きょうのことばー『天に座する主イエスの御業』その1
空からはいまにも雨が落ちてきそうでしたが、そのような空を仰いで十字架はきょうもしっかと立っております。
変わることなくインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)では國光勝美牧師がキリストによってきよめられ、天の御国にはいることができる事実を説かれました。
説教題 『天に座する主イエスの御業』
聖書箇所 ヘブル書9:23~28
23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
25 それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
イエスさまが復活され天に帰られると間もなく、天から聖霊がくだるペンテコステがありますが、イエスさまは、そのペンテコステを控えて昇天しておられる、そのところに焦点を合わせての聖言(みことば)の連講を取り次がせていただいております。
さて、みなさんに二つの質問をしてみます。一つは、復活された主イエスさまはどこにおられますか? そしてもう一つは、いまあなたにとって主イエスさまはどこにおられますか?
似たような質問です。最初は、復活された主イエスさまはどこに? そして、いまあなたにとって主イエスはどこに? 鍵は、「いまあなたにとって」にあるともいえます。結論的には、「あなたにとってどこにいますか?」を確かに捉えていただきたいわけです。そのための前提として、復活された主イエスさまがどこにおられるかを、聖書の記述の中から確認することが必要です。
宗教改革で有名なマルチン・ルターの有名なエピソードがあります。彼が落ち込んでいたとき、妻のケーティが真っ黒な喪服を着て現れました。ルターーが、「誰が死んだのだね」と訊くと、「神様が死なれたのです」と答える。ルターは驚いて、「そんなはずはないじゃないか。神様は永遠に生きておられるお方だよ」というと、妻は、「でもマルチン、あなたを見ていると、すっかり失望していらして、神様が死んだと思えるんですもの」と言ったというのです。ルターはともにいます神さまを再認識し信じまた立ち上がりました。
ここで気づくことは、どんなに信仰生活を懸命に送っていようとも、試練、困難に遭い、いつの間にか信仰が意味を持たなくなっていることがありうる。ルターだけではありません。だからこそ、あなたにとって主イエスはどこにおられますか? このところを捉えていただきたいのです。エペソ書1:19、20には
19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
ヘブル書4章に「もろもろの天を通られた偉大な大祭司」とあるように「もろもろの天」と記されているところがあります。また、このエペソ書1:20を見ますと、天上においてご自分の右の座に神さまがイエスさまを着かせてくださった。すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。とあるように、超越者としてのイエスさまのスケールのすごさ。神の右に座しておられるイエスさまです。
いま主はどこにおられますか? という質問に対しては、エペソ1:21をその根拠として、「はい、主イエスは、全能の神の力によって諸々の天を通って、しかもいまの世だけではない、来るべき世、それを突き抜けて、天に力ある右の座に座しておられるお方です。」と答えることができます。オリーブ山から天に帰っていかれたイエスさまが、いまこのようにあられるということを、先ずしっかりと心に留めたいものでございます。
ヘブル9章に帰りましょう。
23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
これは旧約の知識がありませんと、すこし難しいところです。昔イエスさまのいらっしゃる以前のユダヤの人たち、聖書は、神さまを礼拝するために、幕屋を設けました。幕屋というのは、神さまの臨在を象徴する。神さまは、いにしえにモーセという人物を通して、まことの天にある幕屋を投影するかに、本物の影のようにそれをこの世に示して、神さまの臨在を私たちにわかるようにしてくださいました。
先週、スクリーンを例にして平面世界に生きている人、それから立体のように私たちはその世界と違った次元にいるものであるとしてお話をいたしました。こちらの方にイエスさまが帰っていかれた天にあるまことの実体まことの幕屋神さまの臨在があり、そのものが私たちにわかるような形に於いて、これに光が与えられ実体の影が平面に影として映る。このようにして示された、これが神さまの臨在を象徴する幕屋であることを教えてくれる。きよい神さまのまえに、私たちが罪を犯したままでは到底受け入れられるものではない、そのことを私たちによく分かるように、神さまは、あなたの罪の身代わりに、神に近づくときには動物の血を生贄として捧げよと仰る。それは血を流すこと無しには人は神の前に近づくことも立つこともできないことを私たちの世界に知らせてくださるため、そのことを代々にわたって示し続けてくださったのであります。しかし動物の血はどれほど流してもそれはほんとうの人の罪を贖うということはできない。そこで、まことの神の御子がこの世界に住む者の中に入ってきてくださった。だからこれは奇蹟としかいいようがない。罪のないお方が私たちと同じ罪の世界に入り込んできてくださり、そして動物ではない、御子のとうとい血潮を流して、私たちが神に罪が赦されて受け入れられるように、十字架の血の贖い、救いというものを成してくださった、そのところの背景がこの9章の23、24節です。もう一度読みます。
23 ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。
24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。
私たちの世界では、まことの実体の影のような模型のようなものでしたけれども、大祭司は年に一度生贄の血を携えて、神の臨在の象徴、神の臨在のある至聖所に入りました。大祭司だけが入ることができます。ほかの者たちは外で待っている。大祭司が神に受け入れられている場合には動きますので音が聞こえてくる。しかしもし音が聞こえなくなったときには、大祭司が神のきよい臨在のまえに粗相をし、死んでしまった場合で、それでもほかの者が入るわけにはいきませんから、綱を持って引っ張って遺体を回収するというようにしなければならないほど至聖所での決まりは厳格でした。イエスさまのここでの贖いの御業を私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。
それを類推してゆきます。イエスさまが、「わたしは贖いを成し遂げて天に帰ってゆく。そして私が天に帰ったのならば、あなた方にもう一人の助け主である聖霊をあなたがたに与える。だから私がこの世を去って、あなた方から離れて行くのはかえってあなた方には良いことなのだ」とヨハネの福音書の中で語っておられるのは、そういうことなのです。これは、うるわしい逆説なのです。人間的には、イエスさまが、あのような形で去ることほど悲しい辛いことはない。しかしイエスさまは、「そのことこそ、もっとあなた方といつも一緒にいるために必要であり、天に帰っていって、それからあなた方に聖霊をくだす」というのです。類推といいましたけれども、あの使徒の働きの2章のペンテコステのできごとは実際にあった。十字架の贖いを成し遂げたお方が、天にあるまことの聖所に入り大祭司としての務めを受け入れられて父なる神さまの御座に着座された。それだからこそ、その結果として聖霊がこの世にくだされた。イエスさまは、このように、天にあるまことの神の臨在の至聖所にご自身の血潮を携えてどうか私の贖いを信じた者たちの罪を赦してください、私の血に免じて彼らを受け入れてくださいといわれる。そしてそれは、父なる神さまの要求を悉く満足させて余りあるところの業であり、イエスさまはこれを成してくださる。ヘブル9:25から、
25 それも、年ごとに自分の血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。
26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
そして大祭司として私たちの罪の贖いを天に帰って全うしてくださった。それゆえに私たちは受け入れられることができます。
27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように
ここは極めて淡々と当然のこととして書かれているわけですが、ここに牧師の体験をひと言付け加えますが、
私はいま64歳。38年前に教会を開拓して、まもなく、チラシを見たある69歳の姉妹が来会されました。お話しをする中で姉妹が、「先生はまだお若いから私の気持はわからないでしょうけど、わたしはいつ天に召されても恨みっこ無し。だから死を解決することは自分にとってほんとうに大きな問題です。でも先生には私の気持は分からないでしょうね」と仰ったことを今でも思いだします。最近になってこの姉妹のお気持ちがすこし分かってきました。いつお呼びがかかっても恨みっこ無しなしというのは、それ相応に齢を重ねた者の考えであり、若いうちはどうしても思索の問題でしかない場合が多い。それは兎も角、もう死がそこに迫っているというときには、これはもう思索の問題ではなく現実の問題です。そんときに自分の罪が赦されているかどうか、神の前に立つことができるかどうかがうやむやであることには耐えられない。しかし、これほどはっきりと、神の前に受け入れられるために神の御子の血潮が与えられ、それを信じる者に聖霊が与えられて、あなたの罪が赦されている、わたしはあなたを愛している、心安かれ汝の罪赦されたりということばが確信としてあるときに、ですから最初の質問でいえば、いまイエスさまはどこにおられますか? はい罪の贖いを成し遂げて神の御座についておられます。いまあなたについてイエスさまはどこにおられますか? はい、イエスさまは私の心のうちにいらっしゃいます。それは「私が去ることはあなた方にとって益である」というあのヨハネの書にあるおことばとそのことの故に一層天国まで永遠の命が私のものとして現実のものとして受けることができるようになる。
使徒の働き7:54~を読みましょう。これはステパノの殉教した場面です。あなたがたが十字架につけたこの方こそ救い主だったのだ、とステパノはあのユダヤ人たちをまえに話しました。そしてあなた方はいつも神さまに逆らっているのであることを諄諄と説き、ついに話はクライマックスへとつづきます、
52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
必要があれば神さまはこのものたちの目を開かせてくださる。啓示の幕を開けてくださるときがある。この世界に生きているものにしか分からないけれども、天がひらけて、という表現があるのはまさにそれなんです。神さまは、こちらの世界のことが分かるように天を開いてくださった。そのときにステパノが見たのは神の栄光と神の右に立っておられるイエスさま。そして言いました。
「見なさい天が開けて人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
いまイエスさまは何をしておられるのでしょうか、どこにおられるのでしょうか。天におられるお方はステパノに私たち一人ひとりをご覧になっておられる。大祭司として私たちの罪を贖ってくださったお方は、天に於いて私たちのことをほんとうに見ておられる。わたしたちにはいま天が開かれておりませんけれども、しかし神さまは必要とあらば、天を開いていまイエス様が何をしていてくださるのか。ステパノのことをよくご覧になっておられたお方は、神の右に、どうでしょうか、座しておられたのでしょうか。いいえ立っておられたのです。イエスさまは、神の右の座に座しておられたお方なのに、立ち上がってステパノを見守っておられる。60節を見ると、ひざまづき、大声でこう叫んでいる。主よ、この罪を彼らに負わせないでください。まさにイエスさまが十字架で叫ばれたとおなじような叫びをもってステパノの霊は栄光のうちにイエスさまのもとにあげられていきました。ヘブル書に帰ります。ヘブル4:14
14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
大祭司というのは別の聖書のなかでしばしば仲保者、仲立ちをしてくれる者であります。ある著書にはこの仲保者、大祭司というお方は、「神のために人々を得、人々のために神を与える働きのあるもの」とあり、端的に言い表しているなと思いました。「神のために人々を得、人々のために神を与える」、それが仲保者。またはそれが大祭司としての立場なのだというとき、まさにイエスさまは私たちのために神が与えてくださった仲保者。そしてイエスさまは私たちの弱さに同情できない方ではない、ぜんぶ私たちとおなじような在り方、人としてつぶさにこの世の歩みを経験されたお方は、「分かるよ、分かるよ」と言いながら神さまの前にわたしたちをとりなしていてくださる。ですから、私たちは憚らずして大胆に恵みの御座に主イエスさまの血潮のゆえに近づくことができるのであります。
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