きょうのことばー『三つの涙』 その2
※このページは、きのうインマヌエル盛岡キリスト教会で語られたメッセージの続きとなっております。
『三つの涙』がきょうの説教題ですが、ゴスペルシンガーの岩淵さんが仰る『父の涙』がまず第一です。イエスさまが十字架にお架かりになったルカ伝23章44節をみますと、
44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
45 太陽が光を失っていた。
とあります。このときがまさに天の父の涙の時であったでしょう。そして、二つめの涙、それはイエスさまご自身の涙であると思います。ヨハネの11:35には
35 イエスは涙を流された。
これだけぶ厚い聖書のなかでいちばん短い節、それがこのおことばです。深いものを感じることです。イエスさまは私たちの置かれている状況、持場、立場をよくご存じでそこに同化し、私たちと一つとなってくださり、私と一緒に涙を流してくださる。この事実を信仰の目をあげて認めることができたならこれ以上のものはもうけっこうです。みなさんもニュースで津波の被害を見ています。そしてみなさんが実際にその場に身を置いたときには溢れる涙を抑えることができない。私たちの仲間が私たちの知っているあの場所で、これ以上ないような大きな悲しみ苦しみの最中にあることを目の当たりにしたときに、私たちは溢れる涙を止めることができません。イエスさまが泣いてくださるとはどういうことでしょうか。イエスさまが大きな悲しみを表現されるとき、「腸がよじれる」という言葉を使っているそうです。イエスさまが私たちのために涙を流されるとき腸がよじれる。その事実だけで私たちは大きく慰められます。励ましとなります。力となります。私たちは二つめの涙、イエスさまの私たちに注がれる涙というものをこの朝しっかりと心に留めたいと思うのです。「我らの大祭司は我らの弱きを思いやること能わぬものに非ず」。すべての点で兄弟たちと同じようになってくださった。だから試みられる者たちを助けることがおできになる。諸々の天を通られたこのお方がいま私のために涙を流していてくださるのです。
私たちのために流される涙は、天の父なる神の涙、愛するひとりごを私たちの罪のために送ってくださった最愛の御子イエス・キリストをこの世に送ってくださった父なる神の涙。また主イエスさまは、ほんとうに私たちと一つとなって、貴い涙をともに流してくださるお方です。ヘブルの書にも、「彼は御子なれど大いなる嘆きと涙によって」とあります。ゲッセマネの園でイエスさまが血の汗を流されたあの涙です。イエスさまの涙というこの一つを取りあげても何と大きな恵みを与えてくださるものでしょうか。イエスさまはこの者を救ってくださるために、父なる神さまから捨てられることをも覚悟していたのです。そしてできるならばこの苦い杯を私から取り除いてくださいと願いもした。しかしイエスさまの望むところではなく、父なる神さまの御心をなしてくださいと血の汗を流し、大いなる叫びをもって流されたあのイエスさまの涙があるからこそ、私たちのいまの救いがある。何という貴い涙をイエスさまは流してくださったのでしょう。私たちの苦しみ悲しみに同化してくださる涙、それとともにいや、イエスさまのゲッセマネの園に於いて流してくださった私たちを救わんとして父なる神さまから捨てられることをもよしとして、流された涙であるということを覚えたいと思うのです。
父なる神の涙、御子の涙、当然それでは聖霊の涙という表現ができるのだろうか。聖霊の涙という言葉が聖書のどこかにあるようで、検索してみますと、万一見過ごしていたならお詫びしなければなりませんが、聖霊の涙というのは見つかりませんでした。しかし「聖霊の涙」はおそらくあるだろうと思うのは、御霊が「言い難き嘆きをもってとりなしてくださる」というような表現、或いは、「御霊の呻き」、「御霊を悲しませてはいけない」などという表現から類推すると、「聖霊の涙」をあげることは或いはできるのだろうと思い巡らすうちに、はっと気づいたところがありました。それは十字架の救いにあらわされたこのうえない神さまの御愛に、そして汚れ果てたわれをさえも神は赦して受け入れてくださったという救いの喜び。そこから来るところの涙。救われた者たちがイエスさまの十字架の愛にほんとうに喜びと感謝をもって体験する溢れ出る涙。これを聖霊のくださる涙と表現してこれは間違いではない。そうです。聖霊という神さまはあのゴルゴダの十字架、カルバリの十字架、あのイエスさまにおいてなされた恵みの御業は「ほらあなたの罪の赦しのためだよ、神はこれほどまでにあなたを愛していてくださる」ということを、聖霊さまが私たちに示してくださって、この聖霊によるところの罪の覚醒、自分がいかなるものであるのかということを示され、聖霊によってイエス・キリストの十字架を示され、そして「御霊ささやくなぜためろうや」と「血潮に飛び込んでご覧、さあ、あなたのために用意されているその救いのところに飛び込むんだ」と示し続けてくださる十字架の愛、これはみな聖霊に感じた者だけが、経験的に知ることのできる恵みの涙なのではないか。御霊の与えてくださる涙、それは罪人がほんとうに主の前に十字架を示されその救いの恵みの中に入れられたときのその涙、それは聖霊が与えてくださる涙と言って間違いではない。こう思いました。
そんなときに一つの例話が思い出されました。もう2、30年も前に読んだ本にあったのですが。
天国から追放されたビリーという妖精がいました。ビリーは、もし地上にある最も貴いものを持ってきたならもう一度お前のために天国の扉を開けようと言われる。ビリーは地上におりていった。彼は一生懸命地上で最も貴いものを探し回ります。そして一つは自由のために命を捧げた若い兵士の心臓の血を取って持っていったが、天国の扉は開かれなかった。こんどは愛する恋人を失おうとしている若い女性の涙を一滴貰ってもっていった。ダメでした。こんどは、極悪人の悔い改めの涙を天国に持っていった。すると天国の扉が勢いよく開きました。
忘れられない例話の一つであります。天国に於いていちばん貴いものは、それはほんとうに罪を悔い改めたその涙です。これが天国に於いていちばん貴く受け入れられるものとするならば、私たちはあのイエスさまの十字架の恵みをいただいたとき流したあの悔い改めの涙、またその十字架の恵みの故に溢れ出るところの感涙、それこそ天国に於いても最も相応しい者であり、そしてそれこそ聖霊が私たちに与えてくださるところの貴い涙に違いない、こう思うのであります。
詩篇126篇を読んで締め括りましょう。
5 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
十字架の救いの尊さがわかったなら、こんどはまだ救いに与っておられない方々のために、涙を流し種入れを抱え出て行きましょう。大先輩の器がここから、語られたことは、救霊の種、即ち神の言葉をあなたの涙によって潤し、あなたの涙によって種が芽生えるようにして出ていきなさい。その涙をわたしたちも流させていただきたい。私自身このような涙を流してこのご奉仕に当たらせていただきたいと願うことでございます。きょうは「三つの涙」というテーマで父の涙、御子の涙、そして敢て聖霊の与えてくださる涙。どうぞそれを持って御言葉を持って出ていくものであらせていただきたいと思います。
※若干割愛し編集してございます。文責:中ぶんな
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