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暮しの変化

2011528_022

 洗われたばかりの翠色の街路樹に立つ信号が赤に切り替わると、まるで樹木に真っ赤な実がなったように見える。この写真は28日の午後にあった同窓会総会の帰りに撮ったもの。信号の赤、これは発光ダイオード信号なので実際はもっと鮮やかなのです。
 写真は書く文章に関連したものというよりも、退屈なページをすこしでもカバーする、或いは何とか体裁を整えるために載せています。また文章に興味はなくとも写真だけは見ていただけるわけです。

 義父が亡くなったという実感がまだない。ただ戸籍謄本から名前が抹消されたのを見たときには確かにひとりの存在がこの社会からすがたを消したのだと一瞬厳粛な思いになりました。
 大きな声が、足音が、ドアを閉める音が家の中に聞こえていない、しかしこれも、いないという事実を引き出してはきません。洗濯物が減ったことも、さほど実感がありません。食事のしたくが楽になったことはあります。ただ義父が決してわがままであったわけではない。わたしのほうが、義父が好きなものも並べないと申し訳ないような気がしてできるだけ嗜好は考慮しただけのこと。ただ気持的にかなり楽になったことは確か。補聴器をつけても耳が遠かったので、毎日大声で話し、また食事中でも筆談が必要でしたが、それにはけっこう体力と気力が必要でした。しかしそれも今となっては大したことではなかった。病院通いはさまざまな科を必要としたので、随分と同行することとなった。そのときはこれで半日が、一日が潰れるなと思ったりもしたが、やがては自分もそうなるのだろう。リースで借りていた介護用ベッドをお返しするときに、「こんどは私がお世話になるときが来たときにおねがいします」と言ったけれども恐らくはそんな日も来るかもしれない。それといつの間にか義父の居城となっていた居間で過ごす時間が増えている。気兼ねせずに気楽に振る舞うことができる。
 やはりさまざまに遠慮をしながら暮してきたことを思う。遠慮を無くしたら義理の間というのはすぐに破綻を来すとわかっていた。だから遠慮し、我慢するところは我慢をしてきた。人情はある人物だったので我慢しかねるほど苛酷なことはなかったとも言える。
 しかしどうだろう、こちらが遠慮し義父に我慢していたのと同じぐらい義父もわたしに遠慮し私のさまざまな欠点を我慢していたに違いない、そう思う。

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コメント

maruseiさま
もしかすると、私が自覚していない私の心が、maruseiさんには見えたのかも知れません。
いま、何から、何を為すべきか、ただこれまで継続してきたものだけが、今自分にできることとして残っているのを感じています。凡人が創造の分野ができるのは、あと10年かと思っています。
ほんとうに有難う!!

投稿: 中ぶんな | 2011年6月 4日 (土) 11時07分

ただただ涙があふれて来ました。
ぶんなさんの心の空洞の悲しさを感じてか、自分の至らなさを感じてか、
あるいは、誰が先とも読めない死というモノに対しての覚悟なのか・・・?

何故なのかはわかりません。
ただ涙があふれて来ました。

投稿: marusei | 2011年6月 3日 (金) 23時50分

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