きょうのことばー『偕におられる主イエス』-その1
さてきょうのインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019ー646ー2924)國光勝美牧師のメッセージは、
説教題 『偕におられる主イエス』
聖書箇所 マタイ伝28:16~20
16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
イースターを2週間まえに越えました。こんどは教会の誕生日であるペンテコステですが、ことしは6月12日となっております。復活からペンテコステまでのあいだ、イエスさまはよみがえられたご自身を何回も弟子たちに示されました。
今日お話する場所はガリラヤ地方です。日本の中心が東京だとするならば、東京に相当するのがエルサレムです。そしてガリラヤ地方は仙台もしくは盛岡といったところでしょう。ガリラヤは中心から離れてはいますが、ローマ兵が移動するときには支障を来さない程度の道路事情は整っている。ですから片田舎というのでもない。このような地方、たとえるなら東京といった大都市ではなくむしろ東北といった地方でイエスさまははじめて公に伝道活動をした謂わばイエスさまのホームグラウンドだったのです。
さてもう一つ。16節に「イエスの指示された山」とありますが、さてこの山はいったいどこでしょうか。聖書に親しんでいてさえ間違えることがあります。よみがえられたイエスさまが弟子たちの見ているまえで天に帰ってゆかれた山があります。オリーブ山です。ところがそのオリーブ山はエルサレムの近くの山なのです。ここはガリラヤですから絶対にオリーブ山ではないのです。しかし往々にしてオリーブ山であると錯覚をしていることがあります。オリーブ山ではないことを覚えておきましょう。
では「イエスの指示された山」はどこなのでしょうか。手元にある資料には不明とありました。しかし候補地を幾つか類推することはできます。マタイ伝5章1 節、
この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
ここに「イエスは山に登り」とあります。そして以下には有名なイエスさまの山上の垂訓が書かれています。
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
イエスさまがこの親しまれている山上の垂訓をされたのはガリラヤ地方の山でした。イエスさまがマタイ伝28章の最後を語られたのもこの山であったのではないか。これは十分に説得力がある。マタイ伝5章のガリラヤはイエスさまが初めて伝道を開始し、しかも山上の垂訓という心に刻まれる説教をしたところです。マタイ伝4章の最後を見ると
23 イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。
25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群集がイエスにつき従った。
そして5章1節には
この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
とあり、この次には有名な山上の垂訓といわれる名説教がつづくわけです。ですからよみがえられたイエスさまが、あそこで大切なはなしをしますよと語られたその場所、舞台とすればガリラヤの山の上が相当すると考えられる。弟子たちがガリラヤであうようにイエスさまが仰ったのはこの山ではないだろうかと言われるのにも納得がいきます。
またヨハネ伝6章にある5000人の施食の奇蹟が行われた山も候補として挙げられていることを入れておいたならばよろしいでしょう。
イエスさまが語られたマタイ28章20節の中できょう心に留めたいのは、
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
この一点なのです。よみがえりのイエスさま、お弟子さんたち、或いは、この時代にあるいまの私たちにこれを当てはめて差し支えございません。イエスさまは皆さんに、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」、こうお約束をくださいました。「あなたがたとともにいます」、これはギリシャ語で「エゴ・エイミー」といいギリシャ語の中でも非常に強いことばで「わたしは…である」という意味です。つまりよみがえられたイエスさまがいちばん強いことばとして、「わたしはどんなときでも、いつでもわたしはあなたと一緒にいます」。このように非常に強いことばで約束をしていてくださる御言葉がこれであります。そうです。よみがえられたイエスさまは、いまでも、私たちがどんな状況に置かれたとしても、そこにわたしはいる。わたしはそこにいる、こういうお約束のことばであります。
先ず場所的なことを考えていきましょう。或いは環境的なことを考えていきましょう。自分はひとりぼっちだ、自分ほど孤独なものはない、このように思うときがありませんか。誰もわかってはくれない。世の中の人たちがみんな自分を捨てていってしまう、そのように思うときはないでしょうか。実はパウロという人も、彼はイエスさまに忠実に福音のために仕えたひとでした。しかし後に殉教します。そのときに彼は仲間だと思っていた者たちから次つぎに裏切られていきます。みんな自分を離れていってしまうのを経験します。テモテ第二の手紙、これはパウロの殉教直前の手紙なのですが、こうあります。
16 私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。
18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、見栄えがとこしえにありますように。アーメン。
ここに、世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます、というイエスさまのお約束のことばが、まさしくその通りであると納得させてくれるものがあります。
ー次ページにつづくー
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