きょうのことばー『回復の復活』 その2
※前ページのつづきとなっております。5月1日のインマヌエル盛岡キリスト教会で語られたメッセージを2回に分けて掲載しております。
先ず一つめは、弟子たちが、失意の中でイエスさまに出会った、このことです。彼らにも非常な失望、落胆、そういった人生の中の最も大きな挫折を経験しているときの出来事です。この弟子たちの経験を、大きな災害に直面した私たちの仲間、或いは私たち自身のこととして置き換えてみるとよく分かると思います。自分の人生を賭けていたものが全部崩れ去ってしまった現実に、このお弟子さんたちは直面したのです。かつてないほどの喪失感、頼りとしていたものが無くなってしまった。その中でようやくリーダー格のペテロがみんなを鼓舞して、こんなところでうじうじしてたってしょうがないじゃないか、漁に行こうよ、そうしたならば、といって何とかそこで回復を図っている。ところが元気になろうと、良かれと思ってやったその働きでもかつて経験したことがないほど一匹も魚がとれなかった。これはどうでしょうか、私たちはこのお話しをすでに始まりから終わりまで知っていますから、その角度から見るとむしろ興味深いのですが、これはイエスさまがそのようにされたというように見てとるべきでしょう。、このお弟子さんたちが漁に出たときに一匹もとれないようになさったのは、すべてを支配しておられるお方イエスさまなのです。ですからそういう面から見ると、とれていますか?と訊くのではなく、何もありませんねと訊かれることの意味合いには、またすこしユーモアを感じるのです。
つまり、支配しておられるのはイエスさまであるという事実に、弟子たちは徹底的に向き合わされたということなのです。これは非常に大きなことです。イエスさま無しの人生というものがどんなに虚しいものであるのか、そのことを徹底的に弟子たちに知らせようとなさったのです。そうです。人生の中で自らの無力、挫折、それを徹底的に知らされるということは実はイエスさまに出会う最もよいチャンスになるのです。また出会う、回復するチャンスがあるからこそ、イエスさまはこのようになさったわけです。私たちの信じている聖書の神さまは、私たちが失望、落胆、挫折を味わうときにそれを意味のあるものとして直面させてくださる。そして、
イエスは彼らに言われた「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
とヨハネ伝21章5節にあるように、その事実を言い訳もせず、何にもありませんと告白するのをイエスさまは待っておられる。そのようにこのところを捉えることができた人は幸いだと思います。主よ、私の人生はあなた無しには何もありません。そのとき、どこにこのお方は立っておられるのでしょうか。イエスは岸辺に立っておられた。岸辺、これは霊的に、比喩的に解釈することは私はいままであまりしたことがありません。岸辺というなら岸辺なのだと、第一義的に理解するべきでしょう。しかしきょう敢て、イエスさまが岸辺に立って弟子たちに語られたということには大きな意味があると申し上げます。それは海と陸との境界線です。イエスさまはいつでも境界線に立って私たちを見て、こっちだよ、とお声をかけてくださる。失望、落胆、挫折という海の中にあるときに、イエスさまはいつも陸地のちょうど境目、失望と希望という岸辺に立っておられる。死と命というちょうどその境界に立ってイエスさまは弟子たちに声をかけてくださる。
そしてお弟子さんたちに、右側に網をおろしてごらん、こう仰るのです。6節のイエスさまの御言葉「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」を見ますと、弟子たちはこれまで舟の左側に網をおろしていたのです。
これは講壇から又聞きしたことなのですが、ふつう左側に網を打つのが漁のやり方で、右側に打つものではないそうです。それが印象的にあるものですから、漁というのは左側に網を打つものなのだとずっと思ってました。ところがこれを準備していたときに、身近な人の面白い文章に触れたのです。私たちが神学院で学んでいたときの先輩で、インマヌエル教団ではなく日本宣教会から委託生としてインマヌエルの神学院で勉強しておられた先生でした。その先生がイスラエルに旅行したときの記録です。やはりガリラヤ湖を訪れていらっしゃる。舟に乗ると、ガイドの方が右側に網を出したといいます。イエスさまが仰ったから右側に網を下ろしたのでしょうが、なかなか魚がとれなかった。こんどは左側におろしたらいっぱいとれたというのです。果たしてこれは聖書的だったのかなどと書いてあり、面白い旅行記でしたが。
イエスさまは仰った、舟の右側に網をおろしなさい、そうすればとれます。つまりこれまで左側に網をおろしていたのでしょうが、ここでこれまでとは違った方法をイエスさまが示された。このとき弟子たちは、誰の言葉かもわからない、そんな話は聞くものか、という態度もとれたかもしれません。しかしこのときペテロたちは、不思議な人物のいうことに促されて素直に右側の方に網を下ろした。そして夥しい魚をとることができました。これを敷衍して当てはめてみるなら、イエスさまのお声に従ってこれまでの生き方と違った生き方をするときには、主は大いなる御業(わざ)をなしてくださる。このように味わうことができるかと思うのです。
この6月に岩淵まことさんのコンサートを開くことになっています。ちょうど3・11のことも落ち着くのでしょうか。この6月のコンサートのことがずっと心にあります。例会で話し合いを持とうとしておりますが、それとこの6節の言葉とは非常に大きな励ましとなりました。いままで私たちが企画したことのない方法なのです。しかし主の御前に、何もありません、と、ほんとうに事実を認めて言い訳をしないで岸辺に立たれるお方のお声に従って網をおろしてみよう、このお方のいうことを聞いてやってみよう、主が備えてくださる。主が網に入りきれないほどの大きな祝福を与えてくださることを私たちこのヨハネ伝21章から見ました。ポイントはヨハネ伝21章7節にあります。
「主です。」
この不思議な方がよみがえりの主であることを、私たちはしっかりと受けとめることです。
イエスの愛されたあの弟子というのはヨハネの福音書を書いたヨハネ自身であります。ヨハネはペテロに言いました。先生だ、主だ。
私たちは3・11を経験しました。大きな挫折を、或いは失望を喪失を経験したかもしれません。でもそのときよみがえりの主は自ら近づいて、その中にある者たちにお声をかけてくださる。「現状はどうだね?」、「はい、ありません」、「よしならば右側に網をおろしてごらん」。主はガリラヤの魚たちにちゃんと命じられるお方です。私たちがこのときよみがえりのイエスさまをしっかりと認めることができたならば、これは大きな大きな回復、祝福になるのではないでしょうか。
※編集上割愛した部分もございます。文責中:ぶんな
| 固定リンク
「教会」カテゴリの記事
- きょうのことば『どうぞ披露宴においでください』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.18)
- きょうのことば『福音を一緒に届ける同労者として』ー木山キリスト教会 松尾献牧師の説教ー(2025.05.11)
- きょうのことば『イエスは手と脇腹を彼らに示され』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.05.04)
- きょうのことば『聖書を、まだ理解していなかった』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.27)
- きょうのことば『わたしとともにパラダイスに』ーインマヌエル秋田・盛岡(兼牧)キリスト教会牧師 神谷光一師の説教ー(2025.04.20)
コメント