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きょうのことばー『刷新の御業を』ペンテコステ講壇 

 きょうはペンテコステ。聖霊降臨を記念する日です。礼拝前の姉妹方のお話しが感動的でした。すばらしい讃美です。午後にはみなさまでアフリカの病院に送るための包帯作りもしました。主牧のメッセージも食しましたが、これは観念的なようでお腹に落ちると観念ではなくなる不思議な“たべもの”、元気の出る“たべもの”なのです。そしてお昼はひろ子牧師が作ってくださった食材による食べ物を食べました。これでまたまたパワーアップ。プラス包帯作業あとのコーヒーで、いま時間もシャッキリ、まずまずこのとおりです。

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 さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の“たべもの”は、
説教題 『刷新の御業を』ペンテコステ講壇
聖書箇所 使徒の働き2:1~4

1 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。
2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。


 私たちはきょうペンテコステを迎えております。毎年のことではございますが、やはり確認をしておきますと、クリスチャンにとってイエスさまのお誕生日であるクリスマス、イエスさまが復活されたイースター、そしてキリスト教会が誕生したペンテコステ、この3つがたいへん重要な記念日となっています。
 さて、それではこの聖書に書かれております時代、ユダヤの人たちの大きな宗教的イベントは何だったでしょう。3つありました。その第一番目が「過ぎ越しの祭」です。神がエジプト全土に十の災いをくだすとき、鴨居に子羊の血を塗ってある家のものたちには裁きをくださずに通り過ぎてくださった、過ぎ越してくださった、これが過ぎ越しの祭の起源です。それはイエスキリストこそ神さまが備えてくださった過ぎ越しの子羊であるということです。罪と滅びの世界で、神さまの裁きの使いが例外なしに訪れるとき、まことの子羊であるイエスキリストの十字架の血潮を信じその中に憩っているものたちには神の裁きが過ぎ越されるという真理がこの過ぎ越しの祭にはあります。当時のユダヤの人たちは、この真理には気づかなかったでしょう。けれども私たちは、この宗教的な行事の意味をはっきりと見ることができるのであります。
 さてもう一つは五旬節であり、それがペンテコステと呼ばれている祭りでございます。ユダヤの人たちにとっては、初穂の収穫を神さまに感謝しお祝するところから初穂の祭りと言われ、これがペンテコステ、五旬節とまったく同じ意味でございます。やがてユダヤの人たちによって、この五旬節は、モーセがシナイの山で神から律法を賦与されたことを記念するものとして位置づけられるようになりました。ユダヤの人たちにとっては、十戒が賦与された記念の祭の日、このように見ることができます。それを心に留めながら、エゼキエルという預言者が、神さまが後にどのような恵みの業をなしてくださるのかを預言している聖書箇所を読んでみましょう。旧約聖書のエゼキエル36:
26、27節、
26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。

 このお約束は、使徒の働き2:1~4にあるペンテコステのできごとに成就されている、こう理解することができましょう。
 「五旬節の日になって、みなが一つところに集まっていた」とあるこの場所は、最後の晩餐がもたれたところ、そして,それは或いはマルコの福音書を書いた、富裕であったマルコという人の家の二階だったのではないかと考える多くの方々もあるようです。何れにせよ、一つところに、お弟子さんたちみな、ペテロたちが集まっていたときに、突然天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らの家全体に響きわたり、また炎のように分れた舌が現れて一人ひとりのうえに留まるとみなが聖霊に満たされ御霊がはなさせてくださる通りに他国のことばで話し始めたとあります。
 これはモーセがシナイ山において、直接神さまの指によって記されたあの十戒が賦与された出来事と並行的に理解される事件でございます。まさにユダヤの人たちが、あのモーセの十戒が賦与されたということを記念してお祝しているこのペンテコステのときに、あのエゼキエルが預言したように神さまが私たちの心の中に、石の板に書かれた律法ではない、神を心から愛し神に従って歩むことを喜びとするまことの神さまのほうが聖霊によって与えられた。これが、ペンテコステの出来事であります。つまり、過ぎ越しの祭としてユダヤの人たちが国民的にお祝をしていたそれは実はイエスキリストの十字架を指さしている。ユダヤの人たちが五旬節、ペンテコステとお祝していたあの律法の賦与、我らの民こそ神さまから貴い律法をいただいた選ばれた民であるという民族的な誇りであるそのモーセの十戒が与えられたそれに並行する真理として聖霊が天からくだされて私たちの心の中に、肉の心、石の心が取り除かれて新しいきよい心が私たちのうちに与えられる。律法の為し能わぬところのそれを与えてくださったという大きな恵みでした。
 三大イベントのもう一つは、「仮庵の祭」です。モーセはイスラエルの民をエジプトから脱出させ、40年かけて約束の地へと導いていきました。そのあいだ彼らは、神の導きの雲の柱、火の柱によって旅をし、そしてその途上、神さまは日毎にマナを与え続けました。我らはいま、乳と蜜とが流れる神さまが約束してくださったカナンの地に入るためにこの地上の旅路を歩んでいることを忘れないようにと、毎年仮庵の祭を、当時の木を組んでそこで一週間近く生活をし、これをずっと民族的に行っておりました。これは何を意味しているのでしょうか。私たちクリスチャンは、いまのこの地上生活がほんとうに定住するべきところではない。私たちは神さまが約束してくださった約束の地カナンへ日々歩み続けている旅人なのだ、そのことを忘れないように。イエスさまが天に備えていてくださるまことの住まいこそ行くべきところである。安住の地であり目的の地であり、私たちはそこに向かって地上信仰生活を行っていく、私たちはいまその途上にあるということを示し続けているのです。
 ある本によれば、この仮庵の祭というのは毎年行われますが、7年に1度、宗教的な律法を教えるのに非常に力を入れたそうです。我らはいったいどういう旅であるのか、我らイスラエルのユダヤの者たちはどういうものであるのかを徹底的に毎年繰り返し、そして7年に1度しっかりとした大きなイベントとしてそのこを行う。これがユダヤの人たちの仮庵の祭であると知りましたときに、きょう敢て本論からちょっと脱線するのですが、なるほどと思い出されたのは大震災の釜石でのことでした。数日前にNHKの番組に群馬大学で防災専門の研究をしておられる方が出ていました。今回の津波が起るはるか以前から、もし釜石に津波がきたとき、災害のときにはどう行動するべきかを、教育委員会の協力も得ながら子どもたちに徹底的に教えたそうです。釜石では学校に行っていた子どもたちは全員助かりました。それは防災教育の成果でした。その日子どもを学校にやっていたお父さんが、津波が来ることに気付き、車ですぐに子ども迎えに行かなければと思ったそのときに、防災教育を受けていた子供が、「お父さん、もし万一津波がきた場合に、僕たちは僕たちで必ず逃げるから、お父さんは僕たちのことを気にしないでとにかく逃げるように、そう僕たちは教わっている。だから僕たちのことは大丈夫だ」、こう家で言っていたのを思い出し、子どもは逃げていると思い直し、すぐにそのまま逃げて助かったということです。この番組を見ながら、教育ってこういうことなんだと思いました。ユダヤの人たちの教育というのはこれだったと。こんな教育が毎年繰り返されていた。我らはアブラハムの子孫であり、我らは神の選民である。これを学校はなかったでしょうから、過ぎ越しの祭、五旬節、そして仮庵の祭のときに教わっていたわけです。そしてこの三大祭が
わたしたちクリスチャンにとっても大きな意味のあるイエスさまとの関わりなのだということを覚えておきたいと思うのです。
              ーつづくー

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(※以下は月曜日に書き足しました)   

 このペンテコステを迎える以前、何回かに亘りまして、私は、イエスさまがいま天において何をしておられるのか、大祭司としてとりなしの祈りをしてくださる、仲保者としていま神の御前に現れていてくださるのだということを心に留めたことでした。イエスさまが十字架の贖いを成し遂げ甦られそして天に帰っていかれた。そして私が天に帰っていったのならば、約束の聖霊をあなた方に与えるからあなた方はそれまで都に留まっていなさいとイエスさまはお約束をなさいました。ということは、これを逆に考えてみると、聖霊が来た、与えられたということは、贖いを成し遂げられたイエスさまがほんとうに天の父なる神の右の座に着座された、そのしるしであると見ることができます。つまり、イエスさまの救いの御業というものをこのペンテコステの出来事から考えてみると、見事に全部完璧に成し遂げられましたというそのしるしとしてこの出来事が生じた、こう見ることができるのではないでしょうか。ヨハネ7:37~

 37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 この時点では十字架の贖いがまだ成就されていません。イエスさまが十字架の贖いをなされ、そして復活をされ、天に帰って使徒の働きの2章のときになってようやく聖霊が弟子たちみなに与えられた。イエスさまがまだこの世におられた仮庵の祭そのときに、人々が神殿の下から出る水を求め或いはシロアムの池から汲まれてお祝をしているところの水を指さしながらイエスさまが、あなた方がいまこのような水を記念し祝っているけれども、しかし誰でも渇くならばわたしのところに来て飲みなさい。私を信じる者は聖書が言っているとおりその人の奥底からいまあなたがたが祭で象徴的なものとして使っている水ではないその人の心のなかから生ける水が川のように流れ出るのだ、そしてこのことをヨハネは後になって解説しているわけです。39節はその意味において後になっての解説です。「信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ 栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかった」ということは、いま私たちはイエスさまが栄光を受けられたので、あのペンテコステのときに豊かな聖霊をお降しになった。あなた方はいま命の水をその心のうちに十分にいただくことができるんですよとイエスさまが言っておられるわけです。わかりやすい別なたとえでいうならば、いまT兄弟が仮設住宅の建設で全力を尽くしておられますが、このペンテコステの出来事はもし譬えでいうならば、天にあるところのまことの生ける水がたしかに配管工事は全部おわりましたと、その証拠としてこのペンテコステの使徒の働きの2章のときにそこから溢れるばかりの聖霊を水に例えたら申し訳ないんですが、しかし敢てヨハネ7章のおことばでいうのならば、生ける水が川々となって注ぎだされてきた、それが使徒の働きの2章のこの出来事だったのです。聖霊が豊かに豊かに注がれた。配管工事はイエスさま全部これで完成しました、はい、その証拠としてこれだけの水がふんだんに与えられていますよ。これで配管工事完成の記念式典のようなものです。すると先生、では私の心にも配管工事は完成しているのですか? そうです。それは私自身を含めてみなさま一人ひとりに配管工事が完成している証拠がこれなんです。ペテロさんやそのほかのお弟子さんたちには完成しているが、あなたはちょっと待ってくださいなどと言うことではないのです。ほんとうにこのときに、イエスさまは全部完成したのです。では私たちの心に生ける水が川々となりて流れいずるという経験がもし無かったとすれば、どこが問題だと思いますか。蛇口を開いていないからです。蛇口を開きさえすれば神さまの側ではぜんぶ終わっているのです。その証拠としてこれだけのものがあったのですから。同じように、あなた方にもこのことが約束されてもう終わっているのです。さあ、あなたも信仰をもって蛇口を開いてご覧なさい。神さまの恵みが溢れる。ヨハネ7:38に神さまは約束しておられます。

38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 先生、開いたのですが、ちょろちょろとしか出てきません。ならば掃除しましょう。中に錆がついているかもしれない。水道屋さんを呼んで配管を取り替えて貰えばいいかもしれない。そうです。錆び付いている理由は、罪を犯して、或いは漏水してしまっているのなら、せっかく神さまの側でぜんぶ準備ができていても、私たちの側に問題があるとすれば、それは罪の故の障害なのか、或いは不信仰の故のひび割れで水が漏れてしまっているのか、それは神さまの側の問題ではない、私たちが主の前にほんとうに悔い改めて、主よ、あなたが約束しておられるこの恵みを何としても自分のものとしたいのです。へりくだって出ていないように出ていないのに出ているように振る舞うこともせず、また出ていないということを恥ずかしくて人の前にいえないようなそんな面子も何にもいらない。神さまの前に、主よ、あなたがこのペンテコステのときに約束してくださったその恵みをいま私はひつようとしています。あなたの備えは全部できています。どうぞ私にお約束の御霊をいま降してください、くだかれてほんとうに素直に主の前に出ていこうではありませんか。へりくだって主の恵みを求めるものに、主は測り無く弟子たちに、そういうのを待っていたよ。神さまは出し惜しみなさるかたではないのです。神は喜んでいつでも与えたく願い待っておられるのです。ー了ー

※割愛した部分もあります。 文責:中ぶんな

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