きょうのことばー『天に座する主イエスの御業』その2
きょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)、國光勝美牧師のメッセージは
説教題 『天に座する主イエスの御業』その2
ペンテコステがいよいよ来週の聖日に迫りました。イースターに復活されたイエスさまは、しばしばお弟子さんたちに現れてくださいました。使徒の働きを見ますと、そのあと弟子たちはオリーブ山に集められます。イエスさまは彼らが見ている前で昇天します。イエスさまは以前にお弟子さんたちに、「聖霊があなたがたに降されるまで、あなたがたは都に留まっていなさい」、こう命じられたのでした。そしてイエスさまが昇天し、父なる神の右の座に着かれ、使命を成就したしるしとして弟子たちに聖霊が降された。それがペンテコステという大きなできごとでございました。お弟子さんたちが聖霊に満たされたときから、イエスさまを信じる人々が多く加えられキリスト教会が誕生していった。それを記念するのがペンテコステであるということを御前に覚えながら、きょうは前回に引き続き、天に帰って行かれた主イエスさまは、私たちのために何をしていてくださるのか。そのところを御聖言(みことば)を中心に確認をさせていただきたい、このように思っております。
前回、私は、最初にみなさんに質問を致しました。「よみがえられた主イエスさまはいまどこにおられますか?」。それから、「いまあなたにとってイエスさまはどこにおられますか?」ある意味にたような質問でしたが、あなたにとって主イエスさまはどこにおられますか?」、この2つです。みなさんに問いかけてから1週間のあいだ、私も何回か自問自答しておりました。最初の問いかけに対する答はエペソ人への手紙1:20にあります。
20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
よみがえられたイエスさまは、天に帰られて父なる神の右の座に着座しておられます。それでは、そのお方はそこで何をなさっているのでしょうか。きょうはそのところに焦点を合わせてみましょう。
イエスさまがなぜ十字架に架かられ、救いの御業を成し遂げ、天に帰り着座されたのか、これはヘブルの9章に書かれています。
23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
25 それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
意味のあることばです。イエスさまは、いまは私たちのために天の神の御前に現れていてくださるのですが、イエスさまは、かつてただ一度この世においでくださって罪を取り除くためにご自身を生贄とし血を流してくださった。何回もわたしは、血を流してくださったと強調しています。それは、同じヘブルの9章に
22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
これが聖書がいうところの真理であり、神から離れて罪を犯して永遠の滅びに定められているものが、神に受け入れられるようにするため、つまり犯してしまった罪を赦していただくために、どうしても必要なのは、血が流されることであった。神さまはこの真理を教えてくださるために、古くから地上に一つの本物の模型のようなものを与えてくださって、その模型の中で真理を表す儀式を代々行わせることによって、今はあなた方は模型においてこのようにしているけれども、ほんとうはこのことを教えたかったのだよと、十字架の贖いを教えているわけであります。
24節に「本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく」とありますが、実はイスラエルの民、聖書の民に、神さまは、いにしえモーセを通して、目に見える形の儀式、宗教的な営みを行うようにと掟を命令なさいました。律法ともいいます。人間が罪許され神の前に出るためには、これは本物の雛形ではありますけれども、神の臨在を保障するところの幕屋、その聖所の中のさらに第2の幕によって隔てられている至聖所、そこに、大祭司が年に一度生贄の動物の血潮を携えて入っていきます。これは模型でありますが、模型は本物のイミテーションなのですが、ここでは模型とはいうものの、決して軽んじてはならないのです。その意味するところを理解すると一層本物の意味が深くわかるのですが。
至聖所には契約の箱があります。この中にはモーセが神に与えられた石版が入れてあります。これには神ご自身が指で刻んだ十戒が記されています。またマナの入った金の壷、アロンの杖が入っていたといわれていますが、最も大切なのは十戒の石版です。詳しくは旧約聖書出エジプト記に書かれていますが、ここでは簡単に述べます。
十戒、これは神さまの聖なる律法なのです。戒めです。定めです。神さまはこれを守り行うなら人は神の前に受け入れられる。つまり別の表現をするなら、永遠の命の源であるお方に近づき受け入れられる。この律法を守ることによって、まことの命を得ることができる。これに則って生きるようにと示されたのが律法なのです。これは人を生かすために神さまが定められた企画であったわけです。ところが、ここに非常にすばらしい逆説がある。人が神の前に受け入れられるのは、これをこの通りに行う者なのです。だれもそれに抗うことができない。しかもそれは、神が私たちを愛してくださったからこそ与えたものであるのに関わらず、私たちが、このモーセの律法に生きようとするとき、この律法には到底適う者ではないことを知る。その鏡があまりに素晴らしすぎて、そこに映る自分はとても神さまの前に立つことはできない。聖なるパラドックス、逆説と申しましたのはここなのです。どうしても律法を完全にはまもれない、自分が罪人であることを認めざるを得なくなってしまう。つまりモーセの律法によっては誰一人命を得ることができなくなってしまう。これは皮肉です。しかしこれが現実なのです。
神さまはそれを神と人との貴い契約として契約の箱の中に書いた。その契約の箱を覆っているふたがあります。純金の「贖いのふた」がかぶせられています。そこには金を鍛造して作っ たふたりの翼を上の方に伸べ広げたケルブという天使を模した像が向かい合わせで 取り付けられています。単数でケルブ、複数ではケルビムといいますが。「贖いのふた」、何のことかおわかりでしょうか。アダムの裔である私たちは生まれながら神さまの絶対的な正しい基準の中に残念ながら歩むことができません。そこで、私たちにまことの命を与えたく願っておられる神さまが、モーセの律法を完全に満たす生き方をされた御子イエスさまをこの地上に与えてくださった。このお方だけが、モーセの律法をことごとく全うした生き方をこの世において成してくださいました。
あの変貌山でイエスさまがすがた変わりをされたとき、モーセが現れ、エリヤが現れ、何よりも天から声があって、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という父なる神さまの、イエスさまを完全な人としても生きられたことを証しする声がした。そのときイエスさまはそのまま天に帰られてもよかった。だからこそ神さまは栄光の姿に変えてくださったのです。しかしイエスさまはそのためではなく、ご自身を生贄として罪を取り除くために留まった。そのためにただ一度地上においでくださった方でした。つまり神さまから、「わたしは完全に生き罪のないあなたを喜ぶ」というおことばを受けられたイエスさまは、こんどは顔をかたくエルサレムの方に向けて十字架へと進んで行かれたのです。そして罪ある私たちにくだされるべきモーセの律法の神の裁きを、まったく罪のないイエスさまがぜんぶ引き受けてくださった。イエスさまは、他のこれまでの大祭司たちが年々に繰り返し雄羊の血、雄牛の血を流さなければ神に近づくことができなかったところに、身代わりとなって貴い血潮をただ一度流してくださるためにこの世においでくださった。ですからイエスさまの十字架の贖いがなされたとき、聖所の幕が上から下に向かって裂けたというくだりがありますが、まことの大祭司イエスさまの十字架の贖いの血によって神と人とを隔てていた幕屋の至聖所が開かれたのでした。
契約の箱に戻りますと、モーセの律法がおさめられているそこに贖いのふたというものが置かれたのです。モーセの律法によって裁かれた私たちをイエスさまの十字架の贖いの蓋がそれを覆ってくださって、御使いたちが驚きの表情をもってそれを向かい合い見ている、それが地上に於ける模型のそれだったのです。しかしイエスさまはいま、まことの天に入って行かれた。そして御自分の血潮のゆえに、どうかわたしを信じる者たちの罪を赦し受け入れてください。なぜならあの者は、わたしを、自分の罪の贖いをしてくれた救い主として信じていますから、どうぞ、神さま、受け入れてください。こういっていまイエスさまは、天において執り成している。私たちのために、父なる神の御前で執り成していてくださる。なんという特権の中で私たちは生きているものでありましょうか。色々な面で欠点の多いこのような者を神の御子イエスさまは天において、あの者を受け入れてください。なぜなら、あの者はあなたに受け入れられる資格のあるものですと言ってくださる。悪魔はそれに対して、いいや、わたしはあの者に関する総てを記録している、知っていると悪魔はいうでしょう。サタンは夜昼聖徒を訴えるものとして聖書の中に出てまいります。しかし神の御子はお父さま、わたしの血に免じてどうぞこの者を受け入れてください。とうとい神の血潮がものをいうのです。どうかこのことを覚えましょう。もう一度ヘブル書を読み4:最後14節
先ほど私は、「いまイエスさまはあなたのために何をしておられますか?」と問わせていただきました。もう一度ヘブル4:14~16を読んでみましょう。
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
どうか、この福音の信仰をしっかりと保ちつづけましょう。地上生涯この信仰をもって歩もうとするものたちを阻もうとする勢力がいっぱいあるでしょう。しかしどうか、天がありこの私たちの救いがあるということに気がついているのならば、どうか、わたしたちはいまこの持っております信仰を決して奪い去られてはなりません。わたしたちの信仰の告白をかたく保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
先ほど申しました至聖所のなかにあるあの契約の箱、そこにそれを恵みの座というのですが、贖いのふたで覆われているあの恵みの座に大胆に、文語訳では憚らずしてとあったでしょうか、大胆に憚らずして、ウェスレーの注解には何でも申し上げるとありましたが、そうか、何でも申し上げていいんだ。私たち神さまに遠慮してませんか。子供っぽい弁え、遠慮をしていませんか。何でも申し上げてみてください。神さまの招きを全面的に信じていれば大胆に言えるはずです。神さまは大胆に恵みの座に出ることを願っている。我らの大祭司は私たちがそう出来るように絶えず私たちのために執り成していてくださるのです。
※短くするために例話など幾つか割愛してございます。ICレコーダーを用いていますが、尚聞き違いがある場合もございます。文責:中ぶんな
| 固定リンク
「教会」カテゴリの記事
- きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.18)
- きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会 松尾献牧師の説教ー(2025.05.11)
- きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.04)
- きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.27)
- きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.20)
コメント