じてはならない」
「祈りがないと人は霊的な事柄に無感覚になってしまう」
ほんとうに神さまとのお交わりを通していただいたメッセージを講壇に立つ者は絶えず語らなければならない。それは祈りという神さまとの1対1のやりとり、またさまざまな生活の中で神さまから語られることをきちんと捉えていなければほんとうの説教者にはなれないことを、このときに強く感じました。そして祈らない説教者を信じてはならないというのはその通りであると思いました。そしてもう一つ、
「神のために私たちが人々にどれほど影響を与えるかは、結局目に見えない世界に対する私たちの体験に基づいた知識と祈りの経験に掛かっている。愛にしても洞察にしても機転にしても祈りと黙想の中に生まれるからである。冷淡さや霊的無知、他の人との衝突は神の交わりの欠如の結果だからである」
このような的確なことばが心に留り、このような祈りを第一にするというときに、このように細かい部分に心を留めながら祈るということの必要を教えていただきました。わたし自身は年齢が加わることによって得られる経験的な判断というものに重きを置いてしまっていました。若いときには言えなかったけれども今は判断することができる、しかしその判断が年齢的な経験から来ている判断なのか、それとも、お祈りの中に積み上げられた結果から出ている判断なのかということを自分自身のなかで、ずっと思い巡らせておりました。自分の判断はいったいどこから出ているのかを考えておりましたので、このことばを読みましたときに、ほんとうに祈って積み上げられたもの、そこから来る正しい判断とか洞察とか機転、そして愛にしてもそういうものでなければほんとうに神さまの恵みをお分かちすることができないということを教えられております。そのような中で、きょう読ませていただきましたヨハネ14:1
1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
このおことばが与えられたのでした。
ーつづく(この下に書き足しとなります)ー
イエスさまは、「あなたは心を騒がさないようにしなさい」といっているのではなく、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と強いことばを用いられています。心が大きく騒いでいるわけではないけれども、内側のどこかで小さくざわめいている自分の心。そんな心を神さまが指摘されたように思いました。なぜ心を騒がしてはいけないのか、また騒がす必要がないのかは、ヨハネ14:16にあります。
16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
イエスさまは、もう一つの助け主を私たちに与えてくださる、その助けぬ主がいつまでも私たちとともにいてくださる。だから心を騒がしてはならない。神さまが与えてくださる助け主とは、それは、ヨハネ14:26に
26 しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
とあります。助け主は聖霊なる神さま、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神と三位一体の弟三位である聖霊なる神さまである。この方が私たちに与えられ、しかも一時的に与えられるのではなく、いつも、いつまでも私たちと一緒にいてくださる。だから私たちは心を騒がせる必要はない、また騒がせてはならない。それはどうしてか。その先、27節を見ますと、
27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。
イエスさまは私たちに聖霊を与えてくださいますとともに、平安を残してくださると仰いました。その平安というのは、「わたしの平安を与えます」と仰っているように、キリストのもっていた平安のことです。キリストが十字架にすすんで行かれたときに持っておられたその平安を私たちに与えるとお約束してくださいました。この度の震災のときもそうでしたけれども、心を騒がしてはなりません、それは、心に平安が与えられているということではないかと思います。その瞬間何事が起きたのかとおもいましたし、あ、これはこの地震は以前から99パーセント来るといわれていた地震に違いないと揺られながら話し合いました。そしてそこに身を置きながら、やはり再臨のことでした。、再臨というのはこのように来るのかなとそのとき思いました。そのときに、27節のような平安が私にあるだろうかと考えました。私が救いに与り、そして将来を考え始めましたときに、先ず問題になったのは、きよめの問題でした。きよめをいただくことができない状態の中にずっと身を置きながら、いつもいつも心に平安がない自分。心が不安でざわめいている状態を長い間通りました。最終的にはきよめられるのを妨げている罪を見出し、それを神さまに解決していただいたときに平安が与えられました。私が切望しどんなに頑張っても頑張りで得ることができなかった平安を神さまは与えてくださいました。それ以来、私は、自分の心にいま平安があるかどうかで色々なことを判断してきました。神さまからいただける平安、それは自分で何とかできるものではなく、神さまが与えて下さらなければ、決して与えられない平安なのです。またその平安をいただくために、すべての判断をしてきたように思います。そして神さまはいつも助けてくださいました。数年前に心臓の治療も受けました。人間的には何が起るのか、次の瞬間にはどんなことが起るのか分からないような中にも神さまを見上げることができ、そしてそのことのゆえに威厳を与えていただいたことを思い出します。神さまからの平安をいただいている。イエスさまの持っておられた平安をイエスさまが与えるといってくださっている、それがどんなすばらしいものであるかを真剣に考えなければなりません。
最初に戻りますけれども、バックストンが日本に留まって伝道し、多くの成果をあげ、また多くの方々にすばらしい影響と感化を与えましたが、その秘訣、理由は、彼の中に神さまからの平安があったからでしょう。困難なところも通ったようですが、その中で絶えず揺るがない平安を持ち続けていた、それがバックストンがあのように多くの方から尊敬を得、いまもすばらしい人として覚えられている秘訣であったろうと思いました。そして平和といえば真っ先に、「御霊の実は平安……」ということばがかよってまいります。「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と私たちは繰り返し、また覚えていらっしゃる方もあるでしょう。平安、それは神さまからいただくものです。また聖霊なる神さまにつながり続けているならば、聖霊なる神さまとともにあり続けるならば、また共にいてくださると仰る聖霊に私たちも共におり続けるならば、必ずそこには御霊の実が結ばれます。御霊の実という中には喜びももちろんありますけれども、平安というものがある、それは私たちの人生のすべての鍵であると私自身実感するところです。
キリストの平安は、神さまの与えてくださる平安は、御霊の実という中にある平安は、その人を支えるものです。そしてその人の人格をつくることを改めて思わされます。ほんとうにこのことの中に私も生かしていただきたいと切に願いました。わたしが子どものときに通っていた先生は、御霊に満たされるということは、しずしずと歩んだり、いつもにこにこしていたり、また優しかったりそういうことではない、そうではなく、御霊に満たされるというのは円満な人になることだと仰ったことを思い出します。それは頑張ってなれるものではない。それは、イエスさまにあるときに、イエスさまがご自分の持っている平安をあなたがたにあげますと仰ったその平安のことです。私たちはこの平安を絶えず意識して歩ませていただきたい。そしてその中に祈りがあり、また日々のデボーションがあるということを覚えていただきたい。それは一日二日でできるものではなく、取り繕ってできるものではなく、また頑張って鍛えてできるものでもない。神さまの前に真実に歩むことによってのみ与えられるものだということを尚肝に銘じながら、共に主の恵みの中を歩ませていただきたいと願っております。
※短くするために若干割愛してございます。文責:中ぶんな
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